暴れ木落し坂 第1回


森亜人《もり・あじん》




 御柱街道を進んできた春一は、木落しを待つ秋四の後ろにぴったりと付けて小休止していた。

 笹木信彦は汗で濡れている胸に手を当ててみた。大輪の紅梅を背中の中心に置き、裾に掛けて小さな梅の花が咲きほころび、肩から袖口に掛けては、日の当り具合いによって色が鮮やかに燃え立つ花吹雪が染め抜かれた法被をいなせに着ていた。

 長髪の頭にはピンクも鮮やかな捻り鉢巻が角張った顔を際立たせていた。法被から覗いている腹掛けは紫で、ゴブラン織の壁掛けを思い出させる。腰から下は、股引も地下足袋もごく普通の品だった。

「親父、見てろよ。俺が仇を取ってやるからな」

 信彦は、前々回の御柱のときに亡くしてしまった父親の碁盤のような顔を思い浮かべて呟いてみた。そうすれば、挫けそうな心が叱咤されるように思えたのだ。

 早朝まで降っていた雨も上がり、黒い雲も東の峰の彼方に勢いよく吹き飛ばされ、芽吹きには早い樹木が視界の中で広がりを見せ始めていた。まだ湿り気は残っているものの、四月中旬のさわやかな空気が胸を押し広げるように肺の中へ流れ込んでくる。

「親父、見てろよ」

 と、自分を励ますつもりで言ってはみたものの、急勾配の坂は考えただけで足がすくみそうだった。

 信彦は、目を閉じた。汗に濡れて肌に張りついている御守を左手で握り締めると、体の深い部分から勇気がふつふつと湧いてくるようだった。

 諏訪大社御柱祭。下社春宮の第一の御柱。信彦はこの春一の先頭に立っていた。

 昨夜、激しく降る雨の中を、日頃昼休みや社用で外へ出かけたときによく立ち寄る喫茶店の娘のまり子が、雨の雫をぽたぽた落としながら訪ねてきた。信彦は、彼女の突然の来訪に驚き、彼女を家の中へ入れることも忘れていたほどだった。

 雨の中をしっかり握り締めてきたらしい品物が、信彦の掌中に押し込まれてもしばらく呆然としていた。彼が我に返って、慌てて雨の中へ飛び出していったときには、まり子は既に街角を曲がろうとしていた。そのときの品が今、汗ばんでいる胸に密着している御守だった。

 昨日は雨の中の曳行だった。初日である昨日は曳く順番でなかったので早めに戻ってきたが、心が重く、すんなり家に戻れそうもなかったので、そのまま家の前を通りすぎて、喫茶・コリーヌのドアを押したのだった。

 詰め込めば三十人くらい収容できる店内は客でいっぱいだった。どの顔も見覚えのない人たちだった。法被姿の者もいれば、ジーパン姿の者もいた。一人の女性もいないというのも珍しいが、見知った顔がないのもなおのこと不思議だった。

 カウンターの客たちもボックスの客たちと仲間らしく、カウンターの客のほとんどがボックス席のほうに向いていた。そのカウンターの隅の椅子が一つ空いていたが、そこは入口に近いため、すぐ帰る客でない限り座る者はない。

 信彦は、誰も知った顔がないことと、あまりの騒々しさに少し気圧されて入口に踵をめぐらせたとき、背後に人の気配があり、

「笹木さん、御免なさいね。ここでもよかったら座っていてください。きっとそのうちに奥が空くと思いますから」

 と、まり子の囁くような声があった。

 自分のほうから口を利くことのないまり子だったので、信彦は少し驚いた。彼が振り向くと、まり子は自分から声を掛けたことが恥ずかしかったのか、頬に紅を散らし、切れ長の目尻を伏せてカウンターの中に駆け込んでしまった。

 信彦はドアのノブに手を掛けたまま彼女の後ろ姿をしばらく新鮮な感覚で見ていたが、彼女の言うように、馴染み客でない者たちだから早めに引き上げるかもしれないと思い直し、彼女の勧めてくれた椅子に腰をおろすことに決めた。

 コリーヌは純喫茶ではないので、酒も扱っていた。客たちはビールを飲む者、ウイスキーの水割りを飲む者、日本酒をコップで飲む者。それぞれが互いの話など聞かないで、周りの者を抑え込むように大声を張り上げ、きょうの山出しの話をしていた。

 信彦は、まり子の入れてくれたコーヒーを飲んでいた。自分たちの存在など全く気にならないらしい背後の喧騒から隔絶されたようで、信彦は心おきなくまり子と話が出来ることに、気欝が徐々に消えていきそうだった。まり子もつねの彼女ではなく、積極的に話し掛けてきた。


 御柱の曳行で声を潰したらしい男が、皆の拍手に押し上げられるように立ち上がると、

「それじゃあ一発」

 と言って、まり子の母親が持たせてくれたマイクを伏し拝むように受け取って、マイクを舐めるように、ろれつの回らない舌で木遣りをがなりだした。

 声はほとんどつぶれていたが、節回しはたしかだった。

「山の神様お願いだぁー」

と、息のつづく限り尾を引いて歌うと、他の者たちが互いに肩を組んで

「これはさんのおえー」

 と、これも酔っているとは思えないほど声をそろえて和した。

 何ともいえない土の匂いのする節回しに、信彦はついほほ笑んでしまった。

「やっぱり御柱は諏訪の人間でないとだめねぇ」

 まり子がコーヒーを飲み終えた信彦に、

「いいんでしょ?」

 と目で冷蔵庫を差し示してから、よく冷えたビールとグラスを彼の前に置いた。

 ここへ来る度に感じることだが、信彦はまり子の指が好きだった。ビール瓶を持つ白くて長い指にはマニキュアも施していない。それが清潔に感じ、信彦は誰も見ていないと思うと、彼女の指をじっと見つめてしまう。

 今もカウンターに両手をそろえて置かれている彼女の指にほのぼのとした安らぎのようなものを味わっていた。

「ほんとだ。この前の御柱のときは東京にいたからそれほど感じなかったが、今回の御柱に参加してみて、つくづく俺は諏訪人だと知ったよ」

 信彦は、彼女の指にいつまでも視線を落としたままでいると、彼女に気づかれたうえ、手を隠されてしまうと恐れ、グラスの縁にこんもり膨れ上がっているビールの泡を、上唇で軽く押さえて一気に飲み干した。

―― それにしても、俺は御柱をいつから心に掛けるようになったのだろうか。十二年前の申年のときの御柱祭以後、あれほど御柱を憎んでいたのに……。やはりまり子の言うように、俺も諏訪人なのかなぁ。 ――

「きょうは雨だったから見物人も少なかったでしょ」

 空になったグラスにビールを注ごうと、まり子が顔を寄せてきた。ほのかな香りが信彦の気持を弾ませた。

 まり子の母親がカウンターの中に入ってきて、彼女の後ろから片目をつむってみせた。信彦は、まり子の香りをそっと楽しみながら、彼女の母親のウインクに笑ってみせた。

 まり子の母親が片目をつむって見せるときは二つの意味があった。一つは、娘のことを考えてくれという時。だが、この行為は自分と同年齢の若者の数人に向けられているものだった。

 もう一つは、いやな客たちが来ているときに示すポーズだった。信彦は、どんな意味でまり子の母親が片目をつむってみせたのか、今の場合は咄嗟に理解することができなかったので、曖昧に笑ってみせたのだ。

「そうねぇ。お天気にしたいわねぇ。笹木さんは明日も出掛けるんでしょ」

 まり子は自分の背後で母親がそんなポーズを取っていることなど気づかないらしく、両手を揃えて信彦の前に置いてそう言った。

「もちろんだとも。まり子さんはやっぱり店が忙しいからだめなんだろう……」

「かもねぇ。でも見にいきたいわ。木落しを見たことないのよ」

「俺も下社は初めてだよ。子供の頃は上社だったんだ」

「へぇ、じゃあ茅野に住んでいたの?」

「いや、富士見だよ」

「で、笹木さんは春一に乗るようなことしないでしょ」

 まり子は笑いながらそう言ったが、信彦の表情の変化に胸をつかれたか、とたんに細い眉を曇らせた。

 信彦は最後まで隠しているつもりだった。まり子の目を見ていると、言わないでもいいことまで言いそうになるので、握っていたグラスを慌てて口に運んだ。

 幸いなことに、まり子はレジへ行った。大騒ぎしていた客たちが帰るようだった。信彦はカウンターに肘をついて明日の木落しのことを考えていた。

―― 俺のしていることは家族の者を悲しませることになるのだろうか。俺が言い出したとき、叔父さんは鼻っから反対し、受けつけてくれようともしなかった。 ――

「おめえは、親父があんな死に方をしてどれだけ苦労したか忘れちまっただか。ばあさまや母ちゃんが身を粉にしておめえたちを育てたことを忘れちまっただか。そりゃあおめえは独身だ。だけど母ちゃんや弟妹たちのことを思ってやれ。御柱に乗りてえ気持は俺にもよくわかる。俺だって乗せてやりてえわい。だけどよう、おめえん家は、じいさまもおめえの親父もあんな死に方をした。二度あることは三度ちゅうこともある。木落しと建て御柱だけはいけねぇ。それによう、今回の春一をおめえも知ってるずらに。尻があんなに曲がってるじゃねぇか」

 たしかに叔父の言うように、春一の御柱は尻がぴんと跳ね上がっている。伐採する前は枝葉が密生していて先のほうがよくわからなかった。切り倒して枝葉を取り払って初めて知ったことだ。先端部分をかなり切ったが、曲がったところから切るとなると、御柱としての体裁が悪い。長さ十八メートルのところで切ったが、それでもかなりの部分が曲がっていた。古老たちは

「何も起こらなけりゃいいが」

 と、渋面を一層こわばらせていた。

 叔父もその一人だった。たぶん、叔父が反対する理由の裏にそんな点が含まれているのだろうと、信彦は感じ取っていた。

 それでも乗ることが諦められず、叔父も頭の上がらない、笹木家の総本家に当たる大伯父のところへ日参し続け、渋る叔父を納得させたのだった。

 信彦は空になったグラスを握ったままカウンター越しにまり子の動きを見ていた。木落しは明日だ。それなのに、ここ二日三日、信彦は気が重かった。あれほど木落しに乗ることを楽しみにしていたのに、どうしても何かが彼を迷わせていた。

―― 春一に乗る動機が純粋でないせいだろうか。でも、俺はここでけりをつけたいんだ。二度あることは三度あるかもしれない。俺がやらなければ弟がやるに決まっている。じいさまと親父のためにも弔い合戦を挑まなくっちゃ男でなくなる。  ――

 中学から高校にかけて、信彦は御柱と聞くだけで顔を背けてきた。父の命を奪った祭りなどに誰が参加するものか。今日まで信彦はそう思ってきた。ところが、東京で暮らしているあいだに、ふるさとが無性に懐かしく思え、郷里に残っている旧式の祭りに愛着を覚えるようになった。

 信彦を御柱に引きつけたもう一つの理由は、部落の人たちの噂だった。

「笹木の家は昔、女が御柱の綱を跨いだにちげえねぇ。ほいだで、下社の女神が嫉妬してお怒り申したっちゅうもんせ」

 信彦は、平成の世になってもまだそんなことを言っている者たちが哀れだった。自分の身をもって千年もつづいている迷信を打破してやるつもりだった。

 御柱は御神木。それを引く綱も神聖なもの。世界大戦終了まで、女は御神木にも綱にも触れてはいけなかったし、ましてや、綱を跨ぐことなど許されることではなかった。通りを隔てた向かいの家に用事があっても、御柱が進んできて綱が百メートルも先まで行っていたなら、ぐるっと回って行かなければならなかったのだ。

 ある家で御柱にかかわって不幸が生じると、その話が持ち出されるのだ。部落の者たちが、今回も笹木の家では死人が出ると噂していた。だから、彼らの舌なめずりする口の中へ、熱湯を注いでやるつもりで、春一の御柱に乗ることを決心した。それが悪いというのならそれでもいい。信彦は部落の人たちの鼻を明かせるためにわざと派手な支度をしてきょうに臨んだのだった。

「じいさま、親父、ちゃんと見ていろよ」

 信彦は、手のひらの中ですっかり暖まってしまったビールを喉に流し込んだ。ついでに腕時計に目をやった。まだ六時を少し過ぎただけだった。いつもなら、ここへ来ると時間の経つのが早く感じたものだが、きょうはさっきから時計ばかり見ていた。

 まり子は母親を手伝って客の帰っていった後片付をしていた。そのまり子の背に、信彦は三本目のビールを注文しておいてトイレに立った。

 トイレから戻ってきた信彦の耳に、彼が来ると必ず流れているカーペンターズのイエスタデー・ワンスモアーの歌が飛び込んできた。

―― 明日の晩もイエスタデー・ワンスモアーといくだろうか。そうだ、歌っている女の人は死んでしまったんだっけ。 ――

「何を一人で言っているの?」

 食器類を厨房へ運び込んだまり子が目の前に立っていた。手には冷えたビールとグラスが握られていた。

―― グラスが暖まってしまったことを見ていたのだろうか。こちらを見た様子などなかったようだが。 ――

「明日の晩もイエスタデー・ワンスモアーが出来るかなぁって言ったんだ」

「それどういう意味なの?」

 まり子は、日盛りの太陽の下をかすめる雲のような不安をほほ笑みに覆いかぶせて、少し挑むような口調になって聞いた。

「別に意味なんかないよ。ここへ来ると必ずこの歌が流れているねぇ。まり子さんの好きな歌なの?」

 信彦は、まり子の真剣な顔つきに少し狼狽して話題を変えるように言った。

「だって……」

 まり子はそれだけ言うと、ぽっと血を上らせた頬を両手で包み込んでしまった。それまで口も軽く、楽しそうに話をしていたのが一変し、いつものまり子に戻ってしまった。

 信彦は彼女の気を引くように何かと話し掛けても、まり子は、

「えぇ、そうね」とか、

「いいえ」

 と短く応えるだけで、悲しそうな視線をときどき信彦に向けるばかりだった。

 信彦は、まり子の変化に戸惑いとともに、その裏には自分の言動が関係していることを感じ取っていたが、どう繕っていいかわからないまま、彼女の心の内を推測する考えもなく、自分の重苦しい気分を追い払うために、また、揺らいでいる明日の木落しの一件を話そうと思った。

 そうすれば、まり子の質問に応えることにもなる。万一、明日の晩、ここへやってこられなくなったりしたら、まり子に借りを返せない悔いが残るように思えたが、結局、何も言わぬまま帰ってきてしまった。





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