無言の戦士は、逝った
[1] ヒースの帰還
ヒースという名のアイメイトの一生は、重い荷を背負って長い道のりを歩いて来た苦難の犬、と言ってよい。その背の荷物は年ごとに重く、しかしそれに耐えて来た。彼の最期は、突然にやってきて、彼は黙って私たちから、去った。
不憫な子であった。安楽な老後を過ごすことが、有ったか無かったか。多分無かったであろう。けれどもヒースは、生まれつき定められた自らの任務を、黙々と且つ完全に果たし、人間に仕えつつ、共に暮らし、楽しみ、そうして満足して神の許へ旅立った、そう考えるのが正しいのかも知れない。
私たちのこの家で育ち、アイメイトとしての訓練を協会で受け、視覚障害者の伴侶となって、寒さの長野で働き、終(つい)には不治の病を得、再び私たちの所に帰還した。死までの3年間、大小5回の手術に翻弄されつつも、抗(あらが)うことなくじっと忍んで私たちに生き甲斐をもたらし続けた。哀れとも、偉大とも言えよう。
ヒースが生まれたのは1989年12月25日クリスマスの日であり、亡くなったのは2004年10月30日、この日は澄也たちの42回目の結婚記念日であった。何か符合するものを感ずる。
1990年の2月21日、仔犬のヒースが家へ来た。それから11ヶ月のびのびと育ち、翌年91年1月21日に訓練にアイメイトへ帰っていった。ヒースは帰るのを嫌がった。約1年のトレーニングが終了してめでたく使用者の小林礼子さんとペアになって、1992年の2月20日長野の諏訪湖の畔(かたはら)に定住の場所を得たのであった。
ヒースの幼名は「クレイ」という。最初のペアを組むはずの方とうまくマッチングが出来ず、定めによって名前を変えさせられ、新しい名前「ヒース」となる。ブロンテの小説「嵐が丘」に登場する HEATH CLIFF がその由来と聞いた。それから9年半アイメイトとして存分に働き、また小林さん夫妻に可愛がられ、2001年8月癌悪化のためリタイアを余儀なくされて、協会に帰って来た。
2001年の初秋、私たちはグッズの整理に協会へ行っていた。終わって、さて帰るべく車に乗ったその時、塩屋隆男専務が飛び出て来て、「ヒースが帰ってきています。お会いになりますか?」と言う。何も知らなかった私たちは、無論、会いたいと申し出、犬舎に行く。指導員がヒースを連れて出て来た。そのときの様子は忘れようにも忘れられない。
ヒースは、よたよたと転(まろ)び出るようにして現れ、私たちを見つめた。顔は真ん丸く腫れあがり、目はうつろに開いていて、涎が口から糸を引いて垂れている。預かるところも決まっていない、多分この体では無理だと、冷たい返事を聞く。癌に冒されているのであった。間髪をいれず私たちは、今すぐヒースを引き取りますと、決心を述べ、そのまま車に乗せて成城に帰って来た。これが2001年9月4日の再会の日のことである。何という偶然の邂逅であろうか。神の配慮としか思えない。
私たちは、アイメイト達がその生涯の大半を無償の奉仕に捧げて来たのち、リタイアした時には、必ず充分に報われるべき、と固く信じている故、ヒースもそのひとりとして、喜んで受入る心の用意は瞬間に出来ていたのであった。
ただ、彼の病気を考えると、楽しく安楽に取り掛かるわけには行かないことは判っていた。胸の内には既に、アイメイトに理解の深い東大家畜病院に連れて行って、あらゆる手だてを尽くそうと決めていた。
ヒースもそれを決して拒絶しないだろうことを、確信していた。
[2] 日頃のヒース
近頃のラブラドールは、色も綺麗な淡黄色で、脚長のすらりとした容貌(みめ)よしの子が多い。ヒースは贔屓(ひいき)目に見ても器量よしとは言えぬ。顔は大きく、胴長で短脚。尻尾は人一倍長く、毛色は濃く、耳は小さい。けれども愛すべき姿だった。私はその姿に、彼の艱難辛苦を重ねて、観ていた。
愛想の無いことも彼の特徴の一つだろう。尻尾を振って寄ってくることは極めて稀、だき抱えてもプイと横を向く。よその犬には全く興味を示さず、わが道を往く。親ばかに解釈するのを許してもらえれば、彼は、その愚直さと素朴さとでアイメイト任務だけを実行していたのが、身に付いてしまった結果であろう。
そのせいか、散歩から帰ってくると脚を拭くのだが、まず左脚を上げてさあ拭けといい、次いで黙っていても右脚を上げる。目ヤニを脱脂綿で取るのは大人しくしているが、鼻糞は嫌がった。痛いのだろう。
愛想はないが、純子の言を藉(か)りれば、「憎めない奴ネ」が当っているようだ。
リードを外して一緒に歩く時、私が立ち止まると、必ず立ち止まって振り向き、待っている。街を連れて歩くと、5歩に一度はチラリと私の膝辺りを見て、確認しつつ歩く。盲導犬らしい振る舞い。
頑固さもある。行きたくなければ、梃子でも動かず、四つん這いで抵抗。死ぬ日の午後、散歩から帰って来たが、石段からどうしても上がらない。ぽかぽかの陽だまりにダウンし、そのまま気持ちよさそうに休んだのも、今思えば、すでにそのとき胃捻転が始まっていたのであろう。迂闊にも気付かなかったのは、最大のミスだった。
常食のドッグフード以外、好んで食べたのは、チーズ、林檎。彼の棺にも入れてやった。テレビに出た折、小林礼子さんは、確かマグロの刺身を用意していて、ヒースは美味しそうに食べた。元来、長野は山国、刺身は最上のご馳走の筈で、彼は特別の日に食べさせて貰っていたに違いない。
背は低い。それでなくとも頭を下げて歩くから、余計に低い。鼻の癌を手術した時エリザベスカラーをして出てきたが、カラーが床に着いてしまいカラカラと音を立てている。周りの人は、見て、悪げのない微笑を送って来た。腰が落ちてきて、歩く時に尻尾を引き摺っているのも、同じ理由による。
口の大手術をしても翌日にはもう口から物を食べた。重症のケンネルコフに罹ったが、嘔吐が収まるや否や、食事を要求した。生命力の強い子、との印象がある。
甘えることも苦手で、幼時はそんなこともなく、いたずら、甘えは普通ではあったが、帰ってきてからは殆ど甘えられた記憶はない。病院には麻酔に備え朝食抜きで行く。ある時座っている私の膝を、右脚を持上げしきりに掻く。毎回の病院通いが嫌だというのか、お腹が空いたと訴えているのか、それは判らぬ。けれども、どちらにせよ甘えの仕種と受け止めても間違いではなかろう。あまりこういうことはしなかったヒースだから、珍しくて覚えている。
ヒースの行動範囲は極めて限られたものだった。寝室、つまり彼の寝部屋、廊下、それに茶の間、ここ以外入らない。もっと自由自在に動いてもよさそうであるが、それがない。食堂の入り口に座っているのでカムと言うも入らず。仕方なしにチーズで誘って見ると、来るには来るが、食べてしまえば入り口の扉に向かってお尻をこっちに向け、座ってしまう。早く出せと言わんばかりの態度。開けてやるとそそくさ寝部屋に帰って行く。食堂にアンリの臭いがして、これは他人の縄張りと思ったか、別な嫌な臭いがあったか、永年の習性で入ってよい所と駄目な所とを勝手に区別しているのか、それは分からない。不可解且つ不思議である。
耳は遠くなっていた。後ろからヒーちゃんと言って肩を叩くと、飛び上がらんばかりに驚く。そのくせ、眼はまだ良く、嗅覚も普通である。私に似ている。
[3] 告別
ヒースには、私は殊のほか、想いが強い。前後50回以上も東大家畜病院に通い、愛犬病院他を入れると70回にもなる程、共に闘病をして来た故もあろうが、彼の、黙々としてその日々を闘っている姿が、なんともいじらしく、また憐憫の情を掻きたてたからかも知れぬ。
それも、今となっては過去の風景に溶け込みつつある。
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ヒースよ。
私はお前に約束する。
お前のことは忘れない。
いつか天国の向う岸で会えると思うよ。
そしたら、お前、フリスビーで遊ぶかい?
お前の骨壷は、私たちの居るところに必ず一緒に居ることを、
むろん お前も知っているだろう、ね。
さようなら、無言の戦士。 ヒース君。
(追記)
ヒースは我われと一緒に居たのは幼児期を含め僅かに4年余であった。諏訪に10年住んで、彼の故郷は、信濃の山々が聳え、諏訪湖の水が漣を打つその場所に違いない。
夏には、彼の遺骨を分骨して、諏訪湖に葬ってやろうと思う。
そこにも、彼は安住の棲家を見つけるだろう。
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