制式制定 昭和14年
口径 88粍
高低射界 −11〜80度
方向射界 全周
初速 800米/秒
最大射高 10420米
最大射程 15700米
発射速度 15発/分
閉鎖機 垂直鎖栓式自動鎖栓機
放列砲車重量 6500瓩
製造数 1000門弱
九九式八糎高射砲
三式十二糎高射砲
仮制式制定 昭和19年
口径 120粍
高低射界 −8〜90度
方向射界 全周2回転
初速 853米/秒
最大射高 14000米
最大射程 20500米
発射速度 10発/分
閉鎖機 水平鎖栓式自動鎖栓機
放列砲車重量 19808瓩
製造数 140〜150門?
四式七糎半高射砲

三式十二糎高射砲

 陸軍では海軍と違って、陸上機動のために火砲の重量に制約がありました。そのため海軍のようにより大きく、他国より大口径にということができません。大きくすればそれだけ重量がかさみ、牽引する車輌もより大きくなります。つまりコストが効果に対して反比例的に大きくなるため、開発もそれを踏まえた物になってしまうのでありました。
 他方海軍は艦艇という箱があり、これにまとめることができればいくらでも大口径の砲が載せられます。(理論上。) ですから海軍にとって7.5糎や8.8糎は小口径であって、対空には12.7糎が主要装備でした。確かに大半の艦艇に八九式十二.七糎砲が装備されていたのは事実でして、陸軍はこの高性能な砲に目を付けました。
 基本設計は既にできあがっているような物ですし、信頼性は海軍の一般的な砲ということから抜群ですので、陸軍式に改められた後試作後すぐ昭和18年3月には量産体制に入り、国内要地に配備されました。
 各種機構も海軍式が多く取り入れられ、迅速に照準が付けられました。すなわち電気式高射算定具から自動的に諸元が導き出され、ウィリアムジョンネ式水圧整動機が連動して砲身を敵機に向けるという、現代のコンピューターの走りだしのような機械で機動しました。
 信管はそれまでの火導式信管から機械式時計信管に変更され、精度はますます向上したのであります。
 この砲もあくまで固定式です。移動はほとんど考えられませんでした。

陸軍部外から取り入れた高射砲たち

仮制式制定 昭和19年
口径 75粍
高低射界 0〜85度
方向射界 全周
初速 850米/秒
最大射高 11000米
最大射程 17000米
発射速度
閉鎖機 水平鎖栓式自動鎖栓機
放列砲車重量 3355瓩
製造数 70門程度

 昭和の長い戦役の中で、陸軍は様々な鹵獲兵器を手に入れました。それらは全く使い物にならない前時代の物であったり、或いは帝国の兵器よりも優れていたり、或いは技術的に又は予算的に真似できないものであったりしました。
 同じように海軍から学んだものもありました。元来陸軍と海軍は仲が悪く、明治初期や大東亜戦役終戦直前を除いて共同で開発を行うなど、滅多にありませんでした。
 ここで取り上げている九九式八糎高射砲と四式七糎半高射砲は他国から、三式十二糎高射砲は海軍を参考にしたものです。参考にするだけあって、陸軍の既存高射砲よりは優秀でした。

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四式七糎半高射砲

 昭和10年代初めに八八式七糎半野戦高射砲がすでに時代遅れになっていたのは既に述べた通りですが、これに替わるべき高射砲はなかなか完成しませんでした。
 すでに試作も2次に亘りつつも、性能が今ひとつで採用されませんでした。
 仕方なく海外の高射砲も考慮に入れて審査した結果、ボフォース社の75粍高射砲を採用することとなりました。
 やはり優秀な高射砲でしたが、大きな新機軸もなく、75粍の口径レベルであること、砲身を長くしたため初速が上がり砲身命数に問題が出るなど問題もありました。
 この砲は野戦・要地防空両用のために重量制限があり、整動機は備えられず高射算定具は電気式ですが、砲身指向は手動でした。
 野戦用の牽引は九八式六屯牽引車で時速45キロを発揮、迅速な展開と相まって、評価は良かったようです。

九九式八糎高射砲

 昭和12年支那事變に於いて、南京江陰砲台から大変優秀な高射砲を20門鹵獲することができました。これこそ有名なドイツのクルップ88粍(海軍型のSKC/30)高射砲です。日本の規格に合わない照準装備以外は、製造の問題から改設計するよりコピーした方が早いので、ほとんどコピーという状態でした。
 しかし確かに新型兵器なのですが、以前からの体制は変えられず、結局審査・実用試験で2年以上かかり、生産は昭和17年9月からでした。この頃には高々度の航空機実用化も見えてきていて、時代遅れになりかけていました。しかし信頼性は高く、生産数もかなりの数でした。
 九九式八糎高射砲は基本的に固定式で、要地防空に使われたほか運搬車もあり、牽引車で移動することもできました。しかしあくまで固定砲です。