◇義誠国術館・最新ニュース

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◇拙著『自強不息』と『太極拳真伝』に対して、数名の人が書評を書いていただいていることが分かりました。
  中には連絡を取り合ったり当練習会にお越しいただいている方もおりますが、見知らぬ人たちの支援を肌で感じました。
  老子の言葉に玄牝之門という言葉があります。王樹金老師の教えでは玄は道をさし牝は陰徳を示す比喩表現であると考えております。形意拳の最終奥義とされる煉神還虚は、道と陰徳を一体化させた、玄牝之門を指すといわれます。今後とも煉神還虚を目標に修養に励んでまいりますので、ご指導ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。

                                            河野義勝

http://teamoon8.exblog.jp/5437323

http://blogs.yahoo.co.jp/arahan60/3699047.html

http://d.hatena.ne.jp/bodywise/20070202

http://orange.ap.teacup.com/giron/1.html?b=10

http://bagua.seesaa.net/article/47259278.html

http://review.rakuten.co.jp/item/1/213310_11996690/1.0/

http://blog.livedoor.jp/renkou888/archives/52343866.html

◇王樹金老師の月謝は高額だったでしょうか。
  (2005年11月21日のブログより転載)

  よく王樹金老師は高額な月謝を取ったといわれますが、私の知る限りそのような事は御座いません。万金のお金を払って鶉の卵なる秘術を習ったとか、普通の習い事の何倍も高かったとかいう話を、まことしやかに話されているようですが、そもそもこういう人は先生の人柄を知りません。
  私が習い始めたころ、光林寺の練習会の月謝は水曜日土曜日日曜日と週三回の稽古で月謝が一万円でした。初任給が11?2万の時代でしたので30年も前ですが、物価が2.5倍ぐらい跳ね上がったと思います。ですから現在の2万5千円くらいに相当します。一回に換算すると約二千円です。今の養神館での私の講座が事情もあり2500円でした。私程度の腕で先生より高い値段をとっていることになります.そのような訳で夢ひろばでは値下げをすることにいたしました。先生は決して高い月謝を取っておりません。

  それよりも鶉の卵とは何でしょうか。よく先生が拳を握るときは掌の中の卵を潰さないようなつもりで握りなさい。と言っておられましたが,そのことでしょうか。であるならば基本の一つであり、秘伝ではありません。

名優谷幹一さんの冥福を祈ります。

  朝サンスポのウェブサイトを見たら俳優の谷幹一さんがお亡くなりになられたこのが、掲載されておりました。私はこの方とは浅からぬ縁がありました。王樹金老師の元で稽古を始めたころ、老師を訪ねて光林寺にこられ、太極拳を一生懸命に習得されておりました。私の記憶では、先生がお亡くなりになるまで学ばれていたと思います。私などもずいぶん可愛がってもらいました。この方の太極拳は本物でした。
  王樹金老師を知る人が又一人お亡くなりになりなんとも寂しい気持ちです。
  ご冥福をお祈りいたします。
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200706/gt2007062615.html  

  キモ フェレイラ先生が創始した拳法術は、一切の見せ掛けの技を排除し、いかに相手を効果的に破壊することのみを追及した実戦拳法です。相手と刺し違えて瞬間に数箇所同時攻撃を加え相手を破壊することを奥義としております。
  私が始めてキモ フェレイラ先生にお会いしたのは、2 年ほど前のことでした。養神館で開かれていた私の講座に突然お越しいただいたときにのことは忘れることができません。其の時の受講生を相手に凄まじい勢いで攻撃を加え呆然としてしまいました。
  先生によると「拳法術の奥義はただ単に関節をはずすといったことはせずに同時に骨そのものを破壊して整復不能にしてしまう。」事だそうです。私見ですが、拳法術はアメリカで有名な武道家ウォルタア・ゴウディン先生やエド:パアカア先生の技をベースに白鶴拳や蟷螂拳などの中国武術沖縄の古武道や合気柔術などの世界の武道を有機的に統合したものに思えます。
  この優れた武道を多くの日本の人が理解することを望みます。
  最後に拳法術の技をご覧ください。http://www.youtube.com/watch?v=C1WtzPjC1mM

郷中教育〔ごじゅうきょういく〕について

  薩摩には、400年の歴史をを誇る教育制度「郷中教育(ごじゅうきょういく)」があります。

  
薩摩では、地域の小単位を郷中〔方限〕とし、郷中には、青少年が自主的に文武を学ぶ教育機関「舎」がいくつもあって、独自のカリキュラムをもって武道、道徳、文化、時事問題等を学びました。指導したのは、二才頭と呼ばれる青年のリーダー達でした。西郷隆盛や大久保利通など幕末の偉人が学んだのもこの「舎」です。
  
1911年、ジョージ五世の戴冠式に東伏見宮依仁親王ご夫妻に随行した乃木希典将軍はボーイスカウトの訓練を視察しました。その折にベーテン・バウエル卿にボーイスカウト設立の経緯を質問したところ、薩摩の教育制度を参考にして設立したと回答があったそうです。
  
郷中教育の基盤は、武道に励み、心身を鍛え、 廉恥を重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格を形成することにあり、「うそを言うな」「負けるな」「弱い者をいじめるな」の薩摩の教えを、島津日新公(じっしんこう)いろは歌の精神とともに受け継いでいるといいます。
  
早速「島津日新公いろは歌」(高城書房編)を入手し、読みましたが、中国の古典「陰隲録」にも匹敵する名文であるという事を感じました。

「いにしへの道を聞いても唱えても我が行いにせずば甲斐なし。〔注:道の教えを実践しなさい。〕」

「仏神他にましまさず人よりも心に恥じよ、天地よく知る。(注人の心に神や仏が住んでいるから、心に恥じるような行いをしてはいけない。)」

「種となる心の水にまかせずば、道より外に、名も流れまじ。(注:欲望の心を捨てて、良心に従って行動すると道もはずさない。)」

「道にただ身をば捨てむと思ひとれかならず天のたすけあるべし〔道のために命を捨てる覚悟となれば、天が助ける。〕」

等々、積善陰徳の大切さを述べたすばらしい文章です。このような教えに触れて育った子供たちは、日本を背負って立つ立派な人になるでしょう。

  先日、薬丸宗家と萩原先生のご好意により、家族とともに西郷隆盛と縁の深い四方学舎を訪れ、郷中教育に触れることができました。今回の旅行で郷中教育や自顕流の稽古を体験できたことは、息子にとって生涯の宝となることでしょう。

・最後に島図日新公いろは歌の全文を紹介いたします。

いにしへの道を聞きても唱へてもわが行いにせずばかひなし

楼の上もはにふの小屋も住む人の心にこそはたかきいやしき

はかなくも明日の命をたのむかな今日も今日もと学びをばせで

似たるこそ友としよけれ交らばわれにます人おとなしき人

ほとけ神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る

下手ぞとて我とゆるすな稽古だにつもらばちりも山と言の葉

科ありて人を斬るとも軽くすないかす刀もただ一つなり

知恵能は身につきぬれど荷にならず人はおもんじはづるものなり

理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき心の駒の行くにまかすな

ぬす人はよそより入ると思うかや耳目の門に戸ざしよくせよ

流通すと貴人や君が物語りはじめて聞ける顔もちぞよき

小車のわが悪業にひかれてやつとむる道をうしと見るらん

私を捨てて君にし向はねばうらみも起り述懐もあり

学文はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそなほ静かなれ

善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし

種となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ

礼するは人にするかは人をまたさぐる人をさぐるものかは

そしるにもふたつあるべし大方は主人のためになるものと知れ

つらしとして恨みかへすな我れ人に報ひ報ひてはてしなき世ぞ

ねがはずば隔てもあらじいつはりの世にまことある伊勢の神垣

名を今に残しおきける人も人心も心何かおとらん

楽も苦も時すぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし

昔より道ならずしておごる身の天のせめにしあはざるはなし

憂かりける今の身こそは先の世とおもへばいまぞ後の世ならん

亥にふして寅には起くとゆふ露の身をいたづらにあらせじがため

のがるまじ所をかねて思ひきれ時に到りて涼しかるべし

思ほへず違ふものなり身の上の欲をはなれて義を守れひと

苦しくとすぐ道を行け九曲折の末は鞍馬のさかさまの世ぞ

やはらぐと怒るをいはば弓と筆鳥にふたつのつばさとを知れ

万能も一心とあり事ふるに身ばし頼むな思案堪忍

賢不肖もちひ捨つると言う人も必ずならば殊勝なるべし

無勢とて敵をあなどることなかれ多勢を見ても恐るべからず

心こそ軍する身の命なれそろゆれば生き揃はねば死す

回向には我と人とを隔つなよ看経はよししてもせずとも

敵となる人こそはわが師匠ぞとおもひかへして身をもたしなめ

あきらけき目も呉竹のこの世より迷はばいかに後のみやぢは

酒も水流れも酒となるぞかしただ情あれ君がことの葉

聞くことも又見ることも心がら皆まよひなりみな悟りなり

弓を得て失ふことも大将の心一つの手をばはなれず

めぐりては我が身にこそは事へけれ先祖のまつり忠孝の道

道にただ身をば捨てむと思ひとれかならず天のたすけあるべし

舌だにも葉のこはきをば知るものを人は心のなからましやは

酔へる世をさましもやらでさかづきに無明の酒をかさぬるは憂し

ひとり身をあはれと思へ物ごとに民にはゆるすこころあるべし

もろもろの国や所の政道は人に先づよく教へ習はせ

善に移り過れるをば改めよ義不義は生れつかぬものなり

少しきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなき十六夜のそら

[島津日新公いろは歌:高城書房編]

  5月19日鹿児島に赴いて西郷隆盛とその側近桐野利秋の墓参りをしてまいりました。薩摩の秘剣薬丸自顕流の使い手桐野利秋については意外と知らない方がおりますので紹介いたします。

・桐野利秋

  天保9年(1838年)12月桐野兼秋の第三子として生まれる。幼名は信作。名は利秋、通称は半次郎という。初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称した。5人兄姉弟妹(きょうだい)で、上から与左衛門邦秋、姉、半次郎利秋、山内半左衛門重邦(山内家の養子となる。西南戦争に従軍)、妹の順。
  その家系は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)に起こると称す。十歳の頃父与右衛門が徳之島に流罪とになっており兄与左衛門を助けていたが、18歳のとき兄が病没してからは小作や開墾などで生計を支えた。郷中〔薩摩独特の私塾〕の士と交流し、その中には生麦事件で英人を斬った奈良原幸五郎や寺田屋事件で死んだ弟子丸龍助など精忠派の士が多く、彼らの影響を強く受けた。


・幕末・人斬り半次郎

  文久2年(1862年)、島津久光公に随って上京し、尹宮(朝彦親王)附きの守衛となり、列藩の志士たちと交際し、小松帯刀らから用いられるようになった。元治元年(1864年)、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴き、初めて軍事偵察の能があるのを知られた。かねて列藩志士と交際して長州屋敷にも出入りしていたので、禁門の変に続く第1次長州征伐の際には、西郷隆盛に志願して長州に赴き、脱藩したと称して入り込みを計ったが失敗した。
  薩長同盟の成立に奔走し、成立後は両藩の親睦のために木戸孝允などと交際を重ねていた。慶応13年」薩摩藩の軍学者赤松小三郎を幕府の密偵として暗殺した。又坂本竜馬暗殺の首謀者の探索にも奔走した。その後は戊辰戦争で功を立て小隊の小頭見習いになりその後西郷隆盛が東海道先鋒隊率いて先発東上したときは城下一番小隊隊長となり小田原、静岡を占拠、その後西郷山岡鉄舟会談や西郷勝海舟会談の警護に当たった。その後会津若松城攻略に参加し会津藩が降伏した際、城の明け渡しのさい、受け取り役となったがこのときの手際のよさが評判となった。


・明治新政府・陸軍少将

  明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられとき、第一大隊の隊長となった。明治4年(1871年)廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入され、陸軍大佐に任じられた。7月、陸軍少将に昇進した。明治5年(1872年) 4月、熊本鎮台鎮西の司令長官に任命され、熊本に赴任した。このときの経験から、11月徴兵令が発布されたときは批判的であった。同年7月、桐野は北海道に視察に行き、帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所の所長に転任した。10月、征韓論が破裂して西郷隆盛が下野すると、辞表を提出して帰郷した。
  
その後西南戦争で」西郷の死を見届けた桐野は勇猛に戦って頭を打ちぬかれて戦死した。享年40歳である。(参考ウィッキペディア: 桐野利秋のすべて:学習研究社〕

  西郷隆盛や桐野利秋、東郷平八郎などを生んだ薬丸自顕流は、薬丸自顕流第14代薬丸康夫宗家の下、気骨ある若者の手によって保存をされております。この流派の発展を心より祈念いたします。

                                                  
河野義勝

◇中の徳について

  易経の思想で重要なものの一つに中があります。極端な偏りを嫌うことを中といいますが、東洋思想の大家公田連太郎先生は中について以下のように述べております。

  東洋思想の権威でいらっしゃる公田連太郎氏は、中についてその著書易経講話に、以下のように述べておられます。
「周易の言葉に中といふことがある。中といふは、善い意味の中庸のことであり、心に思う事、口に言ふこと事、身に行ふ事が、行き過ぎもせず,控え目に過ぎもせず、謂はゆる過不及の無いことで、程善き節度に中たることである。」【公田連太郎氏著易経講話】

  易の中は活溌に活動し変化して一刻も停止していない中なのである。今日は斯うする事が中であっても、明日は中にならぬ。時々刻々に変化するのである。」【公田連太郎氏著;易学講話】

  三体式は、此の二つの理論を体現したもので、郭雲深老師は、三体式こそが中の意思であり、中和の起点を得ることであると述べ、又中を得ることによって初めて活溌に変化することが出来ると説いており、「純粋で自然で心の本体は何ら執着もなく応変の作用があるのに任す。」と述べまた「一点の血気を加えることもない。」と述べております。三体式を構えるとき、前に俯いたり後ろに反ったり左右の傾くことをきらい姿勢を中に保とうとするのは、易の中の思想からではないでしょうか。三体式の立ち方を中定歩と呼んでいる一派も在るようです。
  私は中とは心の執着や偏りや我欲を捨て去り純粋に天之御中主ノ神(つまり太極のこと。御中主ノ神の中とは、陰と陽の中にあるという中の思想を著しているのではないでしょうか。)の心を受け命を全うすることであると考えております。此の発想は神道では産霊(むすび)であり、仏教では念仏であり(ちなみに仏教には中道という言葉があります。)又キリスト教の祈りでもあり儒教の中庸であり道教も中論であります。三体式より派生した太極拳形意拳八卦掌も中の精神を以て行うべきであると確信いたします。中岡理泉氏は易の極意を「至誠を画して理を窮め、化生の機微を伺い奉る。」と述べておられますが、至誠とは中庸の言葉であり、武道とくに内家拳の奥義も茲にあるのではと思う次第です。

※参考 郭雲深老師の教え(孫福全老師著 拳意述真より)

・二則:形意拳の起点は三体式(三体とは天地人三才の像である。孫福全老師著形意拳学より引用)である。片方に重心をかけて両足に鈍く重心をかけてはいけない。片足に重心をかけるとは片足を地に着け片足を空中でぶらぶらさせるにではない。前足が虚にもなりうるし、実にもなりうるし、ただ後ろ足に重心があるにすぎなく。
  以後の各技を練習していく上でまた、両足に重心をかけることがあっても、両足に重心をかけた技だとしても片足に重心をかける原理から離れるものではない。極めて高い形式、思いっきりうつむいた形式、極めて低い形式 思い切り仰向いた形式は、全て三体式の片足に重心をかけた、中心を守った姿勢からかけはなれていない。故に三体式は全ての型の基礎であり三体式の片足に重心をかけるやり方は、その中和の起点を得ることが出来、動作は俊敏で、形式は一息におこない、とぎれが全くない。両足に鈍く重心をかけた三体式は、形式が鈍重で肉体的な力が極めて大きく(訳注:要するに力んでいるということ。)陰陽が分かれていない。乾坤が区別できず奇数と偶数(訳注:易学では奇数とくに九を陽偶数とくに六を陰とします。)が明らかにならず。剛と柔が見分けられず。虚実がはっきりせず内開外合が明白ではなく、進退、上下の動きが俊敏ではない。 
  それ故形意拳の三体式は、その片足に体重をかけた中和の精神を得られなければ、先天と後天もまた交わらず 剛が多く柔が少なく。中和を見失ってしまうし、道理また不明であるし 変化にもまた通暁していない。

  自ら血気の拘束を被り、拙いけいの締めつけるところとなる。此は皆三体式に於ける両足に鈍く重心をかけたために被った結果である。もし片足に重心をかけた三体式中和の道理を得て行えば、片足に重心をかける形式か、両足に重心をかける形式かを問わず、可もなく不可もない。(孫福全老師:拳意述真)心が中の精神に至れば形に表れ又形が中に至れば心のバランスがとれてきます。心と形は表裏一体で切り離すことが出来ません。

・第6則:人が未だ拳術を練る前は、手足の動作が後天の自然の性質に沿っており、壮年、老年から死に至る。道に通じた人は、先天を逆に運び乾坤を変転させ長生の術を求める。拳術もまた然りである。静から動によってその機となし、動から静へ再び至ることが三体式となる。
  その姿勢は、前足が虚でありまた後ろ足が実で、俯かず仰向かず、左に傾かず右に傾かず。心の中は虚空になり、静に至り何もなくなってしまい、少しの血気も内に加えられない。純粋に自然で心の本体は何ら執着なく応変の作用があるのに任せれば、本体によって、再び動きが芽生え練って行き、拳中に純粋に自然の真けいに任せ、このことを、又人の本性といい、煉丹の道の最初の還虚の理といい、更に善を明らかにして最初の道に復する。と言う。その三体式の霊妙さは真伝を得なければ知ることが出来ない。その内中の意思は、煉丹の道で言うところの意念を集中する、或いは大学で言うところの徳を明らかにする。孟子の言うところ浩然の気を養う。河図の中の5の一点、太極の先天の気と相通ずる。その姿勢の中とは、単に身体の両足の中に均等に立つと言うことではない。中とは、規則に於ける法則を用いることであり、つまり体内を散乱し、外に広まった霊気を縮めてもどし、内に返還する。
  生気は原初に還り、自然と血気は内面に加わることがなく、心中は、虚空になる。此を中といい、または道心(天理の発露する心。本然の心。私欲におおわれない心。本心。岩波広辞苑)と言い、此によって再び動き出すのである。丹書(煉丹修養法のことだろうか。)静は性(1.心の静なるをいふ。2心の本体:煉丹修養法 易学では太極あるいは神のことを性という。)となり、動は意(意志。神が意志を制して気血を守らざれば、丹なり難し。煉丹修養法)となり。妙用は神(心の妙用。煉丹修養法)となる。故に拳術(三体式)が再び動き練っていくのを先天の真意といい、身体の手足動作が即有形物となり此を後天という。以後は、後天が規則法則に合い、先天の真意を形容し、自ら初めて還虚(身心を虚空の如くに観じて忘我の境にはいること。以て陽を発生せしむる方便とす。)になり、又終わりの還虚にいたり、端のない無限の循環の理となり、無声無臭の徳となる。、此は皆形意拳の道である。この拳術で最初に積み上げた真意と気が満たされるのを以て、中立にして偏らず、和して流れず、無形無相であり、此を拳中の内頸と言う。(内家拳術の名の由来はこの理から来ている?)
  

  拳術の内頸を最初に練習の時、人は皆そのことを知らない。それ故に正しい理なのである。その理は極めて微妙なので後輩が誤った道に入らないように詳細を述べておかないわけには行かない。入門したての初心者にとっての三つの害と九つの要点がある。三つの害は、犯すなかれ、九つの要点はその理に違反するなかれ。(この二つの事柄は八卦拳学と言う書物に詳しく述べてありますので後ほど紹介します。)手足の動作は、規則に合わせて三体式の本体に違反してはならない。此を息を調えると言う。練習の時は口は開くようでいて開かず合わせるようでいて合わせず。純粋に自然に任せ舌は上顎につけ、鼻から息を出す。平常練習をしていないとき練習が修了して収まったとき等は,口は閉じて開けてはならず、いつも鼻から気を出さなければならない。話をするとき、食事をするとき、お茶を飲むときは口を開けてもよいがこの時以外は舌を上顎につけ口を閉ざし鼻から気を出させる。このことは謹んで行わなければならない。又横になって寝るときもこのようにしなければならない。練って手足が合い、上がり下がりや、前進後退が一つになり、このことを、息を調えるという。手足の動作が規則に合わなかったらば上下の動きが完備せず,進退の歩法が滅茶苦茶に乱れそれにつれて他が逐次動き出し、(波及して)呼吸の気が不均等に噴き出し気がはなはだ荒く、胸もうっとうしく、これらは皆上下進退手足歩法が規則に合わないからである。此を息が調わずと言い、息が調わない原因は、拳法と体が順序正しくならないからであり人のばらばらに撒き散らした神気を拳中の規則を用いて順中の逆を用いて(自然に任せていれば放出しっぱなしの神気を逆に体内に納めると言うことでしょうか。)丹田の中に小さくしてもどすし、丹田の元気と交わって自らは無であるが有に、自らはわずかではあるが著しく、自らは虚であるが実になり次第に蓄積して成し遂げる。此が拳の内頸である。丹書に言う凡人の呼吸を以て真人の呼所とする(真人呼吸の処:丹田の称。真人の呼吸は口鼻を以てせず、丹田を以てす。:煉丹修養法)壮子の言う真人の呼吸は、踵を以てする。は、このことである。拳術で呼吸を調えその後に天の陰気が積み上がることとなり、 若しくは、下腹部が、石のようにがちがちになったら此は後天の気を無理をして蓄えたのである。全て呼吸は純粋に自然に任せなければならない。真意の元神を用い(煉丹修養法の、心中の元神のことだろうか。ちなみに同書で、元神は心の本体にして精粋成毛の。故にいふ。と説明しております。)此を丹田に引く。腹は実とは言うものの虚のようでもあり有ではあるが無のようでもある。老子の言うところの「綿々として存しているようである。」とか又その心を虚にし尚かつ霊性をごまかさず、道心をふるいおこせば、生気は常に存在し亦此が意念であるし、この理が即拳中の内けいの意義である。  (孫福全老師 拳意述真)

◇老子 天長地久章第七(老子想爾注より)

  天は長く地は久しい。天地の能く長く久しき所以のものはその自ら生ぜざるを以って故に能く長久す。法が大道を学ぶことが出来、それゆえに自然に生まれ、また永久であることが出来ます。
  
是において聖人はその身を後にして身を先んじ: 長生の人は身を養う事により財産を求めて慮るべく精神をあくせくさせません。又此れといった功労の無い時身の栄えをもって君主を脅迫し爵位や俸禄を強奪することもありませんし、きままに美味を楽しむ事もありません。
  衣服はぼろで靴は穴があいても意に介さず、俗人と競い合いません。たとえ身を後ろに置いても、このようなことがかえって神仙のような長寿を得られ、俗人の及ばない先の幸福を得ているように見えます。これは身を用いて先に居るという事です。
  
その身は外にして身存ず。:前の句と同じ意味を含んでおります。
  
其の尸無きを以って、故に能く其の尸と成す。:長生の道のない人は、霊魂のない体と同じです。道に従わないで行うことは皆死体が歩いたり行ったりするのと同じです。それ故道を得る事は、神仙のような長寿を得る事であり、死体が歩いたり行ったりするのとは違いますから、世俗の人とは当然違い、自身を死から復活させる事が出来ます。これは仙人の為せる業に相違ありません。
  
之は身を引くことによって精神を高めることの大切さを説き、財産や名利を求める気持ちを捨ててはじめて俗人の及ばない幸福を得ることが出来ると説いております。名利を求める気持ちを捨てることが武術を学ぶ上で如何に大切か、理解いただければ幸甚に存じます。
  私は企業家ですから当然仕事では利益を得ようとします。然しながら自分が得たもの以上に周りに尽くすことが大切ではないでしょうか。それから好きな武道では名利を得たくありません。

◇上善若水の精神

  老子第八章に上善若水があります。上善である道は水のようであるという教えです。これは、水は柔弱であり、高いところから低いところへ流れ、実を避け虚に帰ることを言います。常に周りを潤し身を低くして争わず、又川などに流れ出た汚物を受け入れ浄化する作用があります。
  中国では道の教えを先天の大道といいます。易経では無為自然の状態〔無極〕から根源の一気が生じ、それから陰陽に分かれ陰陽から四象・八卦へと物質が変化してゆきます。拳法の奥義が記載された書物「拳意述真」の教えに煉精化気、煉気化神 煉神還虚、があります。精とは諸々の物質をつかさどるエネルギーです。気は根源の一気で神は、気が生まれる前の無為自然の道で先天の大道を意味します。拳法の修行は物質外面の技を練り上げながら根源の気を煉り遂には名利や人からどう思われるかといった欲を捨て、解脱とも言うべき大道の世界に入ることを目的とします。
  私のところに来られた生徒さんは、私が至らなかった境地無為自然の大道の境地に到る様に頑張っていただきたい。我欲を捨てた真っ白な心に、善行の種を蒔いて、宿命を立て直す、立命の境地に立っていただきたいと思います。私も王樹金老師の元で志を立てて今日に到っておりますが、とても満足のできる状態ではありません。皆私のレベルでおさまらず、積善陰徳の人になっていただきたいと思います。

◇柔道一直線について

  生まれて初めてアマゾンで注文を出したDVD柔道一直線が昨日届きました。私にとって、この作品は記念すべきドラマでした。この作品を見て武道を志し、王樹金老師に出会い、主人公一条直也のように身命を擲って入門を申し出ました。
  最初はこの主人公と同じように「弟子をとる気は無い。」と断られましたが、「教えてくれるまで、引き下がるものか。」と思い、一条直也を真似て土下座を通しました。そうこうしているうちに技を学べるようになりました。一条直哉の先生の車周作のように怒鳴りつけはしなかったものの、単調な練習の繰り返しばかりで、組み手のときは思いっきり入れられ、尻餅をつかされ服がどろどろになったり、今考えると無茶をしたものだと思います。「お前なんか何回向かってきてもいちころだ。」といわれ悔しいから「今に見ていろ10年たったら負かしてやる。」と負けずに言い返したのも今となってはいい思い出です。
  「何があってもこの先生についていこう。」と思い、
頑張り通してまいりました。少年時代私はこの作品から多くの影響を受け王樹金老師に師事することが出来ました。王老師は車先生以上にあるときは厳しくあるときは深い愛情を持って接してくれました。そもそも拝帖を出して弟子入りをすることの意味は、単に技を受け継ぐという意味合いでは有りません。弟子は先生のために命を賭け絶対的な忠誠心を誓い、先生は生徒に対して命を賭けた付き合いとなります。
  当時のことを知る台湾出身のある方は「君は若いときも今も王先生に対する態度はぜんぜん変わっていないなあ。」と言っていましたが、私にとって世界一の先生ですから気持ちの変わりようがありません。今日はユックリこのDVDを見ていようと思います。

                                             河野義勝

                                              5月14日

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