あしずり遍路道二百三十九丁の丁石





二百三十九丁の丁石

 四国八十八ヶ所第三十七番札所岩本寺から足摺岬第三十八番札所金剛福寺へ向かう遍路道、高知県土佐清水市久百々に「二百三十九丁」を示す丁石があります。
この丁石には自然石に「作п@倉敷 二百卅九丁 多賀利右衛門」 と彫られています。
「пvは「州」の異字体で国のことです。当時は国の名前の一文字に州を付けて呼ぶ別称、慣用表現があり、例えば紀伊の国は紀州、武蔵の国は武州、讃岐の国は讃州・・・などと呼ばれていました。作州は現在の岡山県の北部に位置していた美作《みまさか》の国の別称のことで、美濃の国と区別するため二文字目が用いられています。(美濃の国は濃州です)
この他にも「作州 津山」、「作州 勝北郡」などと刻まれた丁石があります。「津山」、「勝北郡」はいずれも作州国内の地名です。
 しかし、倉敷は現在の岡山県南部、備中の国の中の幕府直轄地である天領の地名で、美作の国が岡山県南部まで管轄していたなどとは、聞いたことがありません。
ですから最初この丁石を見たとき、「作州と倉敷に商売の拠点を持つ多賀利右衛門さんが寄進した丁石」であると思いました。
その後も二回目、三回目と傍を通るたびに「作州と倉敷に住所を持つ多賀屋さん」と思っていました。  ところが、これは間違いでした。
美作の国の中に備中の倉敷とは異なる倉敷が昔あったのです。
現在の美作市林野と呼ばれている地域で、美作市の中心部です。古くは英田郡倉敷村と呼ばれ、山陽と山陰を結ぶ街道の要衝、宿駅で、加えて備前の「東の大川」と云われていた吉井川を利用した高瀬舟による穀物、諸物資等の集散地として発展し栄えていました。多くの蔵屋敷が建ち並び、倉敷地と呼ばれ、倉敷の地名もこれに由来しています。
美作市の倉敷の地名は大正の中頃まで使用されていました。
 多賀利右衛門さんは美作の国倉敷村在住の檀那さんでした。



参考図書 上原兼善監修 「図説美作の歴史」 2008年3月5日 郷土出版社





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