後にも先にも陸軍主力高射砲
十一年式七糎半高射砲では、発達する航空機に追いつかなくなり、次期野戦高射砲が野戦高射砲が必要になりました。陸軍技術本部ではすでに内々で設計が終了しており、大正15年2月に陸軍省からの許可が下りると同時に試作に着手、大正15年4月には試作砲完成という陸軍でも異例の速さで進行しました。
実用試験でも発射速度・射高など十一年式を遙かに凌ぐ高性能を発揮、昭和3年に仮制式となりました。しかしここまでで2年も掛かっています。
まずは初速の増加による散布界の縮小、弾丸が目標まで到達する時間の短縮により命中率が向上したというのが大きな点です。発射速度自体は低下しましたが、これを補って余りあるものでした。しかし初速の増加ということは砲床に与える衝撃も大きく、また爆風も大きいため平射に制限が付くことになります。試験の結果15度までの仰角制限が付きました。つまり開発終了時点では、ドイツの88粍高射砲の様に対戦車射撃などできる代物ではありませんでした。この点は要塞の固定式に限り昭和9年6月に改良が完了、制定されましたが野戦用については放置されました。野戦用も改良されていれば、ドイツのように対戦車水平射撃も盛んに行われていたかもしれません。
移動時は5本の脚を閉じて車輪を装着し、重量が減った分牽引車ではなく自動貨車で牽けるようになりました。しかし牽引車より高速がでる自動貨車ですので、当初はソリッドタイヤであったこともあり、足回りと衝撃に弱い駐退機などを改良する必要がありました。後にパンクレスゴムタイヤに改められました。移動状態から放列布置までは5分、撤去も同様でした。
撃墜するのに必要な高射装置は、十一年式の簡易型から進歩して八八式高射照準具が使用されました。これでも実際には直接照準のために精度は高くなく、後に未来進路も計算できる電気式高射算定具に変わっていきました。
大東亜戦役の頃には、射程に問題が有りつつも全戦域と多くの船舶に搭載され、終戦まで戦い抜いたのでした。
仮制式制定 | 昭和3年8月 |
口径 | 75粍 |
高低射界 | 0〜85度(−7〜85度) |
方向射界 | 全周 |
初速 | 720米/秒 |
最大射高 | 9100米 |
最大射程 | 13800米 |
発射速度 | 15発〜20発/分 |
閉鎖機 | 水平鎖栓式自動鎖栓機 |
放列砲車重量 | 2450瓩 |
生産数 | 2000門余 |