尺貫法による一丁は約109mであり、一里は三十六丁、約4kmである。遍路道に建てられている丁石はこれを基準に建てられている。
しかし、この基準によらない丁石がある。
ひとつの案内板から生じた疑問について、調査した経緯をまとめた。
(おことわり 以下、文中に「丁」と「町」が混在しているが、引用元が「町」を使用している場合を除き、「丁」とした。)
高知県土佐清水市下ノ加江市野瀬にある真念庵の麓に、土佐清水市教育委員会が立てた案内板がある。
真念庵の案内板
(画像をクリックすると案内板の内容を見ることができます)
この中に次のような説明がある。
「 ・・・・・ この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」
一里は36丁である。一丁間隔で丁石を設けると、7里では36丁×7里=252丁、252の丁石になるのではないだろうか。
あるいは。350の丁石の数が正しいとすると、一里は約4kmであるから、丁石の間隔は 約4km×7里/350=約80mとなる。一丁(約109m)間隔というのは間違いではないだろうか。
不思議に思いホームページを検索してみたところ次のようなページがあり、いずれも「(約109m間隔)」「1丁間隔で」と掲載されていた。
なお、この真念庵から金剛福寺までの遍路道は「足摺遍路道」と云われている。
真念庵の案内板やホームページの説明文に疑問を持ち、土佐清水市に問い合わせたところ、土佐清水市教育委員会から次のような回答が寄せられた。
先頃、お問い合わせのありました、真念庵から金剛福寺までの距離の件について、回答致します。
1998年に、日本石仏教会から発行された「日本の石仏」の中に記載されていますが、 1里は、伊予と讃岐では36町、阿波は48町、土佐では50町となっています。
土佐では、1町が109mであり、50町は5,450mとなります。
5,450m×7里=38,150m(38q)となります。
現在は、道路が整備されており、整備された道路をとおると距離はかなり短くなります。
へんろ道は、ご存じのとおり、当時へんろさんが通った道であり、本来のへんろ道を行くと、38qとなります。
つまり、土佐清水市教育委員会は、
もともとのへんろ道の長さが長かったのであり、350の丁石も、一丁の長さ109mも正しいという見解である。
ところが、へんろみち保存協力会編(2007) 『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』によると、この区間の距離は28.2kmである。現在の歩き遍路のルートである。
確かに、遍路道は時代により変化するものであり、距離も変わってくる。
真念庵の案内板には「最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」と記されている。
もともと38kmであった遍路道のうち約14kmの区間が昔のまま残っているということは、38km−14km=24km(延べ距離)の道路が開発工事にかかっていることになる。現在の距離28.2kmの遍路道では28.2km−14km=14.2kmが開発工事にかかった部分である。工事により24km(延べ距離)の道路が14.2kmに9.8km短縮されていることになる。
それは、かなり数のバイパスやトンネルの施工がない限り考え難い。
前記地図『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』を見ても、それほど短縮されていると思える区間は見当たらない。
そこで、往時の遍路道のルートと距離を確認した。
丁石が建てられた頃の遍路道及び丁石の状況は、高知県教育委員会編(2010)『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示されており、確認することができる。
この資料に「真念庵から足摺岬までは江戸幕府公式の里程で三十六丁一里で七里であり・・・・・」との記述がある。「三十六丁一里」は約4kmであり、この区間はもとより約28kmであったことがわかる。
また同資料に足摺遍路道の起点となる真念庵の麓に「あしずりへ七り」、「左あしすり山みち七り」と記された道標があることが示されている。
さらに同資料に江戸時代の遍路道の地図とルートが示されており、距離計測サイトLatLongLabにより測ってみたところ28.4kmであった。
地図LatLongLab《http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=cc8de9bd10a6c883f39e621e69a16311》
(別のサイトに移ります。戻るにはブラウザの【戻る】ボタンを使用してください。
LatLongLabを見るには、MicrosoftのSliberlightのインストールが必要です)
また『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』のルートと『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示されたルート即ち、丁石が設置されているルートを対比すると、道路整備等により変更になった箇所はあるが、ほぼ同一のルートである。
さらに江戸時代の遍路道を調査した資料として柴谷宗叔著(2014)『江戸初期の四国遍路』がある。
この資料に真念庵から金剛福寺までの地図とルートが示されており、確認したところ『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』とほぼ同一のルートである。
真念庵の麓に「ありずり三百五十丁」の丁石があり、足摺へ向かい真念庵の前を経由し、「三百四十七丁」、「三百四十六丁」の丁石が続いているため、もともとの丁石の数は350に間違いはないと考えられる。
足摺遍路道の距離は7里約28kmであり、この区間に350の丁石が設けられているので丁石の間隔は約80mとなる。
1里約4km(「三十六丁一里」)の間に約80mの間隔で50の丁石が設けられていたのである。
以後、記述の簡略のため、この1里約4km、丁石の間隔約80mの路程を「五十丁石一里」とする。
前述の真念庵案内板の
「 一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」は
「 約80m間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」とするか
「 一丁間隔(この一丁は約80m)で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。 」と註釈を入れた方が良いのではないだろうか。
また土佐清水市と土佐清水市観光協会のホームページの
『「一丁・・・」(約109m間隔)』と掲載されている部分は
『「一丁・・・」(この場合の一丁は約80m間隔)』と変更するべきである。
足摺遍路道の各丁石に距離を示した案内標識が添えられている。
すべての案内標識が一丁を109mとして計算された距離が示されており、間違いである。
五十三丁の例
「足摺まで5777m」(109m×53)と説明がある。
正しくは「足摺まで4240m」(80m×53)である。
香川県丸亀市丸亀港から金毘羅に至るこんぴら街道のうち、丸亀市中府町の大鳥居から琴平町北神苑の高灯籠までの区間3里、12kmを150丁として丁石が設置されている。
平成17年に新たに建立された「平成の丁石」4基についても、12kmの区間を150丁として設置されている。
一丁の間隔は80mである。
こんぴら街道の丁石
(2) 第12番焼山寺から第13番大日寺に至る遍路道焼山寺から神山町鏡大師の西山麓を通り大日寺に至るルートである。
焼山寺下に二丁、大日寺手前に二百四十九丁の丁石があることから、大日寺までは二百五十丁と推定される。その間ほぼ連続して丁石が建てられている。
また大日寺入り口に「左焼山寺道五里」の道標がある。
『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』によるとこの区間の距離は20.8kmである。
20.8kmの区間を5里、250丁として丁石が建てられており、1里は約4km、丁石の間隔は約80mになる。
足摺遍路道と前項 2・5に示した区間の丁石について、なぜ丁石の間隔が「五十丁石一里」、約80m間隔なのか、調査した文献があるか確認した。
(1) 足摺遍路道豊田 武編(1968)『交通史』(体系日本史叢書24)に「戦国時代の頃までは、藩により一里が五〇丁、四八丁、四二丁、三六丁等々まちまちであった」と述べられている。
土佐についても土佐清水市教育委員会からの回答にあるとおり、一里は五十丁であり、一丁は約109mであるため、一里は約5.45kmであった。
しかし、これらすべては慶長7年(1602)に徳川幕府による「三十六丁一里」の布令が出されるまでのことである。
後述3・5に示すが、丁石等の道標が多く建て始められるのは、庶民の経済状態がよくなり、遍路の大衆化が始まった元禄(1688-1704)の時代以降のことである。
「三十六丁一里」の布令が出されてから80年以上が経過している。
その間幕府により、「三十六丁一里」による一里塚の設置、絵図の作成に伴う測量等が度重ねて実施されている。元禄の頃には、全国から巡礼に来る遍路を案内する共通の里程として、「三十六丁一里」が定着していたと考えられる。
さらに、足摺遍路道の丁石が建てられたのは弘化二年(1844)から嘉永五年(1852)の間である。
「三十六丁一里」の布令が出されてから200年以上が経過している。
足摺遍路道の里の長さとして「三十六丁一里」としての「一里」が用いられているのは、ふしぎではない。
足摺遍路道の中程、土佐清水市久百々地内に「四里四拾丁」の丁石 がある。
左側が二百卅九丁の丁石 、右側が四里四拾丁の丁石
この丁石から、ここに刻まれた「丁」は三十六丁を一里とする「三十六丁一里」ではないことがわかる。
「三十六丁一里」であれば、「四拾丁」はありえないからである。
( この丁石に並んで「二百三十九丁」の丁石がある。『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』によると「二百三十九丁」の丁石は現在地より南にあったことになっている。この付近は道路の拡幅工事が行われている。調査した時点以降に工事により、「四里四拾丁」の丁石の横に移設されたものと思われる )
『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』の地図によると「四里四拾丁」の丁石は、その順序と場所から二百四十丁の位置に建てられていることになる。
つまり、「四里四拾丁」は「二百四十丁」であり、この丁石に刻まれた「四里」は「二百丁」にあたるから、一里が丁石の数で五十丁であることを示している。
全区間が「三十六丁一里」による七里であるから、350の丁石と符合する。したがって、ここに刻まれた「里」と「丁」は、「五十丁石一里」を示している。丁石建立の際、「里」と「丁」の関係「五十丁石一里」が考慮されていたことが解る。
足摺遍路道の「一里」の長さは「三十六丁一里」による「一里」であり、丁石の設置は「五十丁石一里」に従っているのである。
なお、この丁石が建てられている場所は、金剛福寺から約19.2kmの場所にある。
「四里四拾丁」は3.924km×4里+78.5m×40丁=約18.8kmとなり、ほぼ一致する。
高知県内に残存確認されている455の道標のうち、「○里○○丁」と記された丁石で「○○丁」の部分が「三十六丁」以上の道標は、この丁石のみである。
『四国遍路道指南』は真念により著された四国八十八ヶ所のガイドブックであり、初版以降幾度も再版、改版がなされ、当時のベストセラーとなった書籍である。
『四国遍路道指南』は、『四国遍んろ道志るべ』、『四国遍禮道指南』(「遍」は「彳+編のつくり」)、『四国邊路道指南』、『新板大字四国遍路道志るべ』、『四国遍礼道指南増補大成』(「遍」は「彳+編のつくり」)、『天保再刻四国遍路道しるべ』など、いろいろと名を変えられて出版されている。またこれら版木による墨摺本以外に筆写本も確認されている。
この巻末に「土州 ・・・ 五十町一里」とある。
『四国遍路道指南』が記されたのは貞享四年(1687)である。幕府による「三十六丁一里」の布令から80年以上を経ている。
にもかかわらず巻末に「土州 ・・・ 五十町一里」と記述しているのは、なぜだろうか。
『四国遍路道指南』にはすべての札所間の距離が掲載されている。
土佐の札所間の距離が「五十丁一里」で掲載されているのだろうか。
確認のため、高知県内を通過する23番薬王寺から40番観自在寺までの各札所間距離を
@『四国遍路道指南』に示された里程
A「三十六丁一里」とした場合の距離(km)
B「五十丁一里」とした場合の距離(km)
C『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離(km)
について比較してみた。結果は次のとおりである。
札 所 区 間 | @『四国遍路道指南』の里程 | A三十六丁一里とした場合の距離(km) | B五十丁一里とした場合の距離(km) | C『四国遍路ひとり歩き同行二人』の距離(km) |
---|---|---|---|---|
薬王寺〜最御崎寺 | 二十一里 | 82.4 | 114.5 | 75.4 |
最御崎寺〜津照寺 | 一里 | 3.9 | 5.5 | 5.0 |
津照寺〜金剛頂寺 | 一里 | 3.9 | 5.5 | 3.8 |
金剛頂寺〜神峯寺 | 七里 | 27.5 | 38.2 | 27.5 |
神峯寺〜大日寺 | 九里 | 35.3 | 49.1 | 37.5 |
大日寺〜国分寺 | 一里半 | 5.9 | 8.2 | 7.5 |
国分寺〜善楽寺 | 一里半 | 5.9 | 8.2 | 6.9 |
善楽寺〜竹林寺 | 二里 | 7.8 | 10.9 | 6.6 |
竹林寺〜禅師峰寺 | 一里半 | 5.9 | 8.2 | 5.7 |
禅師峰寺〜雪蹊寺 | 一里半 | 5.9 | 8.2 | 7.5 |
雪蹊寺〜種間寺 | 二里 | 7.8 | 10.9 | 6.3 |
種間寺〜清滝寺 | 二里 | 7.8 | 10.9 | 9.8 |
清滝寺〜青龍寺 | 二里半 | 9.8 | 13.6 | 13.9 |
青龍寺〜岩本寺 | 十三里 | 51.0 | 70.9 | 58.5 |
岩本寺〜金剛福寺 | 十一里 | 82.4 | 114.5 | 80.7 |
市野瀬〜足摺 | 七里 | 27.5 | 38.2 | 28.2 |
金剛福寺〜延光寺 | 十三里 | 51.0 | 70.9 | 52.8 |
延光寺〜観自在寺 | 七里 | 27.5 | 38.2 | 25.8 |
また、『四国遍路道指南』の巻末に各国の距離が示されている。
なお、この巻末に示された各国の道法であるが、土州以外の阿州、豫州、讃州についても本文中に記載されている国境から国境までの各札所間の距離の合計と、巻末に記載されている距離は異なっている。この部分についても「聞きて書 見てしるされ」たのだろう。
(2) 『四国遍礼名所図会』『四国遍礼名所図会』は『四国遍路道指南』発刊から百数十年後の寛政十二年(1801)頃に発刊された案内本である。
この巻末にも同様に各国の距離一覧と集計の記載がある。
距離の値、「土州 ・・・ 五十丁一里」等の但し書きは同じである。
『四国遍路道指南』と『四国遍礼名所図会』によって「土州 ・・・ 五十丁一里」は世間に流布、衆知されていったのである。
『四国遍路道指南』より34年前の承応二年(1653)に出版された澄禅による『四国遍路日記』にも札所間距離が示されている。距離が記載されていない区間もあるが、次項(4)に示すとおり里程は、ほぼ『四国遍路道指南』と一致している。
この『四国遍路日記』の宿毛から寺山(延光寺)までの項に「 ・・・浄土寺ニ宿ヲ借リ荷俵ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」との記述がある。また神峰(神峰寺)の項に「麓ノ浜ヨリ峰ヘ上ル事五十町一里也。」との記述がある。
『四国遍路日記』の中に里程ついて記載されているのは、この2箇所のみである。
あえてこの2箇所にのみ「五十町一里ナリ」と記載しているということは、他の箇所は註釈する必要のない「三十六丁一里」による路程であるからと考えられる。
なお、この「 ・・・宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」の部分であるが、伊予史談会双書『四国遍路記集』に収録されている『四国遍路日記』には「 ・・・宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ」となっており「往来」(往復)の部分がない。
この底本となっている宮崎忍勝(1977)『澄禅「四国遍路日記」』には「 ・・・宿毛ヨリ往来二里也、五十町一里ナリ」と「往来」が記されている。
ここでは底本の記載によった。現在の浄土寺(宿毛市与市明)は30年ほど前に移築されたもので以前は宿毛市役所の近くにあった。その場所から延光寺までは約6km、往復で約12kmとなる。「五十町一里」で二里は約10.9kmとなるが、『四国遍路日記』は里単位で記載されているので、四捨五入を考えると、往来二里は約10.9±2.7km(8.2km〜13.6km)の範囲となり「往来二里也」と合致する。
書 名 | 四国遍路日記 | 四国遍路道指南 | 四国遍礼名所図会 |
---|---|---|---|
刊 行 年 (西暦) | 承応二年 (1653) | 貞享四年 (1687) | 寛政十二年 (1801)の頃 |
薬王寺〜最御崎寺 | 二十一里 | 二十一里 | 廿一里 |
最御崎寺〜津照寺 | 一里 | 一里 | 一里 |
津照寺〜金剛頂寺 | 一里 | 一里 | 壱里 |
金剛頂寺〜神峯寺 | 記載なし | 七里 | 七里 |
神峯寺〜大日寺 | 九里 | 九里 | 九里 |
大日寺〜国分寺 | 一里 | 一里半 | 一里半 |
国分寺〜善楽寺 | 二里 | 一里半 | 一り半 |
善楽寺〜竹林寺 | 記載なし | 二里 | 二里 |
竹林寺〜禅師峰寺 | 二里 | 一里半 | 一り半 |
禅師峰寺〜雪蹊寺 | 一里 | 一里半 | 一り半 |
雪蹊寺〜種間寺 | 二里 | 二里 | 二里 |
種間寺〜清滝寺 | 二里 | 二里 | 二里 |
清滝寺〜青龍寺 | 三里 | 二里半 | 二里半 |
青龍寺〜岩本寺 | 十三里 | 十三里 | 十三里 |
岩本寺〜金剛福寺 | 計の記載なし | 二十一里 | 二十一里 |
金剛福寺〜延光寺 | (月山経由) | 十三里 | 十二里 |
延光寺〜観自在寺 | 七里 | 七里 | 七里 |
上記表のとおり、『四国遍路日記』、『四国遍路道指南』、『四国遍礼名所図会』に示された里程はほぼ一致している。
これらの3資料には、足摺遍路道( 一ノ瀬《市野瀬》〜足摺 )の区間距離も示している。
いずれの資料も「七里」となっている。
年 | 西 暦 | 出 来 事 |
---|---|---|
天正10年 | 1582 | 豊臣秀吉 自領内で検地実施 |
天正19年 | 1591 | 秀吉 全国の諸大名に検地結果である郷帳(御前帳)と郡絵図の提出を命ずる |
慶長3年 | 1598 | 太閤検地おおむね終了 |
慶長7年 | 1602 | 徳川幕府三十六丁一里の布令 |
寛永9年 | 1632 | 徳川家光 諸大名に国絵図の提出を命ずる |
寛永15年 | 1638 | 徳川家光 改めて諸大名に国絵図の提出を命ずる |
寛永15年 | 1638 | 僧賢明 『空性法親王四国霊場御巡行記』を出版 |
正保元年 | 1644 | 幕府 重ねて諸大名に国絵図と郷帳の提出を命ずる 一里を六寸とする縮尺の統一を示す 現在の2万1600分の1に相当する |
承応2年 | 1653 | 澄禅 『四国遍路日記』出版 |
貞享2年 | 1685 | 大淀三千風 『四国遍路海道記』出版 |
貞享4年 | 1687 | 真念 『四国遍路道指南』を出版 |
元禄14年 | 1701 | 幕府 海岸線を有する国々に対し、「海際縁絵図」の提出を求める 「道程書上」の提出を命ずる |
元禄15年 | 1702 | 元禄日本図が完成 縮尺 32万4000分の1 |
享保2年 | 1717 | 徳川吉宗 日本総図の作り直しを命ずる |
享保10年 | 1725 | 日本総図完成 |
明和4年 | 1767 | 『四国遍路道指南』 再版出版 |
寛政6年 | 1794 | この年より武田徳右衛門 道標建立 |
寛政12年 | 1800 | この頃『四国遍礼名所図絵』出版 |
文化4年 | 1807 | 『四国遍路道指南』 再版出版 |
文化11年 | 1814 | 『四国遍路道指南』 再版出版 |
文化12年 | 1815 | 『四国遍路道指南』 再版出版 「新板大字四国遍路道志るべ」 |
文政4年 | 1821 | 伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」完成 |
天保7年 | 1836 | 『四国遍路道指南』 再版出版 「四国遍礼道指南増補大成」(「遍」は「彳+編のつくり」) |
弘化2年 | 1845 | 弘化2年から嘉永5年にかけ足摺遍路道の三百五十丁石が建てられる |
明治19年 | 1886 | この年より中務茂兵衛 道標建立 |
江戸初期までの遍路は主に僧、修験者による修行としての行脚であった。
庶民による遍路が多くなるのは、庶民の経済状態が安定し始めた江戸時代の中期、元禄時代(1688-1704)前後からである。
遍路の数、土佐および金毘羅街道の道標の建立数を調べた。
年代別遷移の状況を次に示す。
(1.遍路の数については、今井宏栄(1986)『近世の女性と巡礼 児島郡味野村の場合』「四国巡拝男女計」による。備前の一村(現 岡山県倉敷市児島味野)のことであるが、巡拝者の傾向を見ることができる資料である。ただし、元禄6年(1693)より安政6年(1859)までのデータである。2.土佐道標の建立数については、『高知県歴史の道調査報告書第2集 ヘンロ道』に示された集計による。3.金毘羅道標の建立数については、『香川県歴史の道調査報告.第五集 金毘羅参詣道T調査報告書』に示された集計による。)
これらによると庶民による遍路は1700年代から増加が見られ、それに伴い道標の建立数も増加する。
金毘羅街道の道標も同じ傾向を示している。
足摺遍路道、丸亀街道、焼山寺から大日寺の3ルートについて 「五十丁石一里」にした、あるいは、なった同一の根拠があるのではないだろうか。
その理由を考えてみた。
前述の歴史的背景、ならびに『四国遍路道指南』、『四国遍路日記』、『四国八十八ヶ所名所図会』の記載内容を総合的にみて「五十丁石一里」には次の3点が影響していると考えられる。
真念庵の案内板に書かれた一節に対する疑問から、丁石のことを調べた結果、足摺遍路道は、1里(「三十六丁一里」)約4kmの間に約80mの間隔で50の丁石が設けられている「五十丁石一里」であることが解った。
なぜ「五十丁石一里」になったかについては、インターネットの検索、近隣の図書館での調査、併せて高知、香川各県立図書館レファレンス担当から多大の資料の紹介を得たが解明することはできなかった。 しかし、いろいろ調べているうちに、そうではないだろうかというところまで、たどりつくことができた。
もともと知識の全くない状態から始めたのであるから、当然ではあるが、調べれば、調べるほど新しいことを知ることができた。 調査しているなかで、遍路、遍路道について非常に多くの調査、研究がなされていること、今なお多くの方々が継続して研究されていることを知った。
「五十丁石一里」、おもしろいテーマであると思うのだが、いままで、 研究されていないようだ。今後とも継続して調べてみたい。将来新しい資料が見つかり、3・1、3・6項に示した推測が、覆される日が来るかもしれない。
以前は、歩いていて特に気に留めなかった丁石であったが、調べ始めると、道中、どうしても丁石に目が向いてしまう。 真念、武田徳右衛門、中務茂兵衛の道標に出会い、歴史の一端、先人の偉業を直接感じることができ胸躍る思いがした。 トラックも重機もない時代に、これだけのものを建てることは、並大抵のことではなかったはずだ。
長い街道、深い山中に設けられた道標、丁石は、旅人、巡拝者に大きな安心感を与えたことであろう。 道標、丁石は数百年にわたる奉仕、お接待である。
藤井寺から焼山寺へ向かう途中で、つい最近建てられたらしい真新しい舟形の丁石を見た。丁石は古く、風化し、苔むし朽ちかけたものばかりと思っていたが違った。今でも建てられているのだ。 一方、道沿いにはキロメートルで示された新しい道標が建てられている。「四国のみち」の道標、へんろ道保存協力会により建てられた平成遍路石、国道のキロポストに示される次の札所までの距離案内、いずれも新しいタイプの丁石である。丁石は進化し続けている。
また丁石を探しながら、へんろ道を歩くことを楽しみにしている。
最後になりましたが、お忙しい中、貴重なご助言、資料をいただいた前山おへんろ交流サロン、愛媛県歴史文化博物館、香川県立ミュージアムの担当者の方々にお礼を申し上げます。
足摺遍路道の起点 土佐清水市下ノ加江市野瀬
( 左から二番目、自然石の丁石が「あしずり三百五十丁」の丁石 )
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