吹雪 第2回


森亜人《もり・あじん》



      2

 モンブランは、きょうもその峰を厚い雲の中に隠していた。

 すでに山が荒れはじめて十日にもなる。五月だというのに珍しい。裾のシャモニーからは深く垂れ込めた雪雲で山を望見することはできない。

 春山は、必ずといって遭難者が出るものだ。救助犬としての俺たちは、そんなとき吹雪をついて救助に向かうのだ。

 今朝も、俺は主人の声が掛かるのを待つ思いでいた。おかみさんが温めてくれたスープを舌を鳴らして飲んでいた。しかし、今朝は何となくモンブランの頂が招いている予感に、安閑とストーヴの傍らに寝そべっていられない気持に襲われてもいた。

 俺の勘かもしれない。いくら鼻を蠢かしたところで、そいつを嗅ぎ分けることはできないが、やけに俺を呼ぶ声が体内を巡る熱い血潮のなかで叫んでいた。

 横に寝そでっているラバに声を掛けてみたが、きゃつは相変らずうつらうつらしている。俺の兄貴のパッキーはゲレンデに行き、マルセルと巡回している。俺がそんな気分でいるところへ、いきなり親父のルシアンが駆け込んできた。

「おい、ロッシェ、お出かけだ。きょうはてえへんだぞ! お山だ! アデムだぞ!」

 親父の言ったアデムというのは、モンブラン山系の一つで、エギュ・ドゥ・ミディと言って、三八四二メートルの山だ。名前が示すように中央が針のように尖った峰だ。

 俺は、親父がドアを激しく明ける前から異様な雰囲気を嗅ぎ分け、すでにむくりと起き上がっていた。

 親父のルシアンは、救助袋を俺の背中にしっかり巻きつけた。キッチンからペルバンシュが飛び出してきて

「お前さん、山は大荒れだよ。これを持っておいきよ」

 と、体を暖める薬草酒を瓶に満たして持ってきた。親父は、

「あいよ」

 と気軽にそれを受け取り、防寒具の内ポケットに押し込み、親父自身と、俺の食料や寝袋を詰め込んだリュックを背負った。

 準備が整ったところへマルセルが飛び込んできた。

「親父、用意はできたかい? おいらのほうも準備OKだ。さあ行こう」

「よしきた! ロッシェ行くぞ!」

「パッキー行くぞ!」

 俺とパッキーは、ルシアン親父と、マルセルをぐいぐい引っぱって捜索隊と一緒にエギュ・ドゥ・ミディ目指して出発した。

 俺たちはアデムの鋭い峰を仰ぎ見ながら四時間後、遭難現場付近に到着した。


 吹雪は口を開けていられないほどだった。雪つぶてが俺の顔にぶつかってくる。風が耳元を激しく唸って雪煙を巻き上げながら斜面をすりあがっていく。

 新雪が俺の胸近くまで積もっていた。俺はパッキーに先を越されまいと、踊るように雪道を進んだ。

 俺たちセントバーナード犬には、人命を救う任務がいつの間にか当然のように課せられていた。俺たちも生まれたときからその訓練を受け、三歳になると本領を発揮しだし、七、八歳になると、過去の辛く苛烈な経験が骨肉に滲み込んだ有数な救助犬となる。

 特に出動するのは、きょうのような吹雪の日が多い。無謀と思われる登山や、天候の急変に、帰参が間に合わず遭難したとき、俺たちに要請があるのだ。

 俺は五歳、すでに七人を救助した。だが、きょうほどのひどい荒れ方は経験したことがない。ルシアン親父たちは、平然としていて、何ら不安も感じないようだ。俺は安心して、降り積もった雪を掻き分けて遭難した人を嗅ぎ求めた。

 俺が今まで嗅いだことのない匂いだった。どこかすうっと消えてしまいそうな香りだ。俺は、このやわらかな香りに一種の親しみを覚えた。たとえパリの雑踏の中でも捜し出せるように思えた。

「おいロッシェ、この崖を下るぞ」

 吹雪を避けるために顔を隠しているルシアン親父が叫んだ。俺が気づいたように、親父も気づいたのだ。さすがはシャモニー一の救助隊員だ。

 親父が、『下るぞ』と言った崖は、四十度はあるだろう。親父は長年の勘で降り積もった雪のちょっとした変化を鋭い眼光で見透かしてしまう。

 俺も即座に、パッキーの馬鹿野郎が小用を足したきゃつの匂いの深いところに、俺の鼻孔を満喫させた、あのやわらかな香りを微かに捕えた。

 親父と俺は、崖の上に根づいている樅の木にしっかりロープを結わえ、雪の上を見極めながら、歩一歩と充分に時間を掛けて下っていった。


「親父危ない! おいらが降りるから上で見てろ」

 マルセルが戻ってきてロープを押さえた。

「馬鹿を言うな。こんなところこそおれが行かにゃならんのさ。それよりマルセル、しっかり上を見張ってろ! 雪が崩れだしたらてえへんだぞ!」

 親父はそう言って下っていった。

 俺は親父を追い抜いて崖を下っていったが、あと十数メートルで下に降り立つ地点まできたとき、俺の嗅覚を鋭く捕えるものがあった。俺は雪の中に鼻を突っこんだ。冷たい雪が鼻の孔に無遠慮に入ってくる。俺はかまわず首を横に振り、雪を掻き分けた。あのやわらかな香りが強くなった。

―― たしかにここだ。だが足場が悪い。何も引っ掛かるところがない。へまをすると一緒に転落だ。 ――

 俺は体を雪の中に深く沈めてみた。前肢にやわらかいものが触った。俺はゆっくり周りの雪を掻いた。木の切り株に引っ掛かっているらしく、崖下に落ちないでいた。数センチほど積もった雪を体で押し分け、遭難している人の上に馬乗りになった。遭難者をしっかり抱えていることで、凍死から救うことがしばしばあるからだ。

 ときには吠えて目覚めさせることもする。だが今は親父が目の前にあわてる様子もなく降りてくる。俺は、親父が次の命令を下すまで、こうやって暖めているのだ。

 ルシアン親父がゆっくりだが、通人には真似のできない速さで下ってきた。ロープを俺の腹の下にいる人間の腰にしっかり結わえ、崖下に転落することを防いだ。親父は、俺の背中にくくりつけてあった救助袋を片手で解くと、口を開いて、腰にぶらさげていたポンプを抜き取り、留め口を外して空気を詰め込んだ。

 たちまち、それはボートに早変わりした。ボートの太い綱が俺の胴輪の横金具にしっかりと掛けられた。あとはボートに遭難者を乗せるだけだが、これが大仕事なのだ。

 吹雪は募るばかり。入り組んだ山岳地帯に吹き荒れる風は、いつも一定しているわけではない。左から吹きつけているかと思うと、気の狂ったような勢いで、右から吹きつけてくることもあるのだ。

 今も斜め上方から吹き降ろしていた風が急にやんだかと思うと、とたんに下から雪を巻き込んで突風が吹き上がってきた。瞬間、俺は自分の体が宙に浮き上がったかと思った。

 親父がいるからと安心して体を浮かしていたら、風に吹き上げられ、谷へ落ちていたであろう。そんな危険は身をもって記憶している俺だ。それでも吼え狂う突風には肝を冷やしてしまう。

 四十度もある斜面で、掴むものはぴんと張ったロープ一本だ。アデムに吹き荒れる風に対し、ロープ一本など何の役にも立たない。だから、親父も身を低くし、俺と同じ姿勢で作業を続けていた。

 ルシアン親父はしばらく身を縮めていたが、風の弱まったのを捕え、遭難者の肩の下に腕を入れ、ぐいと持ち上げてボートの中にずり上げた。

 俺は見ていて感心した。救助隊員は何百といるが、ルシアン・アモーに適うものはあるまい。だからこそ、俺も立派な救助犬になれたのかもしれない。

 パッキーやラバは、日頃は兄貴ぶっているが、こんな崖は尻ごみする。だが、俺は平気だった。ルシアン親父と一緒なら、どんな難所でも通り抜けられるという自信があった。

 俺は前肢の指に力を込めて雪の下の斜面に爪を食い込ませていた。親父は少し下がって、遭難者の尻の下に手を入れ、軽々と持ち上げ、ひょいとボートの中に入れてしまった。生きているものか、死んでいるものかわからないが、親父は仲間によく言っていた。

「人間、仏になるとちょっくらちょいと持ち上がらんが、虫の息であっても生きてりゃ、そう重くもねぇもんさ」

 親父の論でいくと、きょうの遭難者は仏ではなさそうだ。俺はよけい張り切らねばならない。

 俺は四肢と腹を使ってゆるゆると崖の上に上がっていった。約二十メートル、俺は牙を噛み、力を込めてボートを引き上げた。

 親父もすぐ横をロープに掴まって登っていく。

「ロッシェ、頑張れよ」

 ルシアン親父は目玉だけをぎょろつかせて俺を励ましてくれた。

 俺としてはこれしきのことくらいと思ったが、急勾配は遅々として進まない。次第に息遣いが荒らくなった。吹雪さえやんでくれたら、この作業もこれほどまで困難を極めなかったかもしれない。

 俺は思い出した。たしか俺が救助犬としてデビューした春まだあさい三月だった。きょうのように吹雪いていた。

 そのときは人ではなく、食料と衣類を積んだボートを引いていた。ルシアン親父が盛んに俺を励ましてくれていたが、俺はついに雪の急斜面にへたりこんでしまった。

 だが、雪に閉じ込められたルシアン親父の仲間を救うために挫けてはいけないのだ。俺は俺なりに窮余の一策を見出した。

 それは、雪の中に腹這い、そのままの姿勢で進むことだった。立って歩くより抵抗も少なく、吹きつける吹雪もさして気にならなかった。つまり、匍匐前進というわけだ。

 俺は思い出した。あのときの要領でやればいいのだ。

 俺は牙を噛んでじりじりと登っていった。雪が叩きつけるように顔に当る。口を開いて息をすれば遠慮なしに口の中へ飛び込んでくる。もう自分の力が尽きると思ったとき、頭上でマルセルの大きな声がした。知らぬ間に崖の上まで這い登っていたらしい。俺は最後の力を振り絞って崖の上にボートを引き上げた。

 俺は吹き荒れる吹雪のなかに体を投げ出した。呼吸は乱れ、全身は熱を帯びたように燃えていた。俺たちが登ってくるのを待ち構えていたマルセルたちが代る代る俺の背を撫でて労をねぎらってくれた。

 俺たちはしばらく吹雪を避けるため大岩の陰に避難し、吹雪の治まるのを待った。お陰で俺は再び元気を取り戻すことができ、何ら支障もなく山を下っていった。

 エギュ・ドゥ・ミディは相変わらず激しく吹雪いていた。一時も早く山小屋へ運ばなければならない。俺は、首に掛かっている鈴を、吹きつける風の音に負けないくらいうち振って山を駆け下っていった。

 ボートの中の人が生きていると思えばこそ、たとえ目の前は吹雪でよく見えなくても嗅覚が正しい道を教えてくれる。それに従っていきさえすれば山小屋へ辿りつくはずだ。

 山小屋に到着したときも彼女は眠っているのか、マルセルの背中でだらりとしていた。小屋へ入ると、すっかり冷えきってしまった体を暖気が心地よく包んでくれた。大きなストーヴを囲んで数人の登山者がウイスキーのグラスを傾けながら話をしていた。

 小屋の奥には売店と、食事のできるテーブルが三つ置かれている。その一つのテーブルに身を伏せていた若い女の人がいきなり飛び出してきて、マルセルの背中の彼女に抱きついて何か叫んだ。俺には何を言っているのかわからなかったが、きっと山へ一緒に登った仲間なんだろう。

 ルシアン親父が言ったとおり、彼女は生きていた。小屋に着いてものの三十分も経たないうちに、彼女は目を開いた。その間、マルセルたちは彼女の手足を乾いたネルの布でせっせと擦っていたのだ。そうすることは、凍傷から彼女を救うことになるのだ。

 ストーヴを囲んで救助隊の皆が話し合っていた。病院へ運んでいくべきか、それとも救助隊員の家でしばらく休養させてやるかについてだった。

 結局、この隊の隊長でもあるルシアン親父の家に連れていくのが一番妥当な線だろうということになり、彼女の同行の若い女の人を伴って下山することとなった。

 命を救われた人は日本人で、名前を『有紀』といった。彼女は俺の頭に手を置いて優しくほほ笑んでくれた。

「ロッシェ。ありがとう。あなたのお陰で助かったわ。ほんとにありがとう」

 ありがたいことに、彼女は俺のわかる言葉で話しかけてきた。俺は俺なりに愛想を見せたつもりだが、『ロッシェ』つまり、『巌』、という名前が示すように、セントバーナード犬のなかでも特別いかつい顔をしているので、有紀という人がどこまでわかってくれたか疑問だ。

 有紀にたいして感じた第一印象は、あの吹雪の山道を救助に出かけていって初めて彼女の香りを嗅いだときに感じた好感そのものだった。けばだつ匂いは、俺たち犬族が一慣して嫌うところだ。有紀さんも、彼女が「きみちゃん」と呼んでいる人も俺たちにとって嫌な匂いを持っていなかったことは幸いだった。

 一週間もすると、有紀さんは健康を快復し、きみちゃんと二人、俺が荷物をピュッテに運搬しているあいだに出発してしまった。

 有紀さんにせよ、きみちゃんにせよ異国人だが、俺の心にマルセルの妹エレーヌ、ベルティー、イボンヌらと違った良さを残していってくれた。





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