ヒースの思い出
幼犬の頃
「クレイ」と言う名で「我が家に来たアイメイト候補犬第1号」。ボクサーの名にちなんでつけられた名がピッタリの、大きくて強いアバレン坊。「ライオンの手みたい!」――
ママの第一声。太く短い大きな手足に皆ビックリ。ライオンみたい!とみな笑ったものです。外が多かったあなたは、遠くからの犬の声に遠吠えし、人が来ると跳びついちゃうし、
「松木君スキー靴事件」は忘れられぬ語り草となりました!お隣のニワトリを取って来ちゃった・・・と思ったときのママの驚き・・・心臓が止まらんばかりでした。
アイメイト訓練への旅立ち
涙でグシャグシャの顔で幾度もあなたにホホズリしながら、長い時間庭で迎えの車を待ちましたね。そしてやっと車が来たら、今度はあなたが車に乗らないとガンとしてツッパッテ、「おまえ頑固だな!ほんとにガンコだ」と塩屋専務がビックリしていましたね。ママは「人と犬の根くらべ!」とつくづく感じました。アイメイトを育てるってこう云うことなのかなーと。
アイメイトとして
卒業して、諏訪の女性の所に行った・・・と後になって知りました。―――その頃は卒業歩行の見学などと云うことは無かったので・・・。
そしてその後の10年の内、ただ一度アイメイトデーの催しで、あれが「ヒース」(クレイ)ですよと知らされた時、あなたはご主人の側にピッタリ寄り添って、立派なアイメイトになっていました。遠くから写したあなたの写真は、我が家の大切な宝物に。
再会の日
10年後のある日(2001年9月4日)、協会に用事があって行ったママ・パパは「ヒースが戻って来ていますよ、会って行きますか?」と言われ、「ぜひ」と。女の指導員に連れられて出てきた姿にビックリ。忘れられません!舌の横にカリフラワーのようなものが出来ていて、口は閉じず、ヨダレが流れ、顔がむくんで・・・。何ともアワレな姿!
「行き先は?」「まだ決まってません。これから東大病院へ診察に連れて行って・・・」
「じゃ、我々が連れ帰って、東大に連れて行きます。」連れて帰ることがOKされ、一緒に帰ってきました。
東大病院、入院、手術
諏訪では手術出来ない・・と言われた舌癌でしたが、「横に出来ているので、その部分だけを切れば切れない事はない。切るなら一日も早い方が良い」とのことで即入院決定。パパに連れられ入院、その日の内に手術。翌日から毎日面会が出来、交代でパパと絵美、そしてママも面会に行きました。手首には痛々しい点滴の後のホウタイをしながら、それでも思ったより元気に校内を一緒に歩きましたね!
退院したあなたは、口の中を切っているのに、柔らかにしたフードをどんどん食べられ、お顔のむくみも取れてスッキリし、回復の早さにビックリしました。飼育中のオーロラと一緒の生活。部屋はあなたはママたちの部屋の廊下、オーロラの居る食堂には入ろうとしないあなたでしたが、一緒に散歩すると必ず先頭にヒース、後ろにオーロラ。オーロラはあなたに一目置いていたようでしたね。この年(2001年)の10月27日、オーロラとの別れの日まで、短い手術後の日々、あなたは元気に若いオーロラと良く歩き、大工センターまで行った日のことを、(来日中のマイケル夫妻も共に)覚えています!
テレビ出演
元気になったあなたにテレビ出演のお話しが来て、翌春2002年、諏訪へお母様(元のご主人小林礼子様)に会いにゆくことになり、テレビカメラ同行取材となりました。疲れもなく、酔いもなく、長旅しましたね。諏訪湖を過ぎ、小林家の近くへ来た時、あなたはムックリと立ち上がり耳をピクピクして・・・何かを感じたのでしょうか・・。駐車場で車を降り、「ハウス」と言うと、クンクンやりながら我々をどんどん引っ張って小林家まで誘導してくれましたね。お父さん、お母さんが出迎えて下さって、脚を拭いてくださっているお母さんの顔をペロッとなめましたね!でも何となく遠慮しているあなた。私たちに気を使っていたのですね。私たちがそっと隠れるようにした時、二人きりになって初めて見せたお母さんへの甘え様!思わず涙しました!そしていつもの場所で、いつもの器でゴハンを貰っておいしそうに食べたあなた。きっと、10年間の生活を思い出していたことでしょう。
テレビ出演以後、あなたはスターでしたね。散歩で行き会う小学生に、「ヒースでしょ?」「知ってる!」「テレビに出たでしょ?」と声をかけられ、ママはその度にアイメイトのお話しをし、そしてヒースの『病との闘い』のことを話すのが誇りでした。
病との闘い
舌癌が思いのほか早く治って元気一杯と思っていたら、定期検診の度に次々と鼻、顎、また舌と、癌が見つかって、3回もの大手術と放射線治療など、実に50数回東大病院に行った、とはパパの談。ビックリです。あなたもパパもご苦労様!でも東大好きのあなたは、1回も乗るのを嫌がったことはなく、イソイソと・・・。口がきけたら「もう痛いことはいやだァ、行きたくないよォ」と叫びたかったでしょうに。黙って耐えて・・・本当に健気でした。鼻の手術後の放射線治療で、鼻の周りに「黒マスク」ができてしまったあなた。でもそのお顔がママは大好きになりました。以前のスッキリ顔は物足りなくて。「黒マスク」は何ともご愛嬌。素敵に思えました。
軽井沢の思い出
三夏を過ごした軽井沢、思い出は一杯です。あなたとゆっくり過ごした夏、アンリと一緒に行った夏、この時は前の夏のことを覚えていて、自分の居場所は二階・・・とさっさと上がって行きましたね。着いてまもなく発病したケンネルコフ(どうやら東大で感染)、あの時は本当にヒーは死んじゃうのかと思いました。数日後にアンリが発病して、やっとケンネルコフと解って安心はしたものの、本当にあなたの症状はひどくて苦しそうでした。
度々のドライブ、ずい分遠出をしましたね。そして、若いアンリと一緒になって川や湖の中へジャボジャボと入って行くあなたにビックリし、ハラハラしました。病後と思えぬあなた。「やっぱりラブだ!お水大好きだったんだ!」 でもあなたは、決して先頭には立たず、オーロラの時」と違って必ずアンリの後を行く。「お前に主導権は譲ったよ」と言わんばかりに。犬でも歳を感じていたのでしょうか?
そして、最後の夏
もう二階へ上がれなくなったあなた。階段の下から上を何度も見上げながら、あきらめて、結局独り下で寝ていましたね。朝起きて、タオルが一面血に染まっていてビックリすることが、度々起こりました。
それでもあなたは歩くことが好きで、あの坂道を登ったり降りたり本当によく歩きましたね。上ってきたと思うとクルリと向きを変えまた降りると言うし、ドンドン家から遠い方へ歩いて「ストライキ」。ママは途方に暮れて立ち尽くしていて、ご近所の奥様がパパを呼びに走って下さったこともありました。
協会へ戻る日のあの「ガンコさ」は14年たってもちっとも変わっていなかった。「これぞ、ヒーちゃん」。
そんなある日、散歩帰りのパパとヒーが坂を上がってきたなーとベランダから見ていたら、電話が鳴り「ヒーが倒れた!」とパパの声。ビックリして駆け降りて、ドッタリ倒れているあなたを・・・。脳梗塞かと思ったらどうやら心臓らしく、5〜10分もその場にタオル、毛布を運び二人で必死のマッサージ・・・。と、 突然パッと目を開けてムックリ起き上がりました。ママとパパとでバスタオルで胴を抱え上げて家までやっと連れ帰り・・・。
後はもう何事も無かったかのように、元気になって・・・。
同じようなことが数回起き、その度にビックリし、心配しました。この時から、重いヒーちゃんをいざと言う時に運ぶためにと、パパの担架づくりが始まりました。
最後の抜歯
帰京後すぐ9月の検診へ。心配していた通りに口の中あちこちにボコボコが出来、舌に癌の再発。でも「14歳半と言う年齢からも麻酔や手術は避け、そっとこのまま様子を見ましょう」との先生のお言葉に従うことになりました。
ところがそれから僅か数日後に、犬歯が横倒しになって口の前をふさぎ、血だらけになると言う事態が起こりました。顎の癌で犬歯が押されたのが原因。犬歯の根は凄く深くて手では抜けず化膿も心配で再び東大へ。結局、麻酔使用、抜歯が決定、翌日日帰りで手術ということになりました。
当日、あなたは初めて、本当に初めて、車に乗るのを嫌がって車を素通りしてママをドンドン山縣さんの道の方へ連れて行ってしまい、パパが車で迎えに来て抱きかかえて乗せて出発して行きました。でも乗ってしまえばもう観念しておとなしく・・・。あなたは何を感じていたのでしょうね?
思ったより早い帰宅、麻酔もすっかり醒めて何事も無く、ママはホットしました。
「今日は流動食ぐらいが精々でしょう」とのお話だったとのこと。ところが朝から空きっ腹だったあなたは、ミルクだけでは満足せず、いつまでもゴハンを待っている。
―――この夏ごろから、純ちゃんのアイデアで、生クリームの搾り出し袋にドロドロにしたフードを詰めて、お口の奥に絞り出して食べさせてやるようになっていましたね。
それでママはいつもより柔らかにしたフードを、(口中のデコボコにもレーザーをかけたと聞いて、さぞ痛かろうと思い)、恐るおそる絞り出してやったのですが、あなたはガツガツと食べ、こぼれたものをママが拾うのも待てずドンドン自分で拾って食べてその早く上手なのにビックリ。「ゆっくりゆっくり」とブレーキをかけました。口のまん前の「邪魔物がなくなって、出血もないし、どんなにか気分良く、食べる快感を味わっていたのでしょう。痛みもなかったのでしょうね。
その後は異常なく、3日が過ぎました。
最後の一日
4日目の朝(10月29日)、ちょっと吐いて、ゲブゲブとゲップをして、「大丈夫?」と聞いたママ。・・・この時もっと気を付けて上げれば良かったのに。何となく不安と不吉な予感があったのに・・・。
ゴハンの後、『どうしても行くというから、ちょっと行ってくるよ』とパパの声。台所にいたママは、「待ってて、ママも行くから」と、咄嗟に言いたいと思ったのに、声にならない間にもうガチャンという音がして、あなた達は行ってしまいました。
「最後の散歩になるかも・・・!」と咄嗟に思ったのでしたが・・・。
山縣さんの道でトイレして帰ったあなたを、「入らないから独りで置いてきたよ」とパパ。
ポカポカと暖かな日でした。あなたは花壇の向うの芝生でいかにも気持ち良さそうにこっちを向いてダウンして。「ママも来ない?気持ちいいよ!」と言って呼んでいるようでした。
ママはあの時飛びだして行って一緒に日向ぼっこしたかった。
写真も写したい!と思った。それなのにただジーッとソファからあなたの様子を見ていました。あなたもジーッとこちらを見て! 本当にあの姿は忘れられません。あなたの優しい目、のどかな様子、本当になんとも可愛かった。それなのになぜとんで行ってやらなかったのだろう。残念でならない。
暫らく日向ぼっこして家に入ったあなたは、ずーっと眠っていました。ゴハンも何も食べようとせず、1時間以上遅いゴハンとなりました。
それでもゴハンは食べ始めたら速くて、「ゆっくり、ゆっくり」とママは幾度も言いましたね。量も同じにぺロリと食べて。
皆がお食事していたら、ひょっこり食堂に顔を出し、「あっ、トイレらしい」と絵美ちゃんがすぐNO1に連れてゆきました。―――アンリが居なくなってから、あなたは食堂に時々来るようになっていました。ゴハンの催促、トイレの知らせ、それから大好物のチーズを貰う時だけは、中まで入って来ましたね!
いつもならトイレから帰って絵美に「おさすり」してもらって眠るのに、「眠いらしくて独りでさっさと部屋に行っちゃった」と絵美もすぐ食事に戻りました。
最後の4時間
夜10時前になって、ママが部屋に入ったら、ストーブの前に吐いてヒースが倒れているのを発見、「ヒーちゃんが大変!」の声にパパ・絵美が飛んできて・・・。
それから大騒ぎ。いつもの倒れ方とはどこか違う。マッサージをして良いやら悪いやら?それでも三人でさすったり声をかけたり。
「息をしてる?」と絵美が体に耳を押し当てて「キーとかスーとか変な音が聞こえる。心臓の音とは違うみたい」と言い出した。
それから暫らく落ち着いたかの様に見えたが・・・。
突然首を挙げ、上半身のけぞり返る様にして、ハーハーと苦しそうな激しい息使いに、
「どうしたヒーちゃん?」「大丈夫か?」・・・。
と、ガクッと力が抜けて寝そべったと思ったら、静かに・・・。
もう、息をしていないあなたでした。10月30日、夜中の午前2時20分。
約4時間の、最後の闘いでした。
でも、多分朦朧としていて、苦しみはあまり感じていなかったのでは、と思うのです。
後日、佐々木先生がわざわざお電話を下さり、このヒースの様子から、「多分、胃捻転を起こしたのでしょう」とのこと。
「胃捻転」という病は知っていたのに、まさかこの時ヒーちゃんが胃捻転を起こしていたとは・・・、微塵も気付かなかった!そういえば、ゲップをしていたこと、吐いたこと、お腹がパンパンでおかしな音がして――胃の捩れる軋みの音だったのだろう――なぜもっと早く気付かなかったのか・・・。食べるのに急ぎすぎたこと、沢山食べさせたこと・・
これらが原因だったのかもーーママの不注意! 悔やまれてならないのです。
それにしても、あなたはあまりにも親孝行、そして幸せ者でした。
パパの担架のお世話になることなく、天に召されるその日まで歩けて、ゴハンも食べられ、長患いもせず、床ずれの苦しみなんかあったら大変でしたのに!
あなたは金曜日に逝ったので、翌日純2は駆けつけて上京。正人一家と絵美、パパ、皆で手作りのお棺に眠ったあなたの顔は、実に安らかで穏やかでした。花一杯の中に、すやすやと眠るが如く・・・。
みんな揃って焼き場に行き、分骨埋葬も出来ました、アイメイトとして。
あなたは本当に忠実な立派な「アイメイト」だったこと、みんなの誇りです。
その後、皆であなたの墓石の文字を刻む作業が続けられ、やっと完成しました。
桜咲く春の日、成城の庭に埋葬しましょう。
毎日寝室と食堂を行ったり来たり、いつも一緒だったので少し淋しくなります。
でも、ジローやエストラと共に、我が家の庭でいつまでも一緒ですね。
有難うヒース。
この、つたない長文を書くことは苦しい作業でした。でも、涙しながら思い出に浸れる幸せな幸せな作業でした。もう涙は流しません。
"ありがとう"
ヒースの部屋へ戻ります
サイトトップへ