星の散る夜 第2回


森亜人《もり・あじん》




 常の雲より白い。政紀は雪を予感しながら出社してきた。

 数日ぶりだった。妹の死は地方紙を騒がせ、何か肩身の狭いものを感じ、デスクに向かってもつい視線は窓外へ移ってしまう。同僚や部下たちの気遣いが痛いほどわかるだけに、やはり出社しなければよかったという思いが、気分を重くさせていた。

 朝子とは二人兄妹だった。彼女が高校三年の時に母は急逝した。父も自分も、特に母とべったりだった朝子を寂しがらせないように気を配ってきた。夕子と結婚してからは、その役目は夕子に移り、夕子のおおらかさに少しずつ朝子も染まっていった。

 やがて朝子も美しく育ち、遠縁に当たる窪田時雄と結ばれた。

 あれから十年。朝子たちの家庭にも二人の女の子が誕生し、それぞれ小学校へ通う年齢に達していた。ところが、今回、突然の母子の死に直面し、政紀も夕子も取り返しのつかない苦汁を飲まされたのだった。

 朝子の今回の死そのものの原因は、ここ数年前から兆した朝子と窪田時雄との諍いに始まったものとばかり思っていた。

 政紀自身は、単なる痴話喧嘩と軽く見ていたし、夫婦喧嘩の渦中に巻き込まれるのはご免だった。その分、夕子に負担が掛かっていることは充分承知していたが、そのうちには、という気安さがずるずると日を流していった。

 政紀は社での仕事を終えると、冷たい風がちらほらと雪を運んできている道を、家とは反対の丘へ車を走らせた。下から丘を見上げると、頂上まで石塔が並んでいる。見事に並んでいる姿は賑やかそうだが、それは春から夏に掛けて思っただけだ。今は灰色の雲が低く垂れ込め、丘を駆け下る寒風に賑やかどころか、石塔全部が白骨の凝集のように思えた。

 石塔には、まだ朝子母子の印は彫られていない。父と母に並んで地下納骨堂に、朝子と二人の女の子の遺骨が安置されていた。嫁に行った朝子ゆえ、当然窪田家に埋葬されるべきだろうが、体よく断られた恰好に、夕子やみすずの執拗な希望も組み入れ、早川の墓地に連れ戻したのだ。

 石塔の前に造花が供えられていた。間もなく消えそうになっている線香が、朝子の思いと同じように、細い煙となって吹きちぎられていた。政紀は、夕子の立てていった線香の傍らに五本の線香を立てた。両親と朝子母子。かじかむ手を合わせると、早川の家系では自分一人になってしまったという寂しさがこみ上げてきた。

 妹の孤独が自分の無理解を責め、倍になって孤独が心に広がってきた。テニスの好きだった朝子。水泳の上手だった夕美。バイオリンを弾いてくれた綾。政紀は三人にじっと見つめられ、両親の自分を詰るような視線を受け、喉の奥から突き上げてくるものを制しかねた。

 風に飛ばされてちらほらしていた雪が、風のやんだのと同時に、真っ直ぐ落ちてくるようになった。政紀は想念を振り払って立ち上がった。

 墓地の上のほうに煙が立ち昇っていた。すぐ下の墓地からは、老婆の独り語りが聞こえてきた。

 政紀は立ち去り難い思いで立っていた。石塔の上に白いベールでも掛けたように、雪が降り積もっていく。足元の砂利も次第に色を変えていく。林立している石塔の上に積もっていく雪を眺めているうちに、彼の心に和やかな波が寄せてきた。

 道を歩いていても、会社にいても意味ありげな視線を感じていた。自分の負い目がそう思わせているのかもしれない。こうして墓地に立ち、線香を手向け、水を注いでやっていると、今度は妹の挑戦的な視線を浴びた。そこに、人の子細ありげな視線より、はるかに心の安らぎを感じた。

 この雪が全てを覆ってくれる。政紀は願った。何もかも。そうだ。何もかもだ。朝子の苦熱も。姪たちの悲痛な叫びも。窪田時雄の苦悩も冷やしてくれることを願った。

 政紀は、雪のひとしきり強く降る中を、車の置いてあるところへ急いだ。すぐ下の墓石の陰で独り語りをしていた老婆に追いついた。左足を引き、男物の杖に縋って転がるように歩いていた。政紀は

「お婆ちゃん、どこまで行くの?」

と、老婆の背に手を当てて聞いた。

 老婆の言った彼女の家は政紀の家の丘陵と逆だった。政紀の家は、墓地を下って左へ。老婆の家は右の丘を登らねばならなかった。それでも構わないと思って、老婆を乗せて車を発進させた。

「おじいさんが亡くなって二百日になります。わたしは毎日墓参りに来ています。おじいさんが寂しがるといけませんからね。雨が降っても来ているんです。おじいさんの亡くなるとき、一年間だけ欠かさずに来てくれたら、迎えにくると約束してくれたんです」

 老婆は寒いのか、こみ上げるものがあってなのか、しきりに鼻を啜っていた。

 政紀は、亡くなった老人より、彼女のほうが寂しくて墓参りにきているように取れた。どこの家庭でも見られるように、若い夫婦と別居しているのだろう。

「ええ、若い者たちとはなかなかうまくいきません。あなたさんもお若いようですがご一緒ですか?」

「いや、もうふた親とも亡くなっています」

「ああ、それでお墓参りに……」

「いやいや、きょうは妹の墓参りです」

 政紀はそう言ってしまって、軽く舌打ちをした。余計なことを言うべきでなかったという後悔だった。案の定、老婆は

「まあ、お若いのに……。じゃぁ交通事故か何かですか……。さぞかし痛かったでしょうにねぇ。今は交通が激しいから嫌ですね。このあいだも息子の家の近くで一家心中がありましてね。早くおじいさんが迎えに来てくれればと祈っているんですよ」

 政紀はぎくりとした。一家心中という言葉は、鋭利な刃物となって、彼の心に突き刺さってくる。朝子たちは睡眠薬を飲んだあと、室内に灯油をたっぷり撒き、蝋燭が時間を経て紙に引火するように細工して床についたのだ。

 妹は心中する二日前、夕子にふと漏らしたという。

「わたし、もう一度生まれ直せるなら、今度は好きな人と結婚するわ」

 と、遠くの幻影を追っているような眼差しに、夕子は痛いものを感じたと言っていた。

「その一家心中も、もとはというと、交通事故が原因だそうですよ。事故の後遺症は数週間しても現われなかったので、皆ほっとしていたんですがね、半年も過ぎてから頭痛を訴えるようになりましてね、そのうち吐いたり、変なことを口走るようになったんです。事賠も済んでいて埒もあかず、どうにもならなくなって、つい……」

 老婆はそう言ってため息をついた。

 政紀も息をついた。朝子たちのことと思い込んで聞いていたので、違うことがわかり、内心ほっとしていた。


 政紀は、老婆を彼女の家の前でおろし、Uターンして家に戻った。

 明るい電灯が憂欝に塞ぎそうになる心を解放してくれそうだった。気落ちしている夕子の心情を思うと、自分が落ち込んでいてはいけないのだ。政紀は、夕子の落胆ぶりが尋常でなかったことに一種の恐怖を感じていた。このまま夕子は泣き死ぬのではないかと、危ぶみもした。

「ご免なさい朝子さん。わたしがいけなかったの。ご免なさい」

 と、同じ言葉を繰り返し、慟哭していた彼女に誰も近づけず、遠くから見守っているほかなかった。

 みすずも廣樹も畏怖の色を全身に現わし、泣き伏している母親の後ろで、これまた震えて泣いていた。

 あれから四日しか経っていない。夕子の病的とも思える様は峠を越えたろうが、しばらくは痙攣発作のように襲ってくるだろう。今朝は存外明るく振る舞っていたが、誰もいない家に独りでいると何を考えるか不安だった。

 夕食も済み、子供たちが二階へ上がった後、政紀は茶の間のこたつにあたってテレビを見ながら何げなく言った。

「夕子、君さえよかったら大磯のお母さんを呼んだらどうだろう」

「あら! どうして?」

 昼間、廣樹のズボンの繕いもやらずにいたのを引っ張り出して、夕子は縫いものをしていたが、政紀の言葉に顔を上げ、そんなことを言い出した夫の本意をまさぐるように彼の目を覗き込んだ。

「うん。どういうってこともないがね……。朝子の葬儀には随分お世話になったからさ。少し骨休みをさせてやったらと思ったんだ。雪が本格的に積もらないうちに迎えにいってこようよ」

「まぁ、あなたったら! わたしがどうにかなるとでも思っていらっしゃるのね。でも嬉しいわ。わたしのこと心配してくださって」

 夕子は大きな瞳をうるませてほほえんだ。

 政紀は、夕子に真正面から顔を覗かれてそう言われると、急に照れくさくなり、テレビのリモコンをやたらに押しまくった。

 どこまでも伸びている道路が、線を引いたように映し出されていた。N局の取材番組だった。

 荒涼とした風景だった。ナレーターの説明がなければ、それが地球上のどこなのか、さっぱり見当もつかなかった。BGMのシンセサイザーの曲が景色を動かしているようにも思われた。

「ねぇあなた、本当に宜しいの?」

「えぇ? 何が……」

 政紀は即座に夕子の言った意味がわからなかった。それだけテレビの画像に引きつけられていたのだ。

「いやねぇ。じゃぁ気もなくおっしゃったの? 里の母を呼んでもいいってこと……」

 政紀は苦笑した。決して忘れたわけではない。テレビに夢中になっていたのだ。

「すまん。テレビに夢中になってたものだから」

「男の方っていいわね」

 夕子はぽつりと言ったが、別に皮肉を言ったのではない。彼女は政紀のそういうところが好きで一緒になったともいえる。ものごとに屈託しない彼をほんの少し羨んで、そう言ったまでのことだった。

 夕子は固いジーンズに針を立てて縫っていたが、もう少しで終わるというところで、針目度のところからぷつりと糸が切れてしまった。

 ふたつに切れた糸口は、どちらも同じ太さだった。糸の端をそっと近づけてみたが、合わせた部分がほかの部分より細いように思えた。

 いったん切れてしまった糸は元へ戻らない。自らの手で切ってしまった朝子たちの命も戻ってこないのだ。

「あなた、切れてしまった糸は元へ戻らないのね」

「あぁ」

 夕子は夫の返事など期待していなかったので、彼の返事に驚いて顔を上げた。

 真っ白な雪を頂いた山脈が画面いっぱいに輝いていた。

「まぁ綺麗な山! どこなの?」

「天山山脈だよ」

 画面から目を外さないで政紀は答えた。

 日の光が雪に反射している。朝子の命もあの雪のように白く輝いていればいいのに、と夕子は祈るような気持ちで縫いものの手を休め、しばらくテレビに見入った。

 やがて山脈は遠方へと去っていった。荒涼とした大地の彼方に、白い綿帽子となり、刷毛で掃いたように画面は白一色となって番組が終わった。それをきりに、夕子は立ち上がった。


 新聞の番組覧を見ていた政紀は、夕子が入れてくれた茶を飲もうと手に持っていた新聞を横にどかした。

 早川の家には、先祖代々から伝えられている茶器がある。夕子は義父が愛用していた茶器を使ってお茶を立ててみようと、納戸から久しぶりに出してきたのだ。

「へぇ! なかなか良い湯飲みじゃないか」

 政紀は三口ほど飲んだときに気がついた。彼は目の高さまで茶碗を持ち上げてしげしげと眺めてそう言った。

 山水を描いたション瑞だった。

「俺、この茶碗をどこかで見たような気がするんだがなあ……」

「そうでしょう。亡くなったお父さまのご愛用の湯飲みよ。ずっと納戸にしまっておいたのを出してきたのよ。この茶器は中国で作られた古い品だと言っておられたわ」

「そうか。もう親父が死んで五年になるのか」

 政紀は懐かしそうに、湯飲みの縁をそっと撫でてみた。彼は茶器には興味がなかったが、シルクロードの頭上に広がる空の青さは、こんな色をしているのかな、と思った。

 夕子も深い空色をした湯飲みに視線を落としていた。あの夜も湯飲みこそ違っていたが、こうしてテレビを見ながらお茶を飲んでいた。

 消防自動車の低く高く鳴る音にカーテンを引き開けた。

 町の繁華街を抜けると大川にぶつかる。火の手はそこらへんから立ち昇っていた。空には星が瞬いている。北の夜空に瞬く北極星に向かって、火の粉がぱっぱっと飛び散っている。その火をめがけて四方八方から消防自動車が近づいていった。

 夕子は息を飲んだ。火の手の真下に不吉な黒煙の渦を見た。背後から覗いていた政紀が弾かれたように部屋を飛び出していった。夕子も二階の子供たちに声を掛け、あわてて政紀と自分のジャンバーを掴むと、エンジンを掛けている政紀の元へ走った。

 夕子たちが駆けつけた時は、火の手は最高潮に達し、消防夫以外の者は遠くから見守るしかなかった。

 朝子親子は静かな寝姿で死んでいた。夕子は瓦礫と化した家から運び出されてきた三つの遺体を遠くから見たとたん、政紀の腕に縋るようにして気を失ったのだ。


 雪の降る静かな夜、消防自動車のサイレンの音が微かに聞こえる。夕子は自分の幻聴かと頭を振ってみたが、それは現実のものだった。また糸の途中がぷつりと切れるように、誰かの命が切れてしまうのだろうか。両端を合わせても元に戻らない糸のように、生き長らえるはずの命が、途中で切れてしまうのだろうか。

 政紀の耳にも届いているはずなのに、彼は新聞に視線を落としている。左手はション瑞の湯飲みに添えられたままだ。もしかしたら、心の中では妹の死のことで苦しんでいるかもしれない。会社へ行けば人の目に晒される。そこでは常と変わらぬ態度を示していなければなるまい。

 それに比べれば自分などはまだ楽だ。その自分がいつまでも屈託していてはいけない。夕子はション瑞の明るい空色に目を細め、残っているお茶を一気に飲んだ。

 間もなくクリスマス。家族の者へのプレゼントを考えよう。明日は町へ出かけてみよう。実家の母にも来てもらい、少し古くなった布団作りを手伝ってもらおう。夕子は裁縫道具をしまい、ガスの元栓をたしかめながら、勝手口や玄関の戸締まりを見に立った。





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