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真 念 庵 の案 内 板 か ら

     ── 丁石による路程「丁」「里」の例外 ──

contents

1.はじめに

尺貫法による一丁は約109mであり、一里は三十六丁、約4kmである。遍路道に建てられている丁石はこれを基準に建てられている。
しかし、この基準によらない丁石がある。
ひとつの案内板から生じた疑問について、調査した経緯をまとめた。
(おことわり   以下、文中に「丁」と「町」が混在しているが、引用元が「町」を使用している場合を除き、「丁」とした。)


2.真念庵の案内板

2・1 真念庵の案内板

高知県土佐清水市下ノ加江市野瀬にある真念庵の麓に、土佐清水市教育委員会が立てた案内板がある。

真念庵の案内板

真念庵の案内板
(画像をクリックすると案内板の内容を見ることができます)

この中に次のような説明がある。
「 ・・・・・ この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」

一里は36丁である。一丁間隔で丁石を設けると、7里では36丁×7里=252丁、252の丁石になるのではないだろうか。
あるいは。350の丁石の数が正しいとすると、一里は約4kmであるから、丁石の間隔は 約4km×7里/350=約80mとなる。一丁(約109m)間隔というのは間違いではないだろうか。
不思議に思いホームページを検索してみたところ次のようなページがあり、いずれも「(約109m間隔)」「1丁間隔で」と掲載されていた。
なお、この真念庵から金剛福寺までの遍路道は「足摺遍路道」と云われている。


・ 土佐清水市 あしずり遍路道情報のホームページ

土佐清水市ホームページ
「 ・・・・・ この道標石は足摺岬の「一丁・・・」(約109m間隔)まで、設置されていた ・・・・・」
《http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/uij/doc/culture/henro/index.htm》

・ 土佐清水市観光協会 あしずり遍路道散策のホームページ

土佐清水市観光協会ホームページ
「 ・・・・・ この道標石は足摺岬の「一丁・・・」(約109m間隔)まで、設置されていた ・・・・・」(内容は上記「あしずり遍路道情報」と同じ)
《http://www.shimizu-kankou.com/doc/henro.html》

・ Wikipedia 「真念庵」の項
「ここから金剛福寺までは7里(28km)ある。真念は金剛福寺までの遍路道に1丁間隔で道標として丁石を350基立てた」
《http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BF%B5%E5%BA%B5》
(余談だが、足摺遍路道の350の丁石は、弘化二年(1844)から嘉永五年(1852)の間に美作の国(作州)玉林院宗英らにより設置されたもので、真念(?−1692)が立てたというWikipediaの記述は間違いである)

2・2 土佐清水市教育委員会の見解

真念庵の案内板やホームページの説明文に疑問を持ち、土佐清水市に問い合わせたところ、土佐清水市教育委員会から次のような回答が寄せられた。

先頃、お問い合わせのありました、真念庵から金剛福寺までの距離の件について、回答致します。
 1998年に、日本石仏教会から発行された「日本の石仏」の中に記載されていますが、 1里は、伊予と讃岐では36町、阿波は48町、土佐では50町となっています。
 土佐では、1町が109mであり、50町は5,450mとなります。  5,450m×7里=38,150m(38q)となります。
 現在は、道路が整備されており、整備された道路をとおると距離はかなり短くなります。
 へんろ道は、ご存じのとおり、当時へんろさんが通った道であり、本来のへんろ道を行くと、38qとなります。

(原文のまま)

つまり、土佐清水市教育委員会は、 もともとのへんろ道の長さが長かったのであり、350の丁石も、一丁の長さ109mも正しいという見解である。
ところが、へんろみち保存協力会編(2007) 『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』によると、この区間の距離は28.2kmである。現在の歩き遍路のルートである。 確かに、遍路道は時代により変化するものであり、距離も変わってくる。
真念庵の案内板には「最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」と記されている。
もともと38kmであった遍路道のうち約14kmの区間が昔のまま残っているということは、38km−14km=24km(延べ距離)の道路が開発工事にかかっていることになる。現在の距離28.2kmの遍路道では28.2km−14km=14.2kmが開発工事にかかった部分である。工事により24km(延べ距離)の道路が14.2kmに9.8km短縮されていることになる。
それは、かなり数のバイパスやトンネルの施工がない限り考え難い。 前記地図『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』を見ても、それほど短縮されていると思える区間は見当たらない。 そこで、往時の遍路道のルートと距離を確認した。

2・3 遍路道のルートと距離の確認

丁石が建てられた頃の遍路道及び丁石の状況は、高知県教育委員会編(2010)『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示されており、確認することができる。
この資料に「真念庵から足摺岬までは江戸幕府公式の里程で三十六丁一里で七里であり・・・・・」との記述がある。「三十六丁一里」は約4kmであり、この区間はもとより約28kmであったことがわかる。
また同資料に足摺遍路道の起点となる真念庵の麓に「あしずりへ七り」、「左あしすり山みち七り」と記された道標があることが示されている。
さらに同資料に江戸時代の遍路道の地図とルートが示されており、距離計測サイトLatLongLabにより測ってみたところ28.4kmであった。
地図LatLongLab《http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=cc8de9bd10a6c883f39e621e69a16311》
(別のサイトに移ります。戻るにはブラウザの【戻る】ボタンを使用してください。 LatLongLabを見るには、MicrosoftのSliberlightのインストールが必要です)
また『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』のルートと『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示されたルート即ち、丁石が設置されているルートを対比すると、道路整備等により変更になった箇所はあるが、ほぼ同一のルートである。
さらに江戸時代の遍路道を調査した資料として柴谷宗叔著(2014)『江戸初期の四国遍路』がある。
この資料に真念庵から金剛福寺までの地図とルートが示されており、確認したところ『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』とほぼ同一のルートである。

従って 「土佐では、1丁は109mであり1里は50丁であるため、本来のへんろ道を行くと、38kmとなる」、本来のへんろ道は長かったとする土佐清水市教育委員会の見解は間違いである。

2・4 足摺遍路道の丁石の間隔

(1) 丁石の間隔

真念庵の麓に「ありずり三百五十丁」の丁石があり、足摺へ向かい真念庵の前を経由し、「三百四十七丁」、「三百四十六丁」の丁石が続いているため、もともとの丁石の数は350に間違いはないと考えられる。
足摺遍路道の距離は7里約28kmであり、この区間に350の丁石が設けられているので丁石の間隔は約80mとなる。
1里約4km(「三十六丁一里」)の間に約80mの間隔で50の丁石が設けられていたのである。
以後、記述の簡略のため、この1里約4km、丁石の間隔約80mの路程を「五十丁石一里」とする。

前述の真念庵案内板の
「 一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」は 「 約80m間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」とするか 「 一丁間隔(この一丁は約80m)で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」と註釈を入れた方が良いのではないだろうか。
また土佐清水市と土佐清水市観光協会のホームページの 『「一丁・・・」(約109m間隔)』と掲載されている部分は 『「一丁・・・」(この場合の一丁は約80m間隔)』と変更するべきである。


(2) 丁石の案内標識

足摺遍路道の各丁石に距離を示した案内標識が添えられている。
すべての案内標識が一丁を109mとして計算された距離が示されており、間違いである。


五十三丁の丁石

五十三丁の例
「足摺まで5777m」(109m×53)と説明がある。
正しくは「足摺まで4240m」(80m×53)である。

2・5 他にもある「五十丁石一里」(一丁約80m)

(1) こんぴら街道

香川県丸亀市丸亀港から金毘羅に至るこんぴら街道のうち、丸亀市中府町の大鳥居から琴平町北神苑の高灯籠までの区間3里、12kmを150丁として丁石が設置されている。
平成17年に新たに建立された「平成の丁石」4基についても、12kmの区間を150丁として設置されている。 一丁の間隔は80mである。

こんぴら街道丁石

こんぴら街道の丁石

(2) 第12番焼山寺から第13番大日寺に至る遍路道

焼山寺から神山町鏡大師の西山麓を通り大日寺に至るルートである。
焼山寺下に二丁、大日寺手前に二百四十九丁の丁石があることから、大日寺までは二百五十丁と推定される。その間ほぼ連続して丁石が建てられている。
また大日寺入り口に「左焼山寺道五里」の道標がある。
『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』によるとこの区間の距離は20.8kmである。
20.8kmの区間を5里、250丁として丁石が建てられており、1里は約4km、丁石の間隔は約80mになる。


3.なぜ「五十丁石一里」なのか

3・1 文献等

足摺遍路道と前項 2・5に示した区間の丁石について、なぜ丁石の間隔が「五十丁石一里」、約80m間隔なのか、調査した文献があるか確認した。

(1) 足摺遍路道
・ 『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に
「真念庵から足摺岬までは江戸幕府公式の里程で三十六丁一里で七里あり、全国からのヘンロを対象とする標石は、三十六丁一里で案内されているとできる。 しかしこの区間には三百五十丁の石が置かれる。これでは五十丁一里としなければならないが、その場合の里数は五里で二百五十丁余となるはずである。それをあえて七里としたのは里数計算を誤ったのではなく、より多くの石を置きたかったことと、三百二十一を刻する石が欲しかったためではなかろうか。 足摺道における丁石の寄進者はほとんど美作・播磨・備前の人であり、三百二十一丁石の寄進者、玉林院宗栄はその頃に法印を襲名した美作国の修験である。弘法大師の祥月命日三月二十一日を意識していると言えようか。」と述べられている。
「より多くの石を置きたかったことと、三百二十一を刻する石が欲しかったため」としている。このために度量衡の尺度を変えたということには疑問を感じる。
弘法大師の命日に因み三百二十一丁の丁石が欲しければ、全区間を三百二十一丁にすればよかったのではないだろうか。
・ 小松勝記著(2007)『ヘンロ道を辿る』毎日新聞高知支局に
「足摺七里は地図上で計測すれば、約二十八キロであり、徳川幕府からの通達三十六町一里と合致している。主往還の一里塚は、全てその里程で設置されたようだ。また五十町で計算すれば五里余りとなる。 それにも関わらず一里を五十丁とした上で、七里を計算している。これは語呂の良さと、多くの賛同者がいたためであろうか。」と述べられている。
「語呂の良さと、多くの賛同者がいたため」に度量衡の単位系を変えたということには、前項と同じく疑問を感じる。

(2) 丸亀街道
・ なぜ一丁が80mになるのか、香川県立図書館レファレンス担当、香川県立ミュージアム(香川県文化振興課世界遺産グループ)に問い合わせてみた。
しかし、過去に、丁石の詳細な調査が行われ、区間距離の実測もされてはいるものの、なぜ「五十丁石一里」(一丁約80m)になっているのかについては解らなかった。
・ 瀬戸内海歴史民俗資料館編(2003)『香川県歴史の道調査報告第五集 金毘羅参詣道T調査報告書』に
丁石の間隔等詳細に調査した結果として「本街道では、一里を五十町として、等間隔に丁石を設置したのである。」と述べられているが、なぜ「五十丁石一里」となったかについては、記述がない。
・ 三水会ホームページ金毘羅街道概説「4.街道の発展」の項に
「江戸時代初期、徳川幕府の道路政策により、お城からの道を整備して丁石を建てたり、領地を測量したりと言った事が行われました。丸亀ですと、生駒親正の時代です。丸亀から金毘羅までの道はこの事によって、ほぼ確定します。丸亀街道の発展はここから始まりました。但し一言。この時代、1丁は約109メートル、1里は36丁です。丸亀街道に残る一番古い丁石はこの時代の物ではありません。150年後位になります。この時、1丁約79メートル、1里は50丁の計算で建てられています。この間度量衡の変化が起こったと思われますが、勉強不足で不明です。 丸亀街道以外の街道でも、同様な事がその時代時代に起こったと考えられます。村の中の生活道路、村から村への田圃道、神社への道、山への道などが一本の街道として結びついて成立し、発展したと考えられます。」との記述がある。
《http://space.geocities.jp/mt9882axel/konpirakaidou-gaisetu.html》

(3) 焼山寺から大日寺
・ 徳島県教育委員会編(平成13年)『徳島県歴史の道調査報告書第五集』に    焼山寺から大日寺までの丁石の配置等についての調査結果が示されているが、なぜ「五十丁石一里」となったかについては、資料を見つけることはできなかった。

3・2 土佐の一里は五十丁か

豊田 武編(1968)『交通史』(体系日本史叢書24)に「戦国時代の頃までは、藩により一里が五〇丁、四八丁、四二丁、三六丁等々まちまちであった」と述べられている。 土佐についても土佐清水市教育委員会からの回答にあるとおり、一里は五十丁であり、一丁は約109mであるため、一里は約5.45kmであった。
    しかし、これらすべては慶長7年(1602)に徳川幕府による「三十六丁一里」の布令が出されるまでのことである。
後述3・5に示すが、丁石等の道標が多く建て始められるのは、庶民の経済状態がよくなり、遍路の大衆化が始まった元禄(1688-1704)の時代以降のことである。
「三十六丁一里」の布令が出されてから80年以上が経過している。
その間幕府により、「三十六丁一里」による一里塚の設置、絵図の作成に伴う測量等が度重ねて実施されている。元禄の頃には、全国から巡礼に来る遍路を案内する共通の里程として、「三十六丁一里」が定着していたと考えられる。
さらに、足摺遍路道の丁石が建てられたのは弘化二年(1844)から嘉永五年(1852)の間である。
「三十六丁一里」の布令が出されてから200年以上が経過している。 足摺遍路道の里の長さとして「三十六丁一里」としての「一里」が用いられているのは、ふしぎではない。

3・3 四里四拾丁の丁石

足摺遍路道の中程、土佐清水市久百々地内に「四里四拾丁」の丁石 がある。

四里四拾丁の丁石

左側が二百卅九丁の丁石 、右側が四里四拾丁の丁石

この丁石から、ここに刻まれた「丁」は三十六丁を一里とする「三十六丁一里」ではないことがわかる。
「三十六丁一里」であれば、「四拾丁」はありえないからである。
( この丁石に並んで「二百三十九丁」の丁石がある。『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』によると「二百三十九丁」の丁石は現在地より南にあったことになっている。この付近は道路の拡幅工事が行われている。調査した時点以降に工事により、「四里四拾丁」の丁石の横に移設されたものと思われる )
『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』の地図によると「四里四拾丁」の丁石は、その順序と場所から二百四十丁の位置に建てられていることになる。
つまり、「四里四拾丁」は「二百四十丁」であり、この丁石に刻まれた「四里」は「二百丁」にあたるから、一里が丁石の数で五十丁であることを示している。
全区間が「三十六丁一里」による七里であるから、350の丁石と符合する。したがって、ここに刻まれた「里」と「丁」は、「五十丁石一里」を示している。丁石建立の際、「里」と「丁」の関係「五十丁石一里」が考慮されていたことが解る。
足摺遍路道の「一里」の長さは「三十六丁一里」による「一里」であり、丁石の設置は「五十丁石一里」に従っているのである。
なお、この丁石が建てられている場所は、金剛福寺から約19.2kmの場所にある。
「四里四拾丁」は3.924km×4里+78.5m×40丁=約18.8kmとなり、ほぼ一致する。
高知県内に残存確認されている455の道標のうち、「○里○○丁」と記された丁石で「○○丁」の部分が「三十六丁」以上の道標は、この丁石のみである。

3・4 江戸時代の紀行文に見る里程

(1) 『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)

『四国遍路道指南』は真念により著された四国八十八ヶ所のガイドブックであり、初版以降幾度も再版、改版がなされ、当時のベストセラーとなった書籍である。
『四国遍路道指南』は、『四国遍んろ道志るべ』、『四国遍禮道指南』(「遍」は「彳+編のつくり」)、『四国邊路道指南』、『新板大字四国遍路道志るべ』、『四国遍礼道指南増補大成』(「遍」は「彳+編のつくり」)、『天保再刻四国遍路道しるべ』など、いろいろと名を変えられて出版されている。またこれら版木による墨摺本以外に筆写本も確認されている。
この巻末に「土州 ・・・ 五十町一里」とある。


四国遍路道指南表紙
四国遍路道指南 1 四箇国総テ 1
四国遍路道指南 2
『四国遍んろ道志るべ』 愛媛県歴史文化博物館

『四国遍路道指南』が記されたのは貞享四年(1687)である。幕府による「三十六丁一里」の布令から80年以上を経ている。
にもかかわらず巻末に「土州 ・・・ 五十町一里」と記述しているのは、なぜだろうか。
『四国遍路道指南』にはすべての札所間の距離が掲載されている。
土佐の札所間の距離が「五十丁一里」で掲載されているのだろうか。
確認のため、高知県内を通過する23番薬王寺から40番観自在寺までの各札所間距離を
@『四国遍路道指南』に示された里程
A「三十六丁一里」とした場合の距離(km)
B「五十丁一里」とした場合の距離(km)
C『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離(km)
について比較してみた。結果は次のとおりである。

『四国遍路道指南』の里程
札 所 区 間@『四国遍路道指南』の里程 A三十六丁一里とした場合の距離(km) B五十丁一里とした場合の距離(km) C『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離(km)
薬王寺〜最御崎寺二十一里   82.4114.575.4
最御崎寺〜津照寺 一里   3.9 5.5 5.0
津照寺〜金剛頂寺 一里   3.9 5.5 3.8
金剛頂寺〜神峯寺 七里   27.5 38.227.5
神峯寺〜大日寺 九里   35.3 49.137.5
大日寺〜国分寺 一里半 5.9 8.2 7.5
国分寺〜善楽寺 一里半 5.9 8.2 6.9
善楽寺〜竹林寺 二里   7.8 10.9 6.6
竹林寺〜禅師峰寺 一里半 5.9 8.2 5.7
禅師峰寺〜雪蹊寺 一里半 5.9 8.2 7.5
雪蹊寺〜種間寺 二里   7.8 10.9 6.3
種間寺〜清滝寺 二里   7.8 10.9 9.8
清滝寺〜青龍寺 二里半 9.8 13.613.9
青龍寺〜岩本寺 十三里   51.0 70.958.5
岩本寺〜金剛福寺 十一里   82.4114.580.7
市野瀬〜足摺 七里   27.5 38.228.2
金剛福寺〜延光寺 十三里   51.0 70.952.8
延光寺〜観自在寺 七里   27.5 38.225.8
(1.『四国遍路道指南』の里程は「半里」の単位で記載されているため、四捨五入しているとすると距離(km)は、三十六丁一里の場合で±1.0km、五十丁一里の場合で±1.4kmの範囲に入る。表の赤字は『四国遍路ひとり歩き同行二人』の値が四捨五入の範囲に入るもの、または、より『四国遍路ひとり歩き同行二人』の値に近い方を示している。 2.最御崎寺から津照寺へ向かう旧遍路道は、最御崎寺から下りる現在のつづら折の道路ではなく、最御崎寺より北西の方向に麓の街道まで直に降りていた。そのためCに示した距離は『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離と異なる。 3. 金剛福寺〜延光寺間は市野瀬打戻りコースである。この間の距離について、伊予史談会双書では十二里、早稲田大学付属図書館所蔵本では十三里、香川大学稲田による解説本では十三里となっている。ここでは十三里とした)

多くの区間について『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離(km)と三十六丁一里とした場合の距離(km)が近似している。
短距離の区間について部分的に「五十丁一里」の区間が混在している可能性は否定できないが、「三十六丁一里」が広く行き渡っていたものと考えられる。
『四国遍路道指南』の巻頭に「道ののりもいひつたえのまゝ 遠きもちかきも有り」とある。 (『四国遍路道指南』のこの部分の記載については、版により記載のないものがある)
現在、どこの札所、民宿などでも「次の札所まではどの位ですか?」と聞けば、即座に「何キロです」と答えてくれる。当時も次の札所までの距離は、札所や宿、門前の茶店などで、全国から来る巡拝者に対して、全国共通の「三十六丁一里」による距離を同じように案内してくれたものと思われる。
真念もその教わった距離をそのまま記録したのであろう。
そして真念も一部の「五十丁一里」の区間について「遠きもちかきも有り」として「少し違うのではないかな?」と感づいたのであろう。

また、『四国遍路道指南』の巻末に各国の距離が示されている。

四箇国総八十八箇
内  二十三ヶ所  阿州  道法   57.5里  3丁
同  一十六ヶ所  土州  道法   91.5里          
同  二十六ヶ所  豫州  道法  119.5里          
同  二十三ヶ所  讃州  道法   36.0里  5丁

      道法都                       304.5里    余

この道法都(道のり合計)「304.5里」は阿州、土州、豫州、讃州の道法の値をそのまま合算している。
もし、国により「一里」の長さが異なるのであれば、そのまま合計することは意味のないことである。
土州の91.5里は「三十六丁一里」によると359km、「五十丁一里」によると499kmになる。
『四国遍路ひとり歩き同行二人』による距離は382kmである。
なお『四国遍路道指南』本文中に示された阿波の国境から伊予の国境までの各札所間の距離を合計すると93里であり上記の91.5里とは異なる。93里は「三十六丁一里」で369km、「五十丁一里」で512kmとなる。
いずれにしても、「五十丁一里」とすると『四国遍路ひとり歩き同行二人』による距離との間に100km以上の差が生ずることになる。
「土州 道法 九十一里半」は、おそらく「三十六丁一里」によるものと思われる。
『四国遍路道指南』巻頭に「聞きて書 見てしるされ」とある。 真念は札所や宿で聞いた話を書き留めていったのである。
土佐の「一里」が「五十丁」から「三十六丁」に変更され、札所間の距離が「三十六丁一里」による距離に改められた後も、従来の「土佐の一里は五十丁」が常套句として残っていたのであろう。 巻末の「五十丁一里」も、見聞きしたことをそのまま掲載したのではないだろうか。

あるいは、真念は上記「道法都」において、各州の道法を換算することなくそのまま合算していることから、『四国遍路道指南』に記している一里は、全国共通の尺度「三十六丁一里」による一里(約4km)であると認識しており、「土州 ・・・ 五十丁一里」は「土州の一丁は、一里(約4km)を50等分した距離(約80m)である」即ち「五十丁石一里」であることを示していると考えていたのではないだろうか。
巡拝者にとり、路程は大きな問題である。『四国遍路道指南』が重宝されていたひとつの理由として、すべての札所間の距離が掲載されていることをあげることができる。このとき、一里が三十六丁と五十丁では行程に大きな影響を及ぼす。「土州 ・・・ 五十丁一里」を巻頭あるいは本文中に記載せずに、あえて巻末に参考的に記載していることからも、頷けることである。
ただし、その場合「丁」の長さが異なってくることになるが、前表に示したとおり土州の路程はすべて「半里」単位で書かれている。「丁」の長さは問題にしていなかったのかもしれない。
真念はその『四国遍礼功徳記』(1690)あとがきに「遍礼せる事二十余度に及べり」と述べている。二十数回の巡拝を重ねている。歩行距離に関する勘は研ぎ澄まされていたであろう。もし、真念が「土佐の一里は五十丁一里(5.45km)」を念頭においていたとすると、山道ではともかく、平地では「五十丁一里」はおかしいのではと気づいたと思われる。

なお、この巻末に示された各国の道法であるが、土州以外の阿州、豫州、讃州についても本文中に記載されている国境から国境までの各札所間の距離の合計と、巻末に記載されている距離は異なっている。この部分についても「聞きて書 見てしるされ」たのだろう。

(2) 『四国遍礼名所図会』

『四国遍礼名所図会』は『四国遍路道指南』発刊から百数十年後の寛政十二年(1801)頃に発刊された案内本である。
この巻末にも同様に各国の距離一覧と集計の記載がある。
距離の値、「土州 ・・・ 五十丁一里」等の但し書きは同じである。 『四国遍路道指南』と『四国遍礼名所図会』によって「土州 ・・・ 五十丁一里」は世間に流布、衆知されていったのである。


(3) 『四国遍路日記』

『四国遍路道指南』より34年前の承応二年(1653)に出版された澄禅による『四国遍路日記』にも札所間距離が示されている。距離が記載されていない区間もあるが、次項(4)に示すとおり里程は、ほぼ『四国遍路道指南』と一致している。
この『四国遍路日記』の宿毛から寺山(延光寺)までの項に「 ・・・浄土寺ニ宿ヲ借リ荷俵ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」との記述がある。また神峰(神峰寺)の項に「麓ノ浜ヨリ峰ヘ上ル事五十町一里也。」との記述がある。 『四国遍路日記』の中に里程ついて記載されているのは、この2箇所のみである。
あえてこの2箇所にのみ「五十町一里ナリ」と記載しているということは、他の箇所は註釈する必要のない「三十六丁一里」による路程であるからと考えられる。
なお、この「 ・・・宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」の部分であるが、伊予史談会双書『四国遍路記集』に収録されている『四国遍路日記』には「 ・・・宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ」となっており「往来」(往復)の部分がない。 この底本となっている宮崎忍勝(1977)『澄禅「四国遍路日記」』には「 ・・・宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」と「往来」が記されている。 ここでは底本の記載によった。現在の浄土寺(宿毛市与市明)は30年ほど前に移築されたもので以前は宿毛市役所の近くにあった。その場所から延光寺までは約6km、往復で約12kmとなる。「五十町一里」で二里は約10.9kmとなるが、『四国遍路日記』は里単位で記載されているので、四捨五入を考えると、往来二里は約10.9±2.7km(8.2km〜13.6km)の範囲となり「往来二里也」と合致する。


(4) 『四国遍路日記』、『四国遍路道指南』、『四国遍礼名所図会』に記された里程の比較

『四国遍路日記』、『四国遍路道指南』、『四国遍礼名所図会』に記された里程の比較
書 名四国遍路日記四国遍路道指南四国遍礼名所図会
刊 行 年
(西暦)
承応二年
(1653)
貞享四年
(1687)
寛政十二年
(1801)の頃
薬王寺〜最御崎寺二十一里 二十一里   廿一里  
最御崎寺〜津照寺一里 一里   一里  
津照寺〜金剛頂寺一里 一里   壱里  
金剛頂寺〜神峯寺記載なし 七里   七里  
神峯寺〜大日寺 九里 九里   九里  
大日寺〜国分寺 一里 一里半 一里半
国分寺〜善楽寺 二里 一里半 一り半
善楽寺〜竹林寺 記載なし 二里   二里  
竹林寺〜禅師峰寺二里 一里半 一り半
禅師峰寺〜雪蹊寺一里 一里半 一り半
雪蹊寺〜種間寺 二里 二里   二里  
種間寺〜清滝寺 二里 二里   二里  
清滝寺〜青龍寺 三里 二里半 二里半
青龍寺〜岩本寺 十三里 十三里   十三里  
岩本寺〜金剛福寺計の記載なし二十一里  二十一里  
金剛福寺〜延光寺(月山経由) 十三里   十二里  
延光寺〜観自在寺七里 七里   七里  
(四国遍礼名所図会欄の「廿」は”二十”のこと、また「り」は原文のとおりであり、「里」と同じ意味であると思われる)

上記表のとおり、『四国遍路日記』、『四国遍路道指南』、『四国遍礼名所図会』に示された里程はほぼ一致している。
これらの3資料には、足摺遍路道( 一ノ瀬《市野瀬》〜足摺 )の区間距離も示している。 いずれの資料も「七里」となっている。


3・5 丁石が建てられたころの歴史的背景

(1) 安土桃山から江戸時代の出来事

西 暦出 来 事
天正10年1582 豊臣秀吉 自領内で検地実施
天正19年1591 秀吉 全国の諸大名に検地結果である郷帳(御前帳)と郡絵図の提出を命ずる
慶長3年1598 太閤検地おおむね終了
慶長7年1602 徳川幕府三十六丁一里の布令
寛永9年1632 徳川家光 諸大名に国絵図の提出を命ずる
寛永15年1638 徳川家光 改めて諸大名に国絵図の提出を命ずる
寛永15年1638 僧賢明 『空性法親王四国霊場御巡行記』を出版
正保元年1644 幕府 重ねて諸大名に国絵図と郷帳の提出を命ずる   一里を六寸とする縮尺の統一を示す  現在の2万1600分の1に相当する
承応2年1653 澄禅 『四国遍路日記』出版
貞享2年1685 大淀三千風 『四国遍路海道記』出版
貞享4年1687 真念 『四国遍路道指南』を出版
元禄14年1701 幕府 海岸線を有する国々に対し、「海際縁絵図」の提出を求める 「道程書上」の提出を命ずる
元禄15年1702 元禄日本図が完成 縮尺 32万4000分の1
享保2年1717 徳川吉宗 日本総図の作り直しを命ずる
享保10年1725 日本総図完成
明和4年1767 『四国遍路道指南』 再版出版
寛政6年1794 この年より武田徳右衛門 道標建立
寛政12年1800 この頃『四国遍礼名所図絵』出版
文化4年1807 『四国遍路道指南』 再版出版
文化11年1814 『四国遍路道指南』 再版出版
文化12年1815 『四国遍路道指南』 再版出版 「新板大字四国遍路道志るべ」
文政4年1821 伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」完成
天保7年1836 『四国遍路道指南』 再版出版 「四国遍礼道指南増補大成」(「遍」は「彳+編のつくり」)
弘化2年1845 弘化2年から嘉永5年にかけ足摺遍路道の三百五十丁石が建てられる
明治19年1886 この年より中務茂兵衛 道標建立
(『四国遍路道指南』は上記以外に発行年が不明のものが多数ある。)

(2) 庶民による遍路の始まりと丁石の建立

江戸初期までの遍路は主に僧、修験者による修行としての行脚であった。
庶民による遍路が多くなるのは、庶民の経済状態が安定し始めた江戸時代の中期、元禄時代(1688-1704)前後からである。
遍路の数、土佐および金毘羅街道の道標の建立数を調べた。
年代別遷移の状況を次に示す。
道標と巡拝者グラフ15
(1.遍路の数については、今井宏栄(1986)『近世の女性と巡礼 児島郡味野村の場合』「四国巡拝男女計」による。備前の一村(現 岡山県倉敷市児島味野)のことであるが、巡拝者の傾向を見ることができる資料である。ただし、元禄6年(1693)より安政6年(1859)までのデータである。2.土佐道標の建立数については、『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示された集計による。3.金毘羅道標の建立数については、『香川県歴史の道調査報告.第五集 金毘羅参詣道T調査報告書』に示された集計による。)
これらによると庶民による遍路は1700年代から増加が見られ、それに伴い道標の建立数も増加する。
金毘羅街道の道標も同じ傾向を示している。

3・6 なぜ「五十丁石一里」なのか

足摺遍路道、丸亀街道、焼山寺から大日寺の3ルートについて 「五十丁石一里」にした、あるいは、なった同一の根拠があるのではないだろうか。 その理由を考えてみた。
前述の歴史的背景、ならびに『四国遍路道指南』、『四国遍路日記』、『四国八十八ヶ所名所図会』の記載内容を総合的にみて「五十丁石一里」には次の3点が影響していると考えられる。

(1) 『四国遍路道指南』巻末の記述
  前記のように『四国遍路道指南』は四国八十八ヶ所のガイドブックとして貞享4年(1687)に発刊されて以来、 明治にいたるまで何度となく再版され、他に類する案内本がなかったこともあり、当時の遍路のバイブル的存在として、世に広く流布、当時のベストセラーとなっていること。
この巻末の記述「土州 ・・・ 五十丁一里」は註記的記述としたとしても、往時の遍路に与えた影響は無視できない。

(2) 足摺遍路道の丁石が建てられたのは、「三十六丁一里」の布令が出されてから200年以上が経過してからである。
その間、幕府の命令による絵図作成に伴う測量がおこなわれ、街道には一里塚等が設置され、また『四国遍路日記』、『四国遍路道指南』、『四国八十八ヶ所名所図会』の内容が「三十六丁一里」で記述されていることからも、遍路道の路程に「三十六丁一里」による「一里の長さ」が定着、浸透していたこと。

(3)『四国遍路道指南』巻末の「土州 ・・・ 五十丁一里」について、真念は、一里は全国共通の「三十六丁一里」による一里(約4km)であり、土佐の一丁は一里(約4km)を50等分した距離(約80m)、即ち「五十丁石一里」であると考えていたのではないだろうかということ。
また後世、『四国遍路道指南』を利用した巡拝者、丁石の建立者も同様に解釈したのではないだろうかということ。

以上の三つの要因を踏まえて「五十丁石一里」には、次の二つのうちいずれか、 あるいは双方の理由が推測される。
・ 幕府公認の「三十六丁一里」による「一里の長さ」と、『四国遍路道指南』の「五十丁一里」は共に世間に定着していた。
これら二つの尺度の矛盾を解消するため、丁石による尺度「五十丁石一里」が生みだされた。

・ 真念が考えていたかもしれない「土佐の一丁は一里(約4km)を50等分した距離(約80m)」、即ち「五十丁石一里」 を丁石の建立者も同様に解釈していた。
足摺遍路道の起点が『四国遍路道指南』の著作者である真念の真念庵であることから、後世、四国内にわたり 「五十丁石一里」は丁石を建てる際の基準の尺度となった。

さらに推測であるが、
「五十丁石一里」による丁石の建立者は前記(1)〜(3)に掲げた事項のすべてを把握した上で「五十丁石一里」による丁石を建立したのではないだろうか。
第37番岩本寺から第38番金剛福寺への区間は、八十八ヶ所遍路道の中で最も長い81kmの距離がある。そのうち、足摺遍路道は岩本寺から金剛福寺に向かい53kmを歩いた後に続く遍路道である。
第12番焼山寺から第13番大日寺への遍路道は、第11番藤井寺から第12番焼山寺までの八十八ヶ所中屈指の難所を越えてきた後に続く遍路道である。
こんぴら街道は全国から長い街道、海路を経て、丸亀港に着いた後の最後の歩き区間である。
いずれも、きつい困難な行程を経た後の区間である。
 これらの区間で丁石の建立者は、「五十丁石一里」を用いて 距離【80m】のところを、丁石により距離『一丁』【109m】であると表示させることにより、巡礼者や旅人に「いつもより速く歩ける」、「ここは楽だ、疲れない」などと感じさせる ・ ・ ・ ・ 結果的に楽しい旅路を味わってもらう心配りを行ったのかもしれない。

 

4.おわりに

真念庵の案内板に書かれた一節に対する疑問から、丁石のことを調べた結果、足摺遍路道は、1里(「三十六丁一里」)約4kmの間に約80mの間隔で50の丁石が設けられている「五十丁石一里」であることが解った。
なぜ「五十丁石一里」になったかについては、インターネットの検索、近隣の図書館での調査、併せて高知、香川各県立図書館レファレンス担当から多大の資料の紹介を得たが解明することはできなかった。 しかし、いろいろ調べているうちに、そうではないだろうかというところまで、たどりつくことができた。
 もともと知識の全くない状態から始めたのであるから、当然ではあるが、調べれば、調べるほど新しいことを知ることができた。 調査しているなかで、遍路、遍路道について非常に多くの調査、研究がなされていること、今なお多くの方々が継続して研究されていることを知った。
「五十丁石一里」、おもしろいテーマであると思うのだが、いままで、 研究されていないようだ。今後とも継続して調べてみたい。将来新しい資料が見つかり、3・1、3・6項に示した推測が、覆される日が来るかもしれない。
 以前は、歩いていて特に気に留めなかった丁石であったが、調べ始めると、道中、どうしても丁石に目が向いてしまう。 真念、武田徳右衛門、中務茂兵衛の道標に出会い、歴史の一端、先人の偉業を直接感じることができ胸躍る思いがした。 トラックも重機もない時代に、これだけのものを建てることは、並大抵のことではなかったはずだ。
長い街道、深い山中に設けられた道標、丁石は、旅人、巡拝者に大きな安心感を与えたことであろう。 道標、丁石は数百年にわたる奉仕、お接待である。
 藤井寺から焼山寺へ向かう途中で、つい最近建てられたらしい真新しい舟形の丁石を見た。丁石は古く、風化し、苔むし朽ちかけたものばかりと思っていたが違った。今でも建てられているのだ。 一方、道沿いにはキロメートルで示された新しい道標が建てられている。「四国のみち」の道標、へんろ道保存協力会により建てられた平成遍路石、国道のキロポストに示される次の札所までの距離案内、いずれも新しいタイプの丁石である。丁石は進化し続けている。
また丁石を探しながら、へんろ道を歩くことを楽しみにしている。



最後になりましたが、お忙しい中、貴重なご助言、資料をいただいた前山おへんろ交流サロン、愛媛県歴史文化博物館、香川県立ミュージアムの担当者の方々にお礼を申し上げます。








足摺遍路道の起点

足摺遍路道の起点   土佐清水市下ノ加江市野瀬
( 左から二番目、自然石の丁石が「あしずり三百五十丁」の丁石 )




合 掌




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