望郷 第1回


森亜人《もり・あじん》



 針葉樹の針の艶がすっかり色あせ、広葉樹もはらはらと葉を落とす季節になった。新宿の花園神社の境内から風に舞ってくるのだろう、木の葉が道路を走っていく。

 ぼくは、この季節になると、きまって心が不安定になるのだ。この傾向は幼児期の頃からのように思う。あたかも、北風に追いまくられて走っていく枯葉さながら、背をまるめて目的もなく、何ものかに追われているように走り出したものだった。

 振り返ってみれば、確乎たる理由もなく家を出ていったこともあれば、こどもなりの理由をたずさえてふらりと出ていったのも木枯しの吹きつのる季節が多かったように記憶している。

 保育園の年長をしょっぱなに、小学五年の夏まで十本の指では足りないと思う。そのどれもが短期間だった。二十分か三十分で戻ってきた。むろん、学年が上がるにつれて、数時間が半日に、半日が一日まるまるとなった。

 家の者たちは、ぼくが家出したなどと思っていなかった。特に、小学校二年のときのそれは、勇気を奮っての行動だった。

 原因は姉のズボンのおふるを履かされたことだった。

「おい、北原、お前どうやって小便するんだ」

 と、クラスのガキ大将にからかわれ、皆が気づいて大笑いしたことだった。

 ぼくもどうして小用を足せばよいかと股を押さえながら考えていたときだったので、ランドセルを背負うと家に飛び帰った。

 母は外出しているらしく、鍵が掛けられていて家に入れなかった。ぼくは、学校を飛び出してきた原因は母親にあると思いつき、そのまま家出しようと、通りへ戻った。と言っても、行く当てもないので、家の裏に広がる林の中にいた。


 給食も食べずじまいだったこともあって、夕方にはすっかり空腹に負け、絶対に帰ってやるものかと気張っていたが、空腹やら、次第に薄暗くなっていくことに心細くなり、暖かそうな灯火に吸い寄せられ、こっそり勝手口から家に忍びこんだ。

 ぼく自身としては立派に家出をしたつもりだった。母にズボンのことで文句を言ったが

「それはお気の毒さまでしたね。この次からは人に言われてもぐっとにらみつけておやんなさい」

 と、言われただけだった。

 ぼくは不満だった。そのことを兄や姉にぶつけた。

 兄とは七つも違う。中学三年だった兄は、口をとがらせて言い立てるぼくの話を聞いてくれ

「たとえ一分でもそのつもりで家を出れば家出だよ。遊びに出て三時間でも四時間でも、いや、たとえ一日まるまる帰らなくたって家出とは言えんからな」

 兄は分別くさく言ってくれた。その点、小学五年の姉はまるきりぼくをばかにして

「なにとぼけたこと言ってるの。家出する暇があったら勉強しなさい」

 と、母親みたいな口の利き方でぼくの額を小突くのだった。

 両親にとって、兄や姉は学業も優秀で、二人とも東京の国立大学へ進学したくらいだから、こどもの頃から申し分なかったろう。ぼくのように、家出をしたり親に反抗することもなかったのではないだろうか。

 ぼくの日々など両親の眼中になかった、と思う。身の回りのものすべてが兄や姉のおふるで済まされていた。学校への行き帰りに履く靴までが物置の奥の棚から引きずり出されたカビくさい兄の靴だった。その点、兄も姉もすべて新しいものだった。

 そんなことから、ぼくの心にいつからともなく「どうせ」というタールのような拭うにも拭いきれない心理的暗澹が音もなく育っていたのかもしれない。

 それでも、小学四年生のときの家出はぼくの心を満足させたものだった。

 瓢湖に白鳥が飛来したというニュースがあった日だった。それは例年より二週間も早い到着だった。いつもなら木枯しと一緒にやってくるはずの白鳥なのに、きっと北の国は寒く、食べ物が乏しかったのだろう。

 ぼくは家を出た。ポケットには三千円ほど入っていた。洗面道具と下着類を入れたナップサックを背負っての家出だった。

 上空は、北陸の冬を感じさせるどよっとした重い雲が、そこへ落ち着こうと、右を見たり左を見たりしているような、どこか落ち着きのない朝だった。

 家族の者が起き出さない早朝だった。一番早起きの父は、勤務している学校の対外試合の引率でいなかった。近所の人たちにも見つからない時間帯だったはずだ。とにかく、名ばかりの国道をまっしぐらに歩み続けた。

 まばらだった交通量が数を増し、やがて、雲の上にそれとなく感じる太陽の影が頭上にくるまで歩き続けた。途中、コンビニでパンと牛乳を買い、ついでにトイレも借りて歩き続けた。

 家族の者たちが、ぼくのいないことの不自然さにそろそろ頭を巡らし始めた頃、ぼくの足は、前方に山系が迫ってくる地籍まできていた。学校の遠足でもこんなに歩いたことはない。住んでいる町そのものが山間にあるので、見慣れてはいたが、やはり歩くとなるとたいへんだった。

 どちらを見ても見覚えのない起伏の連なりだった。いつものぼくなら、きっと心細くなって後戻りしていたろう。夜中、暗いなかをトイレにいくのも恐ろしがるぼくだ。たとえ、いまが日中でも、まるきり知らない土地で不安にならないはずはなかった。それが、わきめもふらずに前進していった陰には、父親の言った言葉が励ましになっていたのだ。

「霄、お前の名前は大空とか、遥かな空という意味を持った名前だぞ。お前みたいにこせこせ生きていたら塵芥と同じだ。少しは自分の名前を意識して生きてみろ。勉強ができればいいということじゃないんだぞ。孫悟空みたいに空の果てまで飛んでいってみろ」

 一緒に風呂に入ったときに背中をながしてくれながら言った言葉だった。そのときには父の心の裏面まで推測できなかったが、一人娘のところへ養子にきたという男のかかえきれないでいる鬱屈が言わせたのではないだろうか。

 父は誰からも慕われ尊敬されていたと思う。家にあって、しばしば家つき娘のわがままも黙って見つめてきた父だった。母も無理難題を吹っかけて父を困らせるタイプではなかったが、やはり、世間的に見ても家つき娘の勝手な面はあったと、子どもながらぼくは見てきた。

 そのときの家出の主たる要因は母の態度だった。

 居間の柱時計は夜の八時をとっくに過ぎていた。ぼくが空腹をかかえて姉に文句を言っているところへ母が帰ってきた。

 父は、勤務している学校が試合に負けていたならその日に帰ってくるはずだった。ところが、どうしたことか、今まで勝ったこともない試合に勝ってしまったため、帰ってこられなくなっていたのだ。

 帰宅した母は上気した頬に手を当てて、ぼくの視線を避けるように寝室へ入っていこうとした。ぼくは、そんな母の態度に言い知れぬ憤怒を覚え

「こんなに遅くまでどこをうろちょろしてたんだ」

 と言ったものだ。

 日頃の母なら、ぼくの目線と同じ高さで話をするのだが、そのときにかぎって立ったままの姿勢でじろりとぼくの顔を見ただけだった。そして、部屋の隅で本を読んでいる姉に

「夕飯の支度くらいあんただってできるでしょうに」

 と言った。姉は

「それってお母さんの仕事じゃなかったっけ」

 と、叩きつけるように言って、自分の部屋に入るなり、ドアが跳ね返るほどの力で戸を閉めて、夕飯にも出てこなかった。

 あのときの家出も、県境どころか、隣接の津南町の町役場の近くにある交番の前で捕まえられてしまった。お巡りさんが交番から飛び出してきて

「やぁ、君は北原霄君だろう?」

 と言って、ぼくを交番のなかへ引っぱりこんだのだ。

 どうして見知らぬお巡りさんがぼくを知っていたのか、そのときはただただ驚くばかりだった。

 誰にも見られていないと思って家を出たはずなのに、結局豆腐屋のおっつぁんに後姿をしっかり見られ、しかも国道を歩いていくところまで監督されていたのだった。ぼくを発見したお巡りさんも父親みたいな人で、ぼくが家出の理由を、胸を張って言うと

「坊主その勢いで頑張れや」

 と言って、コンビニから買いおいてあったらしい牛乳を飲ませてくれた。ぼくは、その牛乳を誇らしい気分で一息に飲みくだした。

 父の学校が二回戦に敗れて帰ってきたとき、母の苦情を聞いても、父は、にやっと笑ってぼくの額をこつんとやっただけだった。

「お前もなかなかやるではないか」

 と言った表情をしていた。でも、ぼくとしては、家に連れ戻されたときの母の涙にいたく心を打たれた。

 母は目を真っ赤に泣き腫らし、ぼくをしっかり抱きしめ、むきになってぼくの体をぐさぐさ揺すりながら叱ってくれた。それに、帰宅した父の態度にも腹を立ててくれたことも嬉しかったし、家出の恩賞としては申し分ないと思ったのだった。

 成人して、渡仏中の十年の年月のなかでもappartementを替えたのは数回はあったように記憶している。渡仏などと聞けば耳に優しく聞こえるが、実際は家出をする気持ちとなんら変わるところのない感情だった。

 少年期のくびきから逃れられると思って渡仏したが、周囲の人とのあいだに目に見えないfrictionのようなものを感じると、たちまちその場から逃げ出していた。摩擦といっても、それはこちら側だけが感じたに過ぎないだろう。

 そのぼくが何の風の吹き回しか、Parisの16区の古いアパルトマン、それもmansardeと呼ばれている屋根裏部屋に二年も住んでいた。

 以前はパリの北の郊外で、駅名にもなっている、Guy-Moquet通りにいたが、アパルトマンのconciergeのおばさんのいらぬ干渉を受けたことからすっかり嫌になり、16区のTheophile-Gautier通りの近くに移ったのだった。

 この通りの名になっているテオフィル-ゴーティエも19世紀の詩人だ。もちろん、著名な作家や政治家の名のついた通りもある。東京に作家の名前がついた町名があるだろうか? 夏目漱石通りとか、森鴎外通りがあればと思うのだが……。

 人との交わりが苦手で、独りでいることを望んでいるぼくだが、それまで借りてきたアパルトマンの家賃からすれば手ごろも手ごろ、月に八百ユーロだったからという理由もあったと思う。しかも、二人暮らしをしての値段だから安いものだった。窓から数百メートルほど離れたところにSainte Therese教会の鐘楼が見えていた。

 今度のアパルトマンのコンシエルジュは少年の頃、家出をしたときに世話になった津南町のお巡りさんによく似た人だったこともあって、気分よく暮らしていた。

 しかし、ぼくは他人と同居することなど望まなかったので、少し生活には苦しい面もあったが、気楽な気分で暮らしていた。

 二年も一つところに住んでいることだけでも珍事というのに、もっと考えられないことを経験してきた。

 それは四年も前のことだ。いまも右の肘に軽く触れて歩いている内山と、一年半も一緒に暮らしていたことだ。

 ひょんなことから彼とひとつアパルトマンに暮らすようになったのだが、初めて彼に会ったとき、情けないような顔をしている内山に同情とも父性本能ともつかないものに揺り動かされたことから始まったのだ。

 ぼくは、パリを訪れる日本人観光客のための通訳と観光案内をアルバイトとしていた。人との交わりを苦手としているぼくとしては、人相手の仕事をするなんておかしいかもしれないが、観光客はつかの間のつき合いに過ぎない。そんなわけで無難に仕事をこなしていたのだ。

 そんなある日、日本から視覚に障害のあるグループがパリを訪れた。彼らの案内と通訳という仕事が旅行代理店から回ってきた。

 そのグループのなかに内山がいた。しかも、彼は皆と別れてパリに残ることになっていたのだ。

 braille(点字)の発祥の地でもあるFrance。視覚障害者にとっての文化の中心でもあるところの『国立点字図書館』。通称、AVHという点字図書館。そこで一年間学ぶのだという。こともあろうに、その館長から内山を頼むと言われてしまったのだ。よほどお人よしな顔をしていたのだろう。

 館長がぼくに内山を託した陰には、日本を立つ前のconceptionの相違で、内山がフランスへやってくるまでに定まっていなければいけないアパルトマンが決まっていなかったのだという。そこで、館長の苦肉の策ではないだろうが、たまたま通訳と観光案内で顔を出したぼくに頼みこんだらしいのだ。


 新宿の花園神社の裏は夜になれば目覚めたように活気づく町筋がある。幾つもある道の一本のなかほどに『滅酒』というのがある。すごいネーミングではないか! 酒で客を滅ぼすというのだろうか? それとも、ママが酔った客に滅ぼされるのだろうか。まぁ、どうでもいいことなんだが……。

『メッシュ』をそのままフランス語の音にすれば、『殿方』とでも訳せばいい。ということは、世の『殿方よ』とママが呼びかけているのかもしれない。そんな風に解釈するのもまんざらでもないのかも……。

 ママは小柄で、髪は肩を過ぎて背中まで垂らしている。茶系統でも明るい色のリボンできちんと束ねている。この一郭では美人だとの評判だ。ゴールデン街で美人という評判なら本物だろう。





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