神社
延喜式式内社
 律令制度では、律を刑法と基本法、令は現在の民法や行政法、格・式は施行法と細則です。律から式へと段階的に詳しく記載されております。
 この中で神社関係のものがあり、特に現在残っている物でもっとも揃っているのが延喜式です。延喜式中には各種祭事の細則と第9巻に神名帳という全国の天神地祇3132座2861社が載った部分があり、これに記載されている神社を延喜式内社、略して「式内社」と言います。もちろん日本全国六十余州の(北海道を除く)畿内に名が聞こえた神社ですから、古くからある所ばかりですし、各地には神名帳に載らない更に小さい神社もたくさんありました。

 これらの神社は官幣大社・官幣小社・国幣大社・国幣小社の4種に分けられ、それぞれ班幣(宮中の祭事の際に幣帛-神前に奉る絹の布-を頒かつ儀式)の祭典数が違いました。
 また、現代に於いても式内社といえば重みも少々違ってきます。このあたり、差別化を図っているように聞こえますが、ちょっと意味合いが違います。全国各地の小さい神社にはそれぞれに縁起が残っていることがありますが、不思議なことに多くの神社がほぼ同じような時期に「創建」とされています。風土記などで創建時期が確認できれば、信憑性も高まりますが、この場合公文書に残されていると言うことはかなり重要なことなのであります。
 すなわち式内社は、延喜式成立時にはすでに存在し、なおかつ更に古い神社であることが証明できるという点が重みを増すのであります。

 式内社は、やはり畿内の神社が多く記載されています。これは仕方のないことなのでしょう。
概説
 神社自体は、古来からの自然崇拝でありまして、国家が関与して創祠されたものではありません。勿論「神社」という言葉も漢字が導入されてからのものです。いつ頃から祀られるようになったかということは、とてもわかることではありません。ただ、恐れをなす対象となった「大自然」というものを意識しだした頃から「神」という概念が生まれ、これを崇拝するようになったのであろうと思われます。
 神社の形態も、時代と共に変わっていきました。
 信仰の原形は、先ほども申しましたが、自然ですから、これを表現するために様々な天然の物体(あるいは状況)が神の降りる場所として見立てられたわけです。現在(漢字表記の意味で)の言葉で言う「神奈備山」(神体山)、「磐座」(神の降りる神々しい岩)などです。また、巨木などもその対象となり得ます。
 当初祀られていた頃は、勿論そのものを覆う建物を造る技術が無く、神体の前でお祭りをする程度でしたが、次第にお祭りをするための施設「拝殿」が造られたり、神体を覆う「本殿」が造られました。
 また、何らかの都合によって神体を遠くから遙拝するために神体を分けて来てこれを祀って本殿とし、その手前に拝殿を置くといった様に少しずつ現代の形へと近づいてきたのであります。

 神は、大半が個人の崇拝ではなく集団としての「ムラ」の崇拝対象でした。つまりはおそれるべき存在であると共に共同体の守護神でもあったのです。
 古代の日本では、弥生時代の環濠集落の様に備えをしていることが見て取れます。つまり「ムラ」同士で小規模な戦闘があったということです。戦に勝って力を持った部族が台頭してきますと、その守護神も存在感を増していきました。部族の力と平行して「神社」の規模も大きくなっていったのであります。部族内の各「ムラ」の影響力によって「神社」の順位も決まったものと推測できます。
 古墳時代くらいまでは、この形であったろうと私は推測しております。
 飛鳥時代・奈良時代に入りますと国内はほとんど安定しておりますので、ここからは豪族の朝廷内での勢力がものを言うようになりました。規模の大きな神社が確認できるのは、このころからです。(出雲大社など一部の神社は弥生時代末期頃から遺構が確認されていますが…)
 この大八嶋も国分けが整ったこの頃から、各国内の神社の格付けが静かに行われていたのでしょう。
 畿内の神社は、勢力が大きい豪族が多いことから、かなり早い時期から大規模化が図られました。
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諸国一ノ宮・総社制度
 近年諸国の一ノ宮・総社が知られるようになり、多く紹介されるようになりました。
 さてこの制度はどのようなものなのでしょうか。
 畿内で16社制が成立し、これが22社制へと変貌した頃から、その影響を受けてか全国各国でもそれぞれ神社の格付けが行われるようになりました。大概一〜六ノ宮まで、国によっては九ノ宮までです。
 その認証根拠ははっきりしていませんが、由緒の古さ・神主の政治的勢力・在庁官人や有力者との繋がり、財産・神領などでありましょう。
 この制度は、朝廷の認める正式な制度ではありません。もっとも、一〜六ノ宮の大半は式内社です。そのあたりは朝廷が関与しないにしても、国司が考慮に入れて定めたものでしょう。
 一ノ宮は年代と時の権力者、栄枯盛衰と共に一部変わるところもありました。ある国では別な神社が一ノ宮を勝手に名乗って元の神社から剥奪したり、新しい領主が一ノ宮を勝手に変えたり、また衰退して一ノ宮そのものが合祀されて消滅したり、甚だしきは僭称して一ノ宮が並立するという国もありました。確かに勢いという物があり、特に戦国時代以降に変わったところが多いようなので、戦国の習いと言ってしまえばそれまででしょうが、いとも浅ましくも見えます。しかしそれが太平の世の江戸時代にまで起こるのは、少々問題がありましょう。
 因みに戦国時代の有力な神社は、社領を守るために私兵を持ち、独立勢力として存在していた所もありました。

 総社とは、国司の守が中央から赴任した際に一〜六ノ宮を回る手間を省き国内の全神社を祀ったのが始まりです。よって、国によっては存在しない所もありました。また、中世には廃れて廃絶する総社もありました。

神階について
 神階とは、朝廷が何らかの瑞祥や疫病・戦役の終結があった際に神意が功を奏したとして神々に奉ったものです。神社を対象としているわけではなく、神を対象としており、神社内で階位が違う神(主祭神は一品、相殿の神は二品など)が出たりしました。
 神階は臣下諸官の階位と同じく3系統あり、品・位・勲でした。品位は人臣に於いては親王に叙せらるるもので、神々でも特に功のあった神のみです。位は乱や疫病鎮定にこうのあった神々、勲は乱に功があった神々でありました。
 以上はだいたいが7世紀から(初見は天武天皇の元年)10世紀半ばくらいまででしたが、これらは神祇官からの申請と国司からの上申に基づいて陣定で協議されて陛下に上奏、決定しました。
 しかし律令制の形骸化により、諸国国司は借位といって上奏を待たずに神社に神階を奉った例が多く、問題になりました。
 戦乱で神祇官が焼け落ちた後、吉田家が神祇官代を名乗ると、宗源宣旨といって吉田家が神階を乱発した歴史もありました。つまり中世後期以後の神階は天皇陛下から出されたものではなく、吉田家の私的な位階であったといえます。

平安時代の神社制度
 平安時代に入りますと朝廷の中央集権制度が整い、律令制度によって京中ではしっかりした神社制度ができました。乃ち有力神社の「公祭」制度と「勅祭社(実際には勅祭という言葉が使われたのは近代から)」の指定です。
 まず19の祭祀が神祇令によって定められました。神宮を除けば大和の古社5社(大神社:おおみわしゃ、狭井社、率川坐大神御子社、広瀬社、龍田社)がこれに該当しました。実際にはこれらの祭祀は、令の制定より遙かに前から執り行われていましたが、始まった次期がわからないため、ここに記載しています。

 これらの公祭に加えて、奈良末期から平安初期頃には春日社、平野社、園韓神社の3社が加わり、弘仁年間にはこれに賀茂社が加わりました。この時点で9社です。
 承和年間に仁明天皇外戚橘氏の氏神梅宮社が、仁寿元年文徳天皇の外戚藤原冬嗣縁の大原野社が、 同じく文徳天皇の時期に杜本神社と当宗神社が、清和天皇の御代には平岡社・当麻などと、どんどん増えていきました。

 律令に明確に記載されてはいませんが、16社制度(22社制度)というものがありました。これも次第に増えていき、22社で落ち着きました。
 「本朝世紀」によりますと、16社とは「神宮」、「石清水」、「賀茂」、「松尾」、「平野」、「稲荷」、「春日」、「大原野」、「大神」、「石上」、「大和:おおやまと」、「広瀬」、「龍田」、「住吉」、「丹生」、「貴布禰」とあります。どの神社も朝廷に縁が深い神社でした。
 これら16社は、天皇よりの奉幣使が参向する特別な神社としての社格が与えられました。

 これが永延年間の記録では18社に増え、更にその年の12月には19社に増えました。ここで増えた際の神社の名は不明です。その後数年は、18社と19社で確定はしていなかったもののようです。
 正暦5年には梅宮社を加えて20社に増加、疫病が大流行した時期でした。更に長徳2年には祇園社が加わり、ついに日吉社を加えて22社の制度が成立しました。
 この22社への奉幣は、室町時代頃まで続き、後の京都の各種大祭の基となりました。