森亜人《もり・あじん》
ピアノの旋律が流れてきた。おぉ! Quartier Latinの一廓にあるカフェテラスの片隅でジャンヌに教えてもらった『la boheme』だ。多くの歌手が歌っているが、ぼくは何と言ってもCharles Aznabourが好きだ。せっかくジャンヌの思い出を心の奥そこに畳みこもうとしたのに、これではヤブヘビというものだ。
ママがわざわざ編曲してCDにしたというピアノの伴奏が流れてくる。ジャンヌとの日々がフラッシュバックしてくる。どのフィルムも、ある種の悲哀と甘味を添えて記憶の襞をスクリーンとして映し出してくる。
ママが自分で演奏したと言わなければ、誰かプロの演奏者が引いていると思ったくらいだった。心に染み入ってくる音色に、ぼくは下手な歌声などで穢したくなかったが、じっと見つめているママの視線とカウンターの上で交錯すると、ぼくは引きずられるように歌い出してしまった。
Je vous parle d'un temps
que les moins de vingt ans
簡単に言えば、二十歳の頃の話をしよう。とでも訳せばいいのだろう。
ぼくは、ジャンヌが根気よく教えてくれた唄をたんたんと歌った。彼女は白ワインのグラスを握って、噛み砕くように歌詞を教えてくれたものだった。
ぼくたちの席は壁の窪みにあって、なんとなく隔離されていた。ぼくたちと同じようなクップルが近づいてきて、先客のいることに気づいてくるりとルトゥールしていく。そのつど、ぼくは申しわけないように首を縮めたものだった。そのしぐさがおかしいと、ジャンヌはグラスの向こうで笑っていた。額にはらりと垂れているブロンドがふわりと風に揺らいでいた。
唄の間奏が終わろうとしている。本来なら、この唄は間奏もなく最後までせつせつと歌っているのだ。このままジャンヌと打ち解けていたい。カウンターの向こうで胸を両手で抱きしめてうつむいているママにマイクを渡した。ちょっと驚いたようだが、小さくうなずいて、ママはマイクを受け取ってくれた。
ジャンヌのアパルトマンは中庭を囲むようにコの字型に建てられていて、彼女の部屋は三階だった。ぼくとジャンヌは遠い世界の話をするように、テーブルを挟んで、貧しいけれど、彼女の心のこもったスープを口に運びながら話をしたものだ。
たしかに、あの頃のぼくたちにとって商品の価格の変化にせよ、大統領のscandaleにせよ、まるで関係のない煩わしいちまちました問題としか感じていなかった。
いまに思えば、他の大学のcamaradesもどこか夢見るようなことにうつつを抜かし、ときの経つのも忘れて議論していたように思う。大学を出ても就職難だった。それでも皆は議論に花を咲かせて何時間でもテーブルをたたきながらやり合ったものだった。
フランス人の議論好きなことは承知していたが、四時間でも五時間でも、周囲の者を抑えるようにして談じるのだ。
ぼくもフランスに七年いてやっと仲間に入れるようになったのだが、lyceeからuniversiteまでの期間中、彼らはdissertationをする。日本なら小論文として先生に提出するくらいなものだ。
しかし、フランスではディッセルタシオンと称して議論し合うのだ。そうやって議論に勝ち、演説が巧みとなり、人との交わりにおいてもそつのない会話を楽しめるようになるのだ。だが、その議論もVoltaireの格言ではないが、ぼくの耳には議論の本質をcamouflageする言語としか思えなかった。
親しくしてもらっていたAngouleme出身の彼がぼくの耳に口を寄せて
「こいつらの舌は木製でなく、三色旗そのものだよな」
と言ったことがある。彼はぼくと同い年なのに口髭を自慢にしていた。その髭がぼくの頬をくすぐった。
たしかにそうかもしれない。panacheのグラスを傾けるもの、vin blancを傾けるもの。陽気にしゃべっているが、しゃべるほどに論理が迷走していくようだった。
ママが歌い終わってマイクを再びぼくの前に差し出した。
ぼくは心のなかのジャンヌに小声で謝り、マイクを握った。何か歌う気分ではなくなっていた。ジャンヌとの思いでは二年前に精算したはずなのに、沼地の湧き水のようにぼくの心を濡らし続けるのだ。
カフェの片隅で教えてもらったので、残念にも日本語の歌詞を知らない。詩心に乏しいぼくだ。それなりに訳せば
―― ある日、なんとなく昔の住まいを訪ねてみた。最上階にあるアトリエを捜してみたが、そこには何もなかった。もはや、壁も通りも見つけることはできなかった。モンマルトルの新たな舞台装置は悲しそうでリラの花も枯れてしまっていた。ラ・ボエーム ラ・ボエーム ぼくたちは若く、狂気じみていた。ラ・ボエーム ラ・ボエーム それはもう空しく、意味もなさないものだった。 ――
とでも訳せばいいのだろうか。かなり自分勝手な訳だと思うけれど……。
曲のエンディングが去っていく。ぼくは静かにマイクを置いた。曲が遠ざかると入れ替わるようにジャンヌが再び現われた。
ジャンヌとの別れは、この唄のように帰らない夢とも、一抹の戯事だったとも思っていない。むしろ、誰にも触れられたくないほど清潔で、豊かで、楽しいものだったと自負している。 ―― もちろん、その思いはぼくだけのもので、ジャンヌはぼくとの別離に大いに苦しみ悩んだのだが……。 ――
こうしてカウンターに肘をついているいまもだ。
文学を語るときの彼女はcharmeだった。特に、目の輝きと唇の動きになんともいえないものを覚えたものだ。
ふたりでBeule-Micheの通りを歩いているときも、彼女の運転するレンタカーで出かけたFontainebleauの森のなかを歩いているときも、周囲の色彩に調和し、あたかも、森のなかから現れたfee d'amour(愛の妖精)のようだった。
フェ ダムールといっても、Georges Sandesの愛の妖精のプティット ファデットではなく、恋を知った思春期のファデットのようだった。
Napoleonの大演説で知られている城。夕陽に城壁を赤く染めているのを、時の経つのも忘れて見とれていたことも思い出す。夕陽に頬を染めているジャンヌは、まさしくファデットだった。
Normandie地方の女としてはきゃしゃな体系をしていた。それがなんとも形容できない光を湛えているのだ。ぼくなどは、あまりのまぶしさに目を伏せてしまうほどだった。
「北原さん、ジャンヌとどうして別れて日本などに帰ってきたんですか?」
「……」
―― なんだって? 内山のやつ、ぼくがジャンヌのことを思い出していることを読み取ったのか? ――
内山としては、すこぶるつきの真剣な表情だった。ぼくが呆れ顔になって黙っていると、内山はひとつ深呼吸をして洗いざらいぶちまけることを決意したみたいな表情でしゃべり出した。
「ずっとそのことが気になっていたんですよ。北原さんは詳しい話をしてくれなかったけど、いつの間にか耳に入っていたんです。だから、北原さんが昨年の春、帰国したと電話をくれたとき、てっきりジャンヌと一緒だと思っていたんです。カフェで二度しか会ったことないけど、ジャンヌはとても素晴らしい女性だと思ったし、北原さんのような人にはふさわしいように思ったんです。ノルマンディの女性はどこか粗野なところがあると聞いていたけど、ジャンヌは違っていましたね。北原さんもそんなところに心を寄せていたんではないんですか?」
内山は一気にそう言うと、手のひらに包まれて暖められたグラスを口に持っていった。そうして、何かをかみ締めるようにブランデイを静かに喉へ流しこんだ。
内山の口調と、ぼくの表情を交互に見ていたママは、口を挟むべきでないと感じ取ったのか、黙って背を向けた。髪を結んだリボンが風もないのに小さく揺れていた。
ぼくには何も言えなかった。
―― どこか母親のぬくもりみたいなところのある人 ……。 ――
たしかに、内山の言うとおりだ。ぼくの一番痛みを感じるところでもあった。
ぼくに示すジャンヌの心遣いはシルクのように細く、光沢のあるもので、一度もぼくの心をささくれ立たせることはなかった。Versaille宮のmarie Antoinetteの私室をより引き立てている絹のtapisserieのような心地よさだった。ノルマンディの女というより、どこか日本の東北の人の感じがした。
そうか、ここのママも東北の人だ。容貌からは想像もつかなかったが、たしかに、ジャンヌとママにはどこか共通するatmosphereがあるように思う。
ジャンヌと別れることでどれだけ後悔したかしれない。どれだけフランスへ戻ろうとしたかしれない。どれだけ彼女の体臭をなつかしんで眠れない夜をすごしたかしれない。彼女と暮らした三年間は、社会の騒音のなかにいても、周囲から隔絶された天国に一番近い島にいるようなものだった。
ぼくは、ますます東京を去りたくなった。どこへ行くかも考えないまま、放浪の旅に出たくなった。
いつもこうだ。子どもの頃、家では、母や姉の有無を言わせない追求から逃れようと家を出ていったものだ。小学校のときの家出の原因には、クラスメイトの感傷、それも土足で心のなかに踏みこんでくるような言い草が絡まっていたと思う。
それまでに培ったすべてをかなぐり捨てて逃げ出してしまうのだ。そうして気づいたときには体が動いているのだ。
どのように内山やママに言って外に出たか覚えがない。気づいたとき、ぼくは花園神社の境内にいた。歓楽街の喧騒が大きければ大きいほど、ぼくは孤独になれた。
ジャンヌが話しかけてきた。もうしばらくジャンヌのことを話させてもらいたい。そうすれば、ぼくの混沌とした精神に何かが芽吹いてくれるかもしれないのだ。
「霄、モーパッサンの作品かなり読んだんでしょ? わたしは彼の作品は完成された作品だと思うわ。ノルマンディがつむぎあげたpessimismeそのものじゃないの。それに、彼の文は率直で、誰にも理解できる言葉なのよね。霄、あなたそう思わなくって?」
ノルマンディも、ぼくの生まれた北陸もどこか似通っている。ぼくの精神を形作っている陰には彼女の言う、ペシミスムが底流として存在しているのかもしれない。ペシミスムなどといえば大げさかもしれないが、ぼくは、自分の生い育った環境が要因だと思ってきた。だが、北陸に住む者たちがかかえている陰鬱さなのかもしれない。
ジャンヌは、布製の手提げ鞄のなかから本を取り出してぼくに示し、スズランの花を浮き彫りしたしおりをぼくの手に渡しておいて、挟んであった箇所を読み出した。
『海は小きざみの単調な波で岩壁を打ち、白いちぎれ雲が疾風にさらわれて、まるで鳥の群れのように、ひろい青空をすっ飛んでゆく。ところが、その村は、海にだらだらとおりる谷あいで、ぬくぬくと日なたぼっこをしているのである。』
―― 帰郷(retour) 青柳瑞穂 訳 ――
ぼくは驚いた。ジャンヌが声優のような声で朗読してくれた作品こそ、ぼくがモーパッサンにのめりこんでいった最初の作品の冒頭部分だったのだ。
彼の作品を好きになったのは、高校三年の冬、大学受験に飽いたときにちょっと手にしてからのことだった。
兄が大学を卒業するに当って送り届けてきた本の山から見つけたもので、当時のぼくの心は北風に飄々と鳴らす松の梢さながらだった。そこへ北風とは違う、サンドペーパーのようなものが、痛みというより快感めいたものをぼくの心に残してくれたのだ。
たぶん、ぼくの心を乱していたのは、高校三年に進級したばかりの五月の連休に、図らずも経験したことが要因となっていると思う。
それは、新潟市の繁華街にあるレストランから出てきた姉と母にばったり遭ったときの母の表情だった。姉は引き直した紅をまん丸にさせ、笑いながら泳ぐようにぼくのところへ飛んできたが、母は、レストランの入り口の前に立って、あらぬ方を見ていたのだ。
ぼくは、姉が近づくのを拒否するように背を向けて駆け出した。雑踏に阻まれ、怒声を浴びても意に返さず走りに走って、その場から逃れようと懸命だった。あれ以来、ぼくの目の前に母の顔が浮び、日に日に冷たく凍りついていったのだ。
モーパッサンの書く短編は、ぼくのささくれた心を鷲掴みにしたのだ。好きになったというより、自分の心模様を鏡に映したような感じだった。
そのときに読んだ作品が、『帰郷』だったのだ。今になって思えば、あのささくれ立った精神状態にどのようにぶつかってきたかつぶさに答えられそうもないが、あのときは、ささくれた面を鑢で磨いてもらえたように感じたのだ。
この書を読む前に、ぼくはテニスンの『イノック・アーデン』を読んでいた。
イノックは愛する妻アニーとこども達の将来を考え、勧められるままに旅に出た。しかし、船は難破して長い年月を異郷の地で過ごさなければならなかった。そのあいだに、アニーは夫のイノックの死を受け入れ、イノック同様、幼い頃からの友であるフィリップと結ばれた。
イノックは長い流浪の末、やっと郷里に帰ってきた。そこにはアニーとこども達が、幼馴染のフィリップと睦ましく生活しているのを垣間見て、その場を立ち去っていった。
この美しい物語を読んだあとだけに、モーパッサンの『帰郷』のMartinとはずいぶん違うものだと思った。イノック・アーデンは心にほろりとさせるものがあった。しかし、マルタンの行為にはぼくの心をほろりとさせるどころか、凍てついてしまった箇所をサンドペーパーで嬲られるようなものだった。
なんと人の世は不可思議であり、皮肉であり、冷酷なんだろう。それが現実の世界なのかもしれない。
ジャンヌが大学でモーパッサンの比較文学を選考した陰には、彼女の出身地であるディエップが、モーパッサンの生まれた土地と言われていることもあったらしい。大学を卒業したら、郷里のセーヌ-マリティム県の学校の教師になりたいと言っていた。
彼女のアパルトマンへ入ることも許され、一夜を過ごすことも許されるようになってからの話だった。
たったの数行で、どんな場所か胸に落ちてしまう書き方に、ぼくは大いに感心した。ところが、日本の作家のなかには厳しい目でモーパッサンを見ている人がいて、夏目漱石や志賀直哉のことを話すと
「フランスのなかでもモーパッサンは平凡な作家だと言う人もかなりいるわよ」
とジャンヌは言った。
しかし、彼女は国内にも批判する者のいることを言いながらも、エトルタの断崖に打ち寄せる波より激しい感動を青い瞳にたたえて、モーパッサンの私生活は除外しておいて、彼の文学への視線の正しさを強調した。
ぼくは、渡仏した翌年の夏に一回、冬に一回エトルタへ行った。バス停から数分で海岸に出られるのだが、夏のときは人の列で絶えることがなかった。
しかし、一月に行ったときはシーズンを外れていたので思うままに断崖を巡り歩いた。断崖の端までおっかなびっくり行って下を見下ろしたとたん、落ちたら一発だと思ったものだった。しかも、出かけていった冬のエトルタは吹き飛ばされてしまうほどの強風が断崖にぶつかってきていた。
そのときのことを思い出しながらジャンヌにエトルタへ行ったことがあるかと聞いてみた。すると
「残念ながら行ってないわ」
と言うではないか。ぼくは目をまんまるにして彼女を覗きこんでしまった。
「霄だって、自分の郷里に近いところの観光地をすべて巡ったわけでもないでしょ? ディエップだって立派な観光地よ」
と逆襲されてしまった。
そう言われたら返す言葉もない。なぜなら、同じ北陸にある東尋坊を見ていないのだ。いや、東尋坊どころか兼六公園にも行っていないのだから、ジャンヌに指摘されて目を白黒させたことを思い出す。
彼女の生まれ故郷のディエップはエトルタから離れているといえばそうかもしれない。ぼくの郷里で言えば、十日町市から三条市くらいのところにエトルタはあるのだ。同じ海を眺めているのだから別にエトルタまで行くこともないのかもしれない。
ふるさとを話すときのジャンヌはいきいきしている。