星の散る夜 第1回


「糸の切れ端」



森亜人《もり・あじん》




 ひと晩中吹き荒れた季節風も明け方にはやんだらしい。

 夕子がいったん目覚めたときは、隣家のトタン屋根を鳴らしていた。ワインレッドをくすませた重いカーテンが、室内に暗闇とぬくもりをよどませていた。

 夕子は枕元の時計を見ようと、身を仰け反らしたが、ひっくり返っていて時間を知ることができなかった。わざわざ手を伸ばしてたしかめるほど目覚めていなかったので、再び頭の上まで布団を引き上げてしまった。夫の軽い鼾が、布団を通して心地よげに聞こえている。

 この数日間というもの、夕子も政紀もゆっくり休むときがなかった。昨夜はようよう解放され、それまでの睡眠不足を取り返そうと、早く寝についたのだ。ぬくもった寝床が久しぶりに思う。

 それと同時に、あれほどの衝撃が一夜の熟睡で 時という名の波に揉まれ、海の彼方の水平線上に見え隠れしている船か小島のように、ゆらゆらと揺れてしまっているではないか。夕子は人の情けの薄らぎを身内に感じ、後ろめたく思った。

 戸外を吹き荒れる風がトタン板の屋根を激しく鳴らしている。その音の中に、夕子は朝子の叩きつけるような鋭い声が混ざって聞こえ、思わず身を固くし、救いを夫の寝床に求めていった。

 毛深い臑が夕子のやわらかな腿にほっとする感触を与えてくれた。夫はよほど疲れているのだろう、夕子が身を寄せていっても気づかず眠っていた。

 取り返しのつかない怠りが、夕子を悩まし続けてきた。夫の政紀はお前のせいではないと庇ってくれる。が、夕子は自分が幸せの中につかりきっていて、義妹の苦悩を真剣に考えていなかったように思えた。

 しっかり布団を被っていても、トタン屋根の鳴る音に混ざって朝子の声が聞こえてくる。

「夕子さん、もう手遅れよ」

 そして姪たちの絶叫が聞こえる。

「ママぁ、暑いよう。ママぁ、苦しいよう」

「夕子さん、もういいの。今度生まれてきたら自分の道は自分で選ぶわ」

 と、朝子のひきつった声が幼い子供たちの声をかき消すように聞こえる。

 夕子は両手を大きく広げて

「やめてえ!」と、めらめら燃える火炎の向こうにいる朝子たちに叫んだ。その声で夕子は目覚めた。

 いつの間に眠ったのか、夕子は夫の体にしがみついて眠っていた。

「ママぁ、ねぇ、ママったらぁ、早く起きてよう。学校に遅れちゃうじゃないの」

 娘のみすずの声が近くにした。夕子はあわてて自分の寝床に転がり込んだ。夜中に味わったぬくもりはなく、ひんやりした夜具に今度こそはっきり目を覚ました。

「ご免、みすず。すぐいくわよ」

 夕子は手さぐりで身支度を整えた。カーテンを引こうと手を掛けたが、夫の安らかな鼾を聞くと、もうしばらくそっとしておこうと考え直し、そのまま寝室を出た。途端に目眩に襲われ、ドアに身を預けた。

 別段、体の不調で目眩を感じたのではない。自分を押し流してしまうほどの光の怒涛に圧倒されたのだ。

 きのうまで灰褐色だった山が、白絹のうすものを纏ったように、朝の透き通った光に輝いていた。

 夕子は純白な山を見つめていた。じっと見ているうちに、山の頂上に顔が現われ、山全体が急激に細くなっていった。それは、憂いを含んだ朝子の結婚式の晴れ姿だった。

 夕子は胸を突かれる思いに、思わずそこから逃げ出そうと、頭を強く振って階下に降りていった。

「ママ、お寝坊ね。何時だと思っているの? 学校に遅れちゃうじゃないの」

 夕子は思わずくすりと笑ってしまった。いつもなら自分のほうで娘や息子に言う台詞だった。そんな娘の全身を、夕子は嬉しそうに上から下まで珍しそうに眺め入った。

 この娘も自分と一緒に泣き崩れていたのに。あの悲しみなど、自分を見つめている娘には微塵も残っていない。

―― もし、ほんとに過去の出来事と割り切ってしまったなら羨ましい。政紀のように、全て終わってしまった事と胸の内に納めてしまったのだろうか? ――

 みすずは夕子に見つめられ、怪訝そうに目をぱちぱちさせていた。

「何かへんなの? 顔に何かついてるの?」

 そう言って、台所の隅に掛けてある林檎の形をした鏡を覗き込んだ。

「ママ、どうしたの? よく眠れなかったの?」

 みすずは鏡の端に写っている夕子の横顔を見ながら尋ねた。

「そんなことないわよ。ぐっすり眠ったわよ」

「だって、顔色が悪いわ。ママ、まだあの事に拘っているの?」

 やはり、みすずは忘れ掛けているのかもしれない。いや、忘れようと努力しているのだろう。それなら尚のこと、むやみに蒸し返すようなことは避けねばならない。年齢からいっても思春期、大人の自分が娘に心配させることは以ての外だ。

「朝子叔母ちゃんのこと? あれは済んだことよ」

 夕子はエプロンを当てながら、ことさら明るく言った。

「ならいいけど……ママ、だめよ。あまり考え過ぎると体に毒よ」

 年齢より身も心も大きいみすずは、姉妹に言うようにそう言って、焼き上がったパンにバターを塗っていった。

「みすず、山を見た?とてもきれいよ」

「見たわよ。これからは日増しに寒くなっていくのね。いやだわ」

 みすずは寒そうに身を震わせた。そこへ小学五年になる廣樹がパジャマのまま眠そうな顔を出した。

「廣樹、遅れるわよ。早く顔を洗ってこないと」

 みすずが少し尖った声で弟を窘めた。

「うるさいなあ。みすずは人の顔を見ればすぐ小言を言う」

「おねえさんに向かって呼び捨てにしては駄目よ」

 夕子は牛乳をカップに注ぎながら言う。

「だってぇ……」

 廣樹はそれだけ言って、足を踏み鳴らして洗面所へ行った。

「この頃廣樹はすごーく生意気になってきたわよ。憎いことばかり言うのよ」

 みすずはパンを頬張ったまま言った。

「口の中にものを入れたままお話しするもんじゃありませんよ。ねぇみすず、そろそろパパを起こしてきてちょうだい」

 夕子は、いつもみすずを窘めたあと、軽い用事を頼むことにしていた。それは夕子の少女期、母もそうやってくれたからだった。叱責したり、窘めただけでおくより、楽しい用事を言ったほうが、気分をやわらげることを身をもって体験していた。みすずも元気よく椅子から立ち上がり、二階へ駆け上がっていった。きっとまた、布団を剥ぐの、寒いのと、親子で気安いトレーニングが始まるだろうと、夕子はくすりと笑った。

「ねぇママ、運動靴買ってよ」

 夕子が卵焼きを作っているところへ廣樹がきてぼそりと言った。

「あら! 廣樹いつ来たの」

 夕子はすっ頓狂な声を発した。

「お早うって言ったのに……」 まだ、さっきみすずとやりやったことが尾を引いているらしく、不機嫌そうに言った。

「朝からご機嫌斜めのようね」

「そんなことないよ。ねぇ、運動靴買ってくれる?」

「この前のはどうしたの?」

「もう小さくなったし……。少し破れちゃったぁ」

「あらぁ! もお」

「だって夏休みの終わる頃に買ってもらったきりじゃない」

「そうだったかしら?」

「ちぇっ、ママは都合の悪いことはすぐ忘れるんだから」

「そんなことないわよ。でもママも人間ですもの忘れることくらいあるわよ」

「忘れ方がひどすぎるよ。ねぇ、買ってくれる?」

「そうねぇ……。小さくなってたら仕方ないわね」

「ねぇねぇ、だったら……、紐付きのを買ってよ……。みんなそれを履いているんだよ」

 廣樹は急に明るい声になって言った。夕子は、これが家庭の平和かと思った。

 焼き上がった卵を皿に移し、テーブルに並べ、毎朝飲むコーヒーを暖めておいた茶碗につぐ。テーブルを囲む四つの顔。夕子は、家庭の団欒、何げなく過ごしていく日課こそ朝子の求めていた幸せではなかったかと、また胸を詰まらせた。

 近年では、ほとんど夫の顔を見ない朝食を朝子母子は繰り返してきたのだ。夕子は目頭に滲んできた涙を長い睫毛で覆った。

「ママ、どこへつぐつもり?」

 廣樹に言われ、はっとして自分の手元を見た。コーヒー茶碗のつもりで、蓋を開けておいた砂糖壷につぎ込んでいたのだ。夕子は、つねのそそっかしさとは違う、もの寂しさが心を圧迫した。

「馬鹿みたい」

 廣樹はにやりと笑って、二階へ声を張り上げ、政紀とみすずをけたたましく呼んだ。夕子は、濁りのない廣樹の声に、姪の夕美や綾の寂しげな横顔を思い出した。

 時雄とのあいだに亀裂を生じた朝子の冷たい声に、あの子たちが肩先をすくめていた。朝子自身も、子供たちに向けてしまう苛立った感情の虚しさを痛いほど知っていたはずなのに、自分でもコントロールが利かないで苦しんでいたようだった。

 廣樹の大声に勢いよく駆けおりてきたみすずは、廣樹の視線を追って

「なによ。砂糖壷じゃないの」と、つまらなそうに言った。

「砂糖の代わりに塩でも入れたのかい?」と、パジャマのまま政紀が歯ブラシを使いながら階段をどたどたおりてきて言った。

「あら! ちょっとこれなあに!」

 みすずは中を覗き込んで、コーヒー色に染まった砂糖を見て大騒ぎした。

「なんでもないわよ。そんなに騒がないでちょうだい。それより学校遅れるわよ」

 夕子はあわてて砂糖壷に蓋を被せ、政紀が覗き込む前に戸棚へ隠してしまった。父親と子供たちは互いに意味ありげな視線を交わし合い、声を殺して笑っていたが。夕子は、どうせ笑うのなら大声を立てて笑って欲しいと思った。

 いつもの夕子なら

「なぁに、またママの失敗をみんなで喜んでるんでしょ」

 と言えるのに、家庭の団欒に心が和むほど、朝子親子が冷え冷えと思い出されてくる。

 二人の姪が、政紀と子供たちの戯れを羨ましそうに、部屋の隅に肩を寄せ合って見ていた姿を、夕子はせつない気持ちで思い出した。


白絹のうすものを纏った山に日が照り、時とともに純白な部分が汚れていく。夕子はそれを単なる遠景として見るのではなく、拭い切れぬ悲しみ、悔やみ切れぬ悔恨として見つめていた。

 庭にうっすら積もった雪はすでに解け、黒土が覗いていた。廣樹の拾ってきた張り子のような白い雑種犬が、鼻を泥の中につっこんでしきりに何かを嗅いでいた。

 落ち葉はみんな掻き集め、政紀の菊作りのために、土中に埋めたはずだったが、いま見ると、おびただしい枯れ葉がちりちりになって庭の東の塀沿いに溜まっていた。きっと、昨夜吹き荒れた木枯らしに西隣の家の、そのまた西にある、少しばかりの林から吹きつけてきたのかもしれないと、夕子は憂欝な気分で眺めていた。

 夕子は、柱時計がたくさん打つのに驚き、振り返った。十二時だった。こたつに足をつっこみ、窓の外をぼんやり見ているあいだに二時間も過ぎたのかと唖然とし、追われて立ち上がったが、食欲の一向にわいてこないのを理由に、再びこたつに潜り込んでしまった。

 夕子は指を折って日を数えた。いや、年をくったと言うべきだ。政紀と結婚して十五年になる。夕子が政紀と知り合ったのは彼女が十九の時だった。

 夕子の家は海の見える丘の中腹にあり、隣は学生相手のアパートだった。政紀はそこからT大学の工学部に通っていた。日頃、顔は見知っていても声を交わしたことはなかった。それが、思いがけないことから夕子の家と親しくつき合うようになった。

 それは、留学していた夕子の兄が二年ぶりに帰国した。兄妹は懐かしさ余って喧嘩となり、夕子は裸足で外へ飛び出し、兄は後を追うという図式ができ上がった。

 ちょうどそこへ政紀が坂を登ってきた。夕子は何も考えずに

「助けてぇ」

 と言って、政紀の陰に回った。政紀は、つねづね夕子に少なからず心を寄せていたので、ここぞとばかり、夕子の兄を組み伏せ、馬乗りになって彼の頭を二つ三つ殴りつけた。

 事情も聞かず、いきなり組みついて殴り掛かったので、夕子も彼女の兄も呆気にとられて政紀のするがままになっていた。ようやく夕子の兄が

「待てよ。俺は夕子の兄だ。君の強いことはわかった」

 と言っても、政紀は耳を貸さず

「その手には乗らんぞ」

 と言って、これでもかといわんばかりの力で、最後の一発を彼の頬に見舞い、彼を引きずり起こすと

「行け! 今後ここいらをうろついていたら容赦しないぞ」

 と凄んだのだった。そうして

「お嬢さん、送りましょう」

 と言って、彼女の腕を取ると、意気揚々と家まで送ってきてくれたのだった。

 夕子は政紀の勢いに圧倒され、口も利けないまま門前まで来てしまった。

 政紀は門内に夕子を送り込み、胸を張ってアパートへ戻ろうと振り返ると、打ちのめしたはずの男がにやにや笑っているではないか。政紀は目をむき、一歩前に出た。

「おい待てったら。本当に俺は夕子の兄なんだ。痴漢じゃないよ。なぁ夕子」

 夕子は我慢ができず、口に手を当てたなりその場にしゃがみ込んでしまった。そして

「さぁどうかしら……わたしをチビクロなんて呼ぶような兄はいないかもよ」

 と言って、声を立てて笑った。

 政紀は信じられないといった顔で立ち尽くしていた。夕子は、その時の政紀の間の抜けた顔を思い出すと、今でもたまらなく笑えてきそうだった。

 夕子が結婚した当時、朝子は箸が転んでもおかしい年齢だったので、親に、 「女の子がそんなに笑うものじゃない」

 と言われても、夕子の兄がその話をほろ酔い機嫌で話すのを聞いて、明るく澄んだ声で笑ったものだった。

 夕子はこたつに顔を伏せて嗚咽していた。

 十二月も二十日を過ぎ、ジングルベルの曲が風に乗って町のほうから登ってくる。町はクリスマスツリーを飾り、商店街は客の目を引くように、色とりどりのイルミネーションを付け、夜の帷のおりるのを待っている。

 夕子は、家族の者たちのためにクリスマスプレゼントを考えなければならなかったことに気づき、ここ数日間の自分がほとんど自分でなかったことに今更のように愕然とし、壁に掛けられた日本画の全集のカレンダーを見上げた。

 毎年ながら、朝子や姪たちにも贈り物を考えてきた。特に朝子の場合は、手作りの品を用意することが多かった。この十二月半ばからクリスマスまでの二週間は、夕子を楽しい気分にさせてくれた。

 しかし、今年ほど惨めな年はない。我が家の者たちへの贈り物を考える気力も萎えていた。華やいだ商店街のウインドーに顔を押し当てるようにして、二時間でも三時間でもあれやこれやと物色して歩き回ったことなど、過去にあったのかと思うほど遠いものになってしまった。

 朝子と二人、互いに子供たちを学校に送り出し、ゆっくり町を歩く楽しみも過去の澱みのアオコのように、汚れたものとなってしまった。

 こたつに半ば身を伏せていると、朝子との会話がよみがえってくる。あれは、みすずがお腹にいることも気づかないでいた頃だった。

 二人で、この町と隣接している町とのあいだにある峠まで自転車を押し上げ、一気に麓までノーブレーキで駆け下ってきた。暑い日盛りですっかり喉を枯らし、どちらからともなく食堂に入り、生ビールの大を注文し、一気に飲み干してしまい、顔を見合わせて笑ったこと。酔った勢いでパチンコ屋へ入り、婦人専用台に向かい、ジャラジャラと音を立てて出てくることに驚喜し自転車の買物篭に景品を詰め、家に続く坂道を押しながら話した。

「夕子さんは兄と結婚してよかったと思ってるの?」

「もちろんよ。どうして?」

「うん……朝子もいずれ結婚するんでしょうけれど、夕子さんのように結婚してよかったと思える生活ができるかしら……」

「大丈夫よ。朝子さんは明るい性格だから、きっとうまくいくわよ」

「わたし、明るく見えて?」

「ええ、そう見えるけど……」

「それならいいんだけど……」

 西空いっぱいに広がる茜雲をじっと見上げていた朝子の横顔を、夕子は思い出した。

―― もしかしたら、あの頃から何か感じるものがあったんだろうか。 ――

 夕子は濡れた瞳を上げて窓の外に向けた。東の塀際に吹きつけられた枯れ葉が吹き始めた西風に行くところを求めてくるくる回っていた。晴れていた空に冷たい雲がひろがってきた。まだ本格的な雪の時節には早いが、今夜は雪になりそうな空模様だった。

 夕子は、朝子との尽きぬ思い出から逃れるように、廣樹の破ってきたズボンを取り上げた。ミシンに向かう前に、ふと町を見おろすと、強い風に木々の揺れているのが寒々と見えた。あの夜の出来事以来、必ず視線は朝子の家のあった付近に向けられる。見えるはずのない焼け跡が、恰も見えたように、夕子は激しく身を震わせるのだった。





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