●真田紐ってどんな紐?
雑誌・テレビを含めて、よく「真田紐」と「組紐」を混同されている方が多いのですが、真田紐は
組紐の一種ではなく、独立した一つの紐種で、作り方も使い方も異なります。
三つ編みの様に複数の縦糸だけを丸台などを使い、斜めに糸を交互に組んで紐にしてゆく
「組紐」※に対し、機(ハタ)などを使い縦糸と横糸で平たい紐状に織ってゆくものを「真田紐」
と言います。「組む」のではなく「織る」のです。
要するに真田紐は織物なのです。最狭で6mm程度ですからおそらく世界で一番狭い織物で
あろうと言うことができます。
織物でも西陣織や金襴などとの違いは、それらは横糸で柄を作るのに比べて「真田紐」は縦糸を使い
柄を作ります。
また、通常の織物の幅に必要な本数の倍以上の正絹や木綿の撚り縦糸とそれを支える木綿撚り横糸
を使い、横糸を引いて横方向を圧縮し、縦糸を張って打ち込みを強く打ち込んで縦方向に圧縮し縦横
から圧縮して織ることから縦に引っ張る力に強く、伸び難く非常に丈夫な紐が出来上がります。
元々は一重織でしたがより強くする為に袋織りという独特な織り方もします。
その丈夫さから古代より武具として、又、色々な生活用具に密着して使われてきました。
その強さを利用し、昔の武道の逸話には敵に刀で切りつけられた時、サヤにつけた真田紐の
下げ緒で敵の刀を受け止め、なおかつ紐を絡めて奪い取る。または首を締めるという戦法も
あったそうです。
※(通常は断面が丸型が「組紐」で、リボンのように薄い板状の断面のものが「真田紐」ですが、
掛け軸の紐など平組の組紐もあります。紐の目が斜め、若しくは、菱形点状のものが「組紐」、
横段になっているものが「真田紐」です。)
組紐と真田紐の比較
←組紐(丸組) ←組紐(平組) ←真田紐(袋織) ←真田紐(一重織)
●伝 来
組紐はシルクロードから中国の宮中に入り日本の宮中に伝来した主に絹製紐で古くから宮中や神社で
使われる紐です。
実は宮中の紐である組紐は宮中の文書や御物から伝来時期やルートなどがある程度分かって
おりますが真田紐は武士・民間の紐でありますので書物などから記録を辿る事があまりできません。
ですので現存する伝承工芸品や伝承を辿っての推測となりますので予めおことわりしておきます。
真田紐は、戦国時代の武将、真田幸村が作り始めたと言われておりますが、実はその歴史はもう少し古く
鎌倉・平安時代位に現在のネパールなどで作られていた獣毛を使った細幅織物である「サナール」
が後の商業ルートになった南方仏教の伝来路を伝い仏典やインド更紗など交易品を縛り共に海路日本に
伝来したのではないかと言われております。
(真田紐の語源として「サナール説」はこういったところから言われる説です。)
チベットの獣毛細幅織物(サナール)と木綿草木染め一重織真田紐の比較
事実、船の停泊地である台湾の山岳民族の細幅織物や八重山織・新島の腰機織物・ミンサー織などに
その流れが見て取れます。
また、北方ルート上には細幅織物はあまり見かける事ができませんが、一部中国から渡来した仏像の中に
収められた経典を巻いている紐が発見されます。
こちらは、麻や絹などで織られていたり、拡大して見ますと縦糸の本数が少し少ない織紐の様に見えます
ので、非常に真田紐と似ていますがチベットからシルクロード経由で中国南部に伝わり、元来腰機を使って
チベットで作っていたサナール紐が中国に仏典と共に持ち帰られ派生して当地の材料で織られた織紐に
見えます。
通常の倍ほどの縦糸を圧縮して織る真田紐よりも薄く、柔らかく通常の絹織物に近い紐です。
万葉集:「古の倭文機(しつはた)帯を結び垂れ誰ちふ人も君には益さじ」
又、「倭文機(「しつはた」、もしくは「しず」)」という名前で古くの書物に登場したり古墳から痕跡が発見されて
いる紐・織物もあります。
こちらは九州北部などで海人族が織っていた楮(こうぞ)や麻・絹を使って織った目の開いている荒い織物で
幻の織物と言われていますので非常に資料が少ないのですが、時代的に万葉集の頃に「古の」と謳われる
くらいですから古く、まだ南方からの渡来物が少なく北方仏教ルートの大陸からの渡来物が多かった時代
です。ですのでよく真田紐の元祖ではないかと言われますが見た目、材料、織り方などからみてのちに渡来した
真田紐より前の日本土着の織物ではないでしょうか?
麻や楮は非常に固く、長さもそんなに長い素材ではないので作る技術も難しく、非常に手間のかかるもので
真田紐系の織紐が伝来する前にそういった技術を持った一族なり集団なりが居たのでしょうね。
北方仏教の伝来と南方仏教の伝来図
奈良正倉院には御物の一部に使われ収蔵されている真田紐もありますが修復もされておりますのでいつ頃
のものかは、はっきりとは分かりません。
真田紐が日本に伝来量産される前の織機は室町時代以降の様な木製高機(たかばた)ではなく腰機(こしばた)
という、木や棒、石と人の腰の間に複数の縦糸を結び横糸を差し入れて織る方法だった様です。
この腰機は背中を反る角度に寄って縦糸の張り具合を調節できますが本来布を織る為の織り機ですのであまり
長いものは織れませんし糸の圧縮もできませんので日本の真田紐は織れません。
ネパールのサナール紐もこの方法で織られているものもありますが元来ネパールで作られていた際にはそんなに
長い紐として織られていたものではなくベルト程度の長さしか織っていなかったと思われます。
サナール紐もインドからルソンへの交易の荷紐として量産されるにいたり大量生産と長さも必要となり高機に
変わっていったようです。
腰機機 通常使う高ばた
(注;映画撮影用に木機用のオサとソウコウを取り付けアレンジしたもの。古代のものは木板と竹ベラを使用)
エベレスト山脈の北側を起源とし中国皇帝から日本の宮中に伝わった組紐と、エベレスト山脈の南側を
起源とし武士や町民を主体として広まった真田紐は作り方も作者も使用用途もすべてに違いがあります。
一説によれば源氏方は真田紐を平家方は組紐を使用する傾向があったという説も言われます。
甲冑の場合、源平合戦の頃はすべてが宮中の方ですので組紐のみを使用してあります。
(いまの五月人形にある甲冑の形はその頃、もしくは戦のなかった江戸時代に源平時代の大鎧に回帰します
のでそういった形になっています。)
真田紐が甲冑に使用されだすのは戦国時代からという事になります。
これは戦い方や一般農民の戦への参加というものが関わって来ていると思われます。
●戦国時代から江戸時代そして明治維新後
○戦国時代の戦い
戦国時代に入りますとそれまでの戦い方が一変します。
源平の合戦では馬に乗って弓矢を撃ったり名乗りを上げ戦うなど一定のルールの上で
戦っていたものが、戦国時代になると今で言う白兵戦やゲリラ戦の様な戦いに重きが
置かれます。
ジッとしていると後ろから狙われたり木々の中を走り回ると言った様な戦いとなります。
そうした時、それまでの大鎧などの甲冑ですと飾りや動きにくい部品がありますので
行動的とは言いにくい姿でした。
戦国時代では、秀吉の様に一般農民から立身出世を目指したり徴用されたりしましたので
その農民たちが使っていた便利な物を軍事物資として使って行く事になります。
そこで農民達や商人が荷紐に使っていた真田紐が戦という場面に登場します。
真田紐を籠手や臑当、大袖等を縛りつけ体に密着させ動き易くし、籠手や前垂れの縁に真田紐を
ぐるりと縫い付けの縁の補強にしました。
鎧自体の雅な付属物もなくなったり小型化され当世具足と呼ばれるようになります。
また甲冑を付けられない下級武士や農民は皮や金属を縫い付けた真田紐を頭に巻き付け、
手足には数本に割った竹などを真田紐で縛り刀よけとして致命傷を負わない程度の防具と
しました。
よく忍者が頭に巻いているハチマキのような紐も真田紐であった様です。
こうして武士の世界に登場した真田紐は一族の武将によって有名となります。
大河ドラマ「真田丸」での主人公である通称:真田幸村。本名:真田信繁。そしてその父昌幸公。
真田家はそれまでの整然とした戦いではなく知略を用いてのゲリラ戦を得意とする武将で
その功績から家康も恐れたと言われていますが道具の面でその戦い方を助けた物の一つが
真田紐であろうと思われます。
他の武将の甲冑の多くは鹿革や組紐で手首・足首に巻いて居たのに対して真田昌幸(幸村の父)
所用の甲冑を見ますと胴を肩から吊るす紐には伸縮性のある組紐を使い、胴の上下動の衝撃を
吸収し、体の各部は伸びの少ない丈夫な真田紐を巻き動きやすくする。
実に科学的でもあり理にかなった甲冑を使用していたようです。
伝・真田昌幸(幸村の父)所用の具足(中央)
手甲・臑当の縛り・草摺(下散)や籠手の縁などに使われているのが真田紐
上田に所蔵されている昌幸の甲冑は合戦の褒章として家臣に送られた甲冑がその家臣宅に保存されて
いたものだそうです。家臣に与える甲冑は一度戦に出て勝利し生きて帰ってきたため非常に縁起のいい
もので、そういった甲冑を家臣に与える甲冑として選びました。
この甲冑もそういった遍歴があるならば一度戦で使用し血まみれ傷だらけになっていたものを補修して
家臣に与えたと思われます。この甲冑の手首足首に巻かれている真田紐はヤシャブシ地(生成り色)に
藍もしくは黒の一本線の木綿草木染め袋織真田紐。
実はこの色というのは当時、行商人が持って全国に売り歩いた代表的な柄であります。
当時、伊賀を治めていた私達の先祖もそういった紐を作り、行商人達が各地をめぐっておりました。
いつの時代のものかは分かりませんし幅は違いますが私達の家にも同じ柄の紐が残っています。
(上)伝・真田昌幸公所用具足につけられた真田紐
手足には生成り色に黒い線の真田紐、前垂れ籠手の縁には渋松葉色の木綿真田紐
(下)当方に残されていた同じ柄の紐
また、籠手の縁、前垂れの縁には渋松葉色の真田紐がぐるりと縫いこんであり補強されています。
こちらは補修の難しい部分でもあり手足と縁取りで違う色のものを付けるとは考えにくいのでこちらの
渋松葉色がオリジナルだったのではないでしょうか?
戦国時代には木綿というのは降霜のない長い季節と600mmから1200mm程度の降水量が必要であること
からある緯度より南にしか生育できなかったと言われています。
それが岡山や泉州・伊勢などの木綿産地であったわけで真田家の所領信州では木綿が手に入れづら
かったことだと思います。
ですので大河ドラマ・真田丸の中でも時代考証から初期の上田のシーンに着ている着物は麻で出来
ているそうで、麻では寒いので父・昌幸は毛皮を着ているのかもしれません。
上田城築城後の上田ではたして木綿織物が出来たかということは研究者の研究を待たざるをえないかも
しれませんが行商人が上田や武田時代に武田領に持って行っていた物を使用したと言う方が自然かも
しれません。
それを踏まえたうえで真田家の信濃の所領と関ヶ原以後蟄居さされていた九度山の関係を行商人の
視点から考えますとおもしろいことに気づきます。
行商人の出発地は薬の富山・金沢や物資の関西、瀬戸内海地区など沢山あったわけですが
関西発の行商人は南大阪を発って大阪・京都・滋賀などで着物や道具を仕入れその後の中山道・
東海道を通り現在の群馬・栃木県などに至り各家を回りまた注文をとって関西に帰還してという事を
繰り返していました。
真田の領地信濃はその行商人の最終到達地点近くにあります。
美濃より西の武将に比べて山地の多い東の地区では物資、特に軍備に関する先進の物資は不足していた
と思われ、また、西の武将にとればこういう交易路を抑えれば戦を優位にすすめることができます。
当時の美濃以東では真田紐など丈夫で貴重な木綿製品はこういった行商人の手によってもたらされた
のですが常時来ているわけではなく一年に何度かの来郷に頼らざるをえませんでした。
こういった中、信濃にも基本的な織物の技術自体は元々ありましたので真田紐で特徴的な技術や糸の
本数などが分かり、原料の木綿糸の調達ができて織れば戦道具の輸送・甲冑の材料などに便利な
真田紐を自産できたのかもしれませんが大変難しいことだったでしょう。
そののちに関ヶ原の合戦の後、紀州九度山に幽閉された真田父子は紀州では材料がたやすく手に入ります
ので信濃での経験から便利な真田紐を織り、堺や泉大津等の商人に卸し、そこから各国に行商人がまた
売り歩く事になったという伝説は想像するに易しです。
時はもう家康の時代になりつつある中、地方にはまだ西軍恩顧の地域もあります。
そういった所で行商人たちが西軍で唯一勝利し武勲のあった真田の名を出し「あの真田が作った強い紐」と
言い売り歩き今の「真田紐」という名称が一般的となったようです。
また帰って来た行商人から各国の動きも幸村は得ていたと言われ後の世ではこういった事から「真田十勇士」
などの物語も作られました。
行商人の最終地点に居た真田一族が出発地点である大阪・紀州地区に幽閉されたのは真田紐との何か
の縁がそうさせたのかも知れません。
◯密教と忍者と真田紐
忍びというのは全国各地に存在したわけですがその多くは山賊などの一族と山岳密教の修験道者を
組織化し、地方豪族の庇護の元一つの集団になったと言われています。山賊を中心とするグループは
戦闘術、謀事、窃取などにとみ、修験道者を中心とするグループは天文学、地質学、植物学(特に薬草)
識字などにとみます。
両方共、山岳知識にとみ身体能力が突出していた点に共通するものがあります。
地方豪族はそれらを使い諜報活動や天候の推測、金や鉄の発見などに使いました。
真田紐はチベットとつながりがあり、また、その流れで山岳密教とも縁があります。
元山賊は庇護があるとはいえ、生活の糧というものがなければ山賊に戻ってしまいます。
そこで豪族は海外知識のある修験道者に農閑期の糧の技術開発をさせ元山賊の一族がそれを作る
という形で薬や真田紐などの製作をしたようです。
ですので真田紐を製作していた地区をみるとすべからく忍びの影があります。
伊賀・甲賀・雑賀、柳生・根来など色々な地域に色々な伝説が残っています。
真田一族にも透破と呼ばれる集団があり何がしかの生産は行っていたでしょう。
真田紐を使った武術も忍びの武術の中によく見受けられます。
また真田紐や薬を扱う行商人のふりをすれば容易に各地の長者宅や城に入り込むことが可能なので
情報と金銭を持ち帰ることが可能だったわけです。
○真田紐と茶道と産業化
戦国時代、真田紐は主に刀の武具、下げ緒や荷紐、馬具などに使われていましたが
秀吉らの茶道師範をしていた千家茶道の祖、千利休が広く茶道を広めるために発案して
茶道具等の桐箱にも使われる様になりました。
その当時、各武将の家ごとに家紋の様に独特の決められた柄の真田紐を作って刀や鎧等に使って
いた事から(戦死したり負傷した場合に身体・所持品からどの家の方の物かを知る術に使って
いたと言う事だそうです。)千利休はそういった文化も茶道に取り入れ茶道具の箱にも一見して
その所有権が分かる様に家紋や花押と同格のものとして独特の柄の真田紐を使いました。
現在でも各流儀や作家・神社仏閣などの独特の柄の「茶道約束紐」や「習慣紐」という
文化として伝わっております。これらは今でもそれぞれの流儀や作家・神社仏閣にしか販売出来
ない様になっていますので本物か偽物かを即時目で判断できる様になっています。
また、箱の結びも中身のすり替えや暗殺・盗難を防ぐ封印の役割として独特の結びをするように
なりました。
江戸時代には、戦国時代に武将の家で奥方や家人の女性が着物姿で動きやすくする為に
刀の下げ緒用の真田紐を使いタスキや帯締め・帯留め等に使った事が広まり、また絹製真田紐の
発展に伴い呉服関係や茶道具等に幅広く使われたそうです。
呉服用品としても使う真田紐ですが元々刀や箱類や帯止め金具等の細工物に使っていたからか
現在でも織物でありながら呉服関係に使う尺貫法の「くじら尺」ではなく、真田紐の場合は、帯留め用
細工金具や刀等の工芸品と同じ「かね尺」という尺貫法をつかいます。
一般町民から見ますと真田紐は江戸・明治・大正時代には広く行商人が持ってきた置き薬と共に
丸く円盤状に巻いた真田紐一反を家に常備して用途に合わせて切り、端を処理して使っていくのが
一般的だったそうです。
また、木綿の真田紐は、その丈夫さから山の強力さんや画商、行商の重い荷物を結うのに使われました。
真田紐は江戸時代には、戦がなくなると共に広く産業として主に現在の長野・大阪・京都・名古屋・和歌山・
岡山・金沢・富山などで発展し各城下町や神社仏閣等の門前町には旅をする参拝者の為に売られる
店舗もできました。(水戸黄門などで見られる助さん格さんが持っている二つの籠を紐で結わえた旅行鞄
"振り分け荷物"の紐や男帯に使われていました。)
振り分け荷物 甲冑の下や歌舞伎俳優が衣装下に結ぶ腰紐
しかし、明治維新の廃刀令や洋風生活の発展、最近のビニール紐の開発などのなか、長野や大阪・
和歌山・岡山などの地域ではランプの芯の製造業やタオル製造業などに転身し、また太平洋戦争などで
真田紐製造業としては残念な事に次々と無くなっていきました。
●当家沿革
私どもの家は近江源氏の近江守護・佐々木六角家の被官職であり、足利将軍家十二代将軍の頃より
足利家の幕臣としても活躍した近江・甲賀の和田家の出身であります。和田家の有名な武将としては
細川藤考、一色藤長などと共に足利家十五代将軍,足利義昭(一条院覚慶)を幽閉先奈良一条院より
救い出し和田城にかくまった和田伊賀守惟政が居ます。
足利義昭は和田城よりご内書を全国の武将に発布し将軍職復帰を全国に宣言し、後に織田信長公
の手により上洛成功し十五代将軍となりました。
先程もお話しました様に戦国時代の武将は農閑期の仕事として武士の傍ら領地振興産業や軍需産業として
何かしらの工芸的な仕事も指導していた訳ですが、和田伊賀守惟政は伊賀の忍びたちが農閑期に野党になって
しまう事から農閑期の仕事として真田紐製造を甲賀・伊賀の領地住民に製作指導していたと伝わっております。
伊賀・甲賀の真田紐は行商人の手により広く流通しました。(だいたい群馬県ほどまで行っていたと言います)
また、その行商人の中に忍びを紛れ込ませ、薬や真田紐は生活必需品や戦道具ですので容易に城内に入り
込め、情報収集を行なっていました。また、潜入地で戦う場面が来ますと商品として持参した真田紐で簡易な
甲冑を作り使用したりもしました。
戦国時代前期、織田信長・足利義昭初上洛の際に、近江守護佐々木六角家が敵対したことから信長軍と
六角氏が戦った末、六角氏はまた甲賀和田城へと逃げ伸びました。和田家は足利家・六角家ともに臣家で
あったことから和田伊賀守惟政は足利将軍家擁護にまわり、他の和田家は六角氏擁護に回りました。
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を
起こして信長が没し、明智、秀吉の大山崎の戦などが落ち着き、豊臣秀吉の時代になり、甲賀が弾圧に合うと
甲賀に在していた祖先は佐々木家の生き残りを守りつつ他の味方武将達と共にゆかりのある京都に延びたそうです。
(歌舞伎の悲話「近江源氏先陣館盛綱陣屋」の段参照・
こちらは真田家の物語が江戸時代に上演できなかったため佐々木家が京に落ち延びた物語を利用して
真田家の大坂の陣を歌舞伎・浄瑠璃化したものでこの中に和田兵衛として和田惟政と後藤又兵衛がミックス
した形で登場します。)
その後京都にて隠遁生活を送りつつ佐々木家大坂城仕官のため故郷で培った真田紐の技術を使い真田紐を
作製し佐々木家を支え(後に佐々木家は豊臣秀頼の弓指南役になりました)財政を補いつつ明治維新まではもう
一度武士に戻る再起を思いながら真田紐製作に励んでいたそうです。
それ以来、京都で真田紐の作製をしそれが本職となり現在真田紐師十五代目に至ります。
現在では茶道各流儀約束紐や各作家約束紐などをはじめ様々な真田紐を作製する
真田紐専門店として皆様と共に歩ませていただいております
歌舞伎「近江源氏先陣館盛綱陣屋」より 源成頼公・姫君の墓(京都・専祥寺) 先祖が戦国時代に使っていた刀
●プロフィール
十五代真田紐師 江 南
和田伊三男
●昭和41年9月生まれ
●京都市立稚松小学校卒
●帝塚山学園中学校卒
●St.Francis prep school(ペンシルベニア州・アメリカ)卒
●School of the museum of fine arts BOSTON(SMFA)
(ボストン美術館付属美術専門校・マサチューセッツ州・アメリカ)
受賞歴
The Scholastic art awards 1984・85・86
●6Gold key awards (NewYorkCity experience)
●1Blue ribon award (National finalist)
アメリカ合衆国下院美術展招待出品
ペンシルベニア州州議会美術展出品/他
|