望郷 第2回


森亜人《もり・あじん》




 年の頃は三十デコボコといったところだろうか。本当の年齢は知らない。もしかしたら女性は化けるのがうまいから、案外四十歳に届いているのかもしれない。名前は? まぁいいか。そんなものはどうでもいい。所詮風任せの生き方しかできないぼくには関係のないことだ。

 ママは本当に美人だ。たぶん……。たぶんと言ったのは、残念なことに、ぼくは晴眼者だが、ここ数ヶ月のあいだにずいぶん視力を落としてしまい、見えているつもりでもなんとなく自信を失いかけている時期だったのだ。

 現在の視力は普段の生活に何ら支障をきたしていない。急激に視力を落としたものだからちょっとばかり自信を失っていたのだと思う。

 その点、一緒に飲んでいる点字ポストの編集長の内山はいい。まるきり見えないから失明していく不安にかられる恐れはない。まぁ、目の見えるものがこんなふうに視覚障害者を評しては失礼だろうが、内山とは苦楽を一年半も共にしたなかだ。このくらいの言い方など許してもらえるだろう。許してもらってもまるきりさしさわりがないくらい付き合いは深いと、ぼくは思っているが……。

 彼の失明した病名はぼくと同じだった。ただ、彼の場合は中学に上がったときに失明したという。年はぼくより三歳若い。

 パリに暮らしていたときのことだが、本当に内山は全盲なのだろうかと、ずいぶん疑ったものだ。それほど勘がいい。

 毎朝乗降するmetroのEglise d'Auteuil駅から十数駅先にDuroc駅はある。途中、シャンソンでも歌われているMirabeau橋をくぐる。内山は二回で

「単純な道筋だから覚えました。東京ではこんなわけにいきませんけれどね。もう大丈夫です」

 と言ってくれた。

 そう言われてもぼくとしては心配だった。ぼくの勤務先はSaint-Lazareにあったことが幸いしていたと思う。どうせデュロック駅からメトロ13に乗り換えなければならなかったので、AVHまで送っていったものだ。

 それも、駅から遠ければ考えたかもしれないが、地上に出て数分で目的のAVHに着くので、勤務にはなんら差し障りはなかった。

 地上に出るとMontparnasse通り。そこを左に百数十メートル行ったところにデュロック通りがあり、そこをまた左に曲がって百メートル足らずで着いてしまうのだ。もう一つの行き方としては、地上に出たら右にほんの少し行くとSevres通りにぶつかるのでそこを右に曲がって行くと、百メートル足らずで右に折れれば一ブロックでAVHに着くこともできるのだ。早い話、左へ左へと行っても、右へ右へと行っても着いてしまうのだ。

 同じアパルトマンの階下に住むFrancoiseも内山の勘のよさには青い目を大きく見開いて

「本当にムッシュ内山は目が不自由なんでしょうか?」

 と、ぼくに何回も尋ねたくらいなのだ。

 内山は、そのフランソワーズと親しくなった。二人を密接にさせたのは、宗教だった。内山に日曜日の朝

「近くに教会があると思うんですが、日曜日で寝ていたいかもしれませんが、一度案内してもらえないでしょうか」

 と言われた。

 ぼくは無宗教。教会へ案内することくらいはどうということもなかったが、本当に教会の前だけでいいのだろうか。きちんとなかまで案内しなければいけないのではないだろうか。礼拝がどのくらい時間を要するか知らないが、そのあいだ、ぼくはどうしていればいいのだろうかなどと、いらぬ心配をしてしまう。そうなると少しやっかいだが……。

 考えた末、教会まで行けば誰かが面倒をみてくれるだろうと思い直し、いつもマンサルドの窓から眺めていたサント・テレーズ教会まで案内していった。礼拝堂の入口付近できょろきょろしているところにフランソワーズが声をかけてくれたのだった。

 ミサへ行くだけだったらそれほどの付き合いも深まらなかったのだろうが、二人を固く結びつけたのは唄だった。

 フランソワーズは、モンマルトルのブドウ畑の近くにある『ラパナジル』というところで歌っている唄姫だったのだ。ぼくも一度だけ内山と行ったことがある。本当の呼び名は、『Lapin a Gile』というのかもしれないが……。

 その店に内山を誘ったのはフランソワーズだったのだが、どうして内山の唄のうまいことを知ったのか、いまでは失念してしまったが、とにかく、内山とフランソワーズは、彼が帰国するまで仲よくしていたのだ。

 話を滅酒のママの上に戻そう。


 ママを美人だと思える裏付けがある。ママはすこぶるつきの美声の持ち主なんだ。世のなかにはひねくれ者がいて、「美声に美人なし」なんて言うやつがいる。実際にそういう女もいることを認めているのだが……。それでは聞くけど

「『悪声にしこめなし』という理論も成り立つというんだろうか」

 夜も更けてきた。いつものように内山と肩を並べて止り木にとまって飲んでいた。三十半ば近くになると、結構ストレスが溜まるものだ。ストレスが溜まらないやつは、よほどできがいいか、好き勝手な生活を旨として生きているやつだろう。そういうぼくなどその模範みたいな人間だから偉そうなことを言えたものではないのだが……。

 帰国したことは、半年後に上京してきた折、高田馬場で内山の勤めている点字ポストの看板を見て彼に電話をしておいた。上京してからも仕事をしてきたにはきたが、どの仕事も長続きしなかった。派遣社員などといえば、毎日をけんめいに生きている人に申しわけないような仕事ぶりのぼくだった。

 だからといって、上司に睨まれるような仕事をしていたつもりはない。自分自身の心の落ち着き場がないといったほうが的を得ていると思う。

 周囲の社員、特に独身の女子社員の目の奥に、ある種の色が帯びてくると、かならずといって不安と怯えに似た感情が膨れ上がってくる。そして、その泡立つ感情の先にぼくを捨てた母の顔がよぎるのだ。気づいたときにはその仕事場から逃げ出しているのだった。

 内山から点字ポストに誘われたときも、ちょうどぶらぶらしているときだった。点字ポストの仕事は全国に住む視覚障害者のために社会時報や現在の政治が弱肉強食的であるとかなんとかいう内容の記事を月に一度発刊するもので、ぼくの仕事は外国の視覚障害者の生活ぶりを紹介するものだった。

 ニュースの入手先はインターネットから資料を取りこみ、必要に応じて書籍を取り寄せてのものだった。こんなときには、パリでその方面と関係するところとの繋がりのあったことが幸いしていた。

 メッシュのママの声は、話すときは澄んでいるのに、いざ歌うと異国の血が混ざっているのではないかと疑ってしまうほどハスキーになるのだ。こんな声は日本では珍しい。

 ハスキーで異国といえば、どうしても黒人を想像してしまうだろうが、実際のママは、東北に生まれた人というだけあって、かなりの色白だった。

 その美人ママが喋っているときには気づかなかったが、唄声を聞いているうちに、記憶の底に焼きつけられている一人の女の顔が浮上してきた。

 ここまでくだくだ書いてきたが、ぼくの本心はその女のことを思い出したくて、なつかしみたくて、心に語りかけたくて、毎晩のようにメッシュへやってきていたのだ。いや、むしろ自分をさいなむ記憶を薄めようと酒を求めてやってきていたのかもしれない。

 いまでもかなりのつらさを伴う記憶だった。

 その女のことを話してみよう。いつかはきちんと整理しなければいけない問題でもあったのだから……。内山と飲んでのことだから、ときどきは脱線するかもしれないが、しっかり考えてみたいのだ。


 女は、Montmartreの東にあるabbesses駅近くのレストランで、学費を得るためのアルバイトをしていた。Seine-Maritimeの港町Dieppeの出身で、同県には、Maupassantゆかりの町、Rouenや、le Havreがある。もちろん、Etretatもだ。

 初めのうちこそ、学生街にあるカフェテラスに集まって文学論や種々雑多なことで議論する数人のうちの一人だったが、渡仏して七年目、彼女と知り合った翌年のスズラン祭りの頃には二人で密かに落ち合う仲になっていた。

 彼女の名はJeanneと言って、住んでいる場所は、ぼくと同じ16区内にあった。16区といっても、彼女のアパルトマンは、ぼくの住むアパルトマンが長屋なら、彼女の住むアパルトマンはマンションだった。

 たった十数分の距離だったが、生活水準がこれほど違うのかと思うほど、二つのアパルトマンの周辺の雰囲気は異なっていた。それでも彼女のアパルトマンは16区に住む者からすれば、中の下か下の上の建物だった。

 ぼくは、最上階に住んでいた。さっきも言ったが、そこはマンサルドといって、天井などなく、頭の上は直接斜めの屋根だった。

 住み始めて二年余になるだろうか。途中からは、内山も同居していた。ジャンヌがぼくのアパルトマンへくることは一度もなかったので、たとえ内山が同居してもなんら差し障りはなかった。むしろ、月々の家賃も半額になった分だけ余裕が出たのだから感謝しなければいけないくらいだった。

 その内山がママからマイクを受け取り、彼の十八番中の何番か知らないが、les feuilles mortes(枯れ葉)を抑揚もつけないで歌いはじめた。この唄もパリに同居しているときにラパナジルで歌ってくれたもので、ほとほと感心してしまったやつだ。そのとき、ピアノの伴奏をしてくれた老ピアニストも嬉しそうに首を何回も縦に振っていたことまで思い出してしまう。

 うまいものだ! Yve Montantほどでないにしても、なかなかなものだ。こいつも生まれたときと場所を間違えていたんだろうか。良かったような、そうでないような……。

 内山の声が遠くかすんでいく。恋人たちの靴音が、ざわざわと打ち寄せる波音に吸いこまれるように消えていく。

「北原さん、今夜はあの唄を歌ってちょうだい。この前来たときには伴奏がなかったけれど、きょうはわたしが伴奏を作っておいたわよ。ね、いいでしょ」

―― この前というのは、たぶん先週の土曜のことだろう。内山と飲みにきた日のことを言っているのだと思う。 ――

 ママが、グラスにブランデイを注いで、そっと握らせてくれた。白いママの指を見ていると、必然的にジャンヌとの生活が思い出される。

 そうだった。ジャンヌとの付き合いが深まれば深まるほど、ぼくは落ちつかなくなってしまったものだ。幸せを感じれば感じるほど、愛が深まれば深まるほど、ジャンヌの甘い体臭に慣れれば慣れるほど、ぼくは不安に苛まれるのだった。

 やはり、ぼくの多感な少年期に両親の離婚が影響しているのだろうか。あれほど仲の良いように見えた両親が、ある日突然別れるとぼくたち兄弟に宣告したのだ。

 むろん、ぼくは小学五年生だったので、その辺の事情など知ろうはずもなかった。山を目ざして家出した翌年の初秋だった。いまに思えば、あのときの母がやけに苛立っていたのもそこらへんにちらほらするものがあったのかもしれない。

 高校三年になっていた兄に聞いても唇を結んだきり、柔道で鍛えた太い首を激しく横に振るばかりだった。中学二年の姉はプイと横を向いたきりで何も話してくれなかった。

 結局、両親はぼくにどちらのところへ行くかを決めさせた。ぼくは、自分の進路を定めることができなかったので、兄や姉に従うことにした。姉は

「霄は子どもだからお母さんと暮らせばいい」

 と言った。

 いつも意地悪なことしか言わない姉がおかしなことをいうと思ったものだ。今になって思うのだが、事情を知っていた姉が、自分の防御のためにぼくを誘ったように思う。

 姉に言われなくても、ぼくは母と一緒にいたいと思ったが、心の奥深いところで、警戒するものがあり、兄の強い勧めもあって、父に従うことにしたのだった。

 家を出たといっても、兄が高校を卒業するまでの凌ぎの借家住まいということで市内に留まることにした。

 ぼくは、てっきり新しい母親がくるものと思っていたが、離婚の理由は後年になって知ったのだが、母のほうに好きな男がいたのだった。それも共に暮らすようになった男と姉との折り合いがつかず、結局、男は半年ほどして家を出ていったという。

 ぼくには考えられなかった。家にいて、母は概ね優しかった。父にたいしても従順そうに見えていたのだが……。

 思えば、あの頃から女性にたいしての疑惑が生じたと思われる。トラウマと言ってしまえばそれまでだろうが、ぼくは母が好きだった。結構叱られてばかりいたにもかかわらず母を慕っていた。それだけに、母の裏切りを容認することができなかったのだろう。

 父と兄との三人暮らしは、兄の大学進学によって、ぼくの住まいも学校も替わった。同じ県内だったが、海岸に接している市に転居した。以後は父と二人暮らしだったが、食事の支度ばかりでなく、洗濯も父がこまめにやってくれた。





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