大正時代に入ってから、航空機の発達は日進月歩、急速に発達していきました。勿論軍用機の発達は、民間機に比べれば格段の進歩を遂げていきます。特に空から爆弾が降ってくると、陸上でも反撃の必要があり、各種の砲から独立して高射砲の開発が始まりました。
もっとも、当初の軍用機は刃布張りで速力もさほどあらず、小銃で対抗できていましたが、次第に高度が高くなり銃の射程では手に負えなくなったのが作用しました。
我が国でも開発は進めていましたが、大正10年頃迄は既存の野砲を高角にしたもののみで採用に至っていませんでした。
最初の本格的高射砲は大正9年の設計で、大正10年大阪砲兵工廠にて試作砲完成、大正11年制式化しました。展開までに5分撤収5分、発射速度毎分20発、自動信管調整と、まずまずのものができました。この性能は欧米各国に較べて、何ら遜色が無いものでありました。これが十一年式高射砲となりました。
しかし時代遅れになるのがあまりに早く(航空機の進歩があまりに速く)、昭和3年には、生産が打ち切られてしまいます。合計たったの40門しか製造されませんでした。
次に制式化されたのが、大正13年の十四年式十糎高射砲です。当時の物としては傑作でしたが、機動性がやや劣り野戦向きではありませんでした。本格的な野戦高射砲は八八式まで待つこととなります。
大正15年、十一年式の後継砲として八八式の試作が完了しました。ちょうど宇垣軍縮で装備の近代化が進んでいた頃です。昭和2年に実用試験が終わると、昭和3年に制定されました。制定まで時間がかかっていますが、この間に機動性と実用性が徹底的に試されています。その性能は大変良く、大東亜戦役の終戦まで主力野戦高射砲として使用されました。あまりに使い勝手が良かったためか、以後五式高射砲を開発するまでまともな高射砲開発は行われませんでした。
大東亜戦役に入った後は、鹵獲兵器に優秀な物が多かったため、開発をするよりコピーした方が早かったようで、九九式、四式など多くの傑作コピー高射砲が出現しました。
因みに三式は海軍の八九式12.7糎高射砲をコピーした物です。
B29の脅威
大東亜戦争末期には、皆さんご存じの通りB29が大挙して押し寄せました。これには八八式ではとても届かず、三式や四式も有効性が少ないため新高射砲が開発されました。
陸海共同開発で五式十五糎高射砲が完成したわけですが、五式の名前の通り昭和20年ですので、実戦配備に間に合ったのはたった2門でした。
帝国陸軍の高射砲は初期でこそ世界に通用する、またはそれ以上のものがありましたが、昭和初期から停滞し始め、結果的に開戦後は後を追っていくような状態となってしまったのであります。
考えてみれば、高射砲に限らず戦車などにもそれは当てはまります。使い勝手が優先して性能にまで頭が回らない硬直した精神構造があったのかもしれません。または単に工業力が追いつかなかったか…。