空白の時 第1回


森亜人《もり・あじん》



 潟山真吾は書斎の中を熊のように歩き回っていた。窓の外に広がる秋の空に眼を向けて大きく息を吐いたり、一つの絵の前に立って、瞳の無い女の肖像画に鋭い視線を当てたりしていた。

 真吾は考え続けてきた疑問に光明を得たと思っていたが、再びそれは水の泡のように虚しく消えてしまった。

 真吾は瞳を失ったこの女に最初出会ったとき、恐怖に似た感動が身内を震えながら走り抜けるのを感じた。

 瞳の無い女は真吾を突き刺すように見詰めていた。この女のどこからそのような鋭い視線が生まれてくるのか分からなかった。書斎に真吾がいる限り、女は彼の行動を凝視していた。

 真吾は女の視野から身を隠そうと、額に布をかけたこともあった。しかし、布をかけたらかけたで彼は落ち着きを失い、恐る恐る布を剥ぐのだった。

 この肖像画は、画廊を開いている親友が持ち込んできた、モディリアーニ作の復製画だった。長すぎる首と鼻、憂いを含んだ顔、真吾は女の持っている神秘な魅力に呆然と立ち尽くしてしまった。

 真吾は、『瞳の無い女』が瞳を失った理由を考えてみた。この女は見てはいけない世界を見て失望し、自ら瞳を捨てたのだろうか。それとも、あまりにも魅惑的すぎて多くの男たちを迷わせるので、神の嫉妬を受けて瞳を奪われたのだろうか…。

 では、見てはいけないものとは一体どんなものだったのだろうか。真吾は自分の推理に興奮していた。

 女が自らの瞳を無くしてしまおうと考えた現実とは一体何であろうか。真吾は人が目を背けたくなるような邪悪なものをあれこれと想像してみた。

 悲惨な死にざま、凶悪な殺人、妄がましい生活。真吾はどの理由も気に入らなかった。これらの問題は日常どこにでも見られる人間の原罪から生まれた現象にすぎなかった。そこで彼はこの絵の作者に視点を移してみた。そうすれば何かを得られるように思えた。


『瞳の無い女』の作者アメデオ・モディリアーニはイタリアのリボルノに一八八四年に生まれている。幼少のころから母親の影響を受け、彼は芸術家としての才能を示し始めた。

 パリに出ていったモディリアーニは死ぬまでそこに止どまり、貧困と結核に悩まされ続け、酒と麻薬で身を滅ぼし、三十六歳という若さで世を去ってしまった。

 彼は自分の才能に行き詰まりを感じ、酒や麻薬に身を任せていったのだろうか。それとも結核の病状が思わしくないことからくる焦燥感に苛まれ、そのあげく酒や麻薬に溺れていったのだろうか…。

 モディリアーニが女の両眼から瞳を奪ったのは狂乱によるもので、人為的発想によるものではないと真吾は考えた。それがモディリアーニに対する正しい認識になるか否かは別問題として、それだけでは何とも釈然としない推測のようにも思われた。

 真吾は違う角度からモディリアーニを見詰めてみた。

 モディリアーニは、彫刻家になろうと一時期、絵筆を鑿に持ち変え、しばらく石に向かっていたが、貧困のため断念しなければならなかった。

 石に刻む人の両眼は形として存在しているが、色を染めるかもしくは色のついた他の物で埋めなければ絵で表現するような眼は造れない。再び絵に戻ったモディリアーニは瞳だけ削除することを考えたのではないだろうか。


 真吾は自分の思いつきにある種の満足を覚え、心の中で自分の描いた推理に酔っていた。しかし今日になって、真吾は酔いから醒めたようにまた室内を歩き回る人に戻っていたのだった。

 彼の推理に水を注いだのは一通の便りだった。真吾が数年をかけて忘れようと努めてきた人の便りだった。

 手紙に書かれている内容が真吾を引き戻したのではなく、差出人の北原温子という名が真吾を暗い淵に引きずりこんだのだった。

「畜生! この女の後ろにあいつがいたんだ」

 真吾は壁の絵を恨めしそうに見上げた。瞳の無い女の射るような視線こそ便りをくれた温子の遺恨なのだ。

 彼女の書置きには真吾を誹謗するような言葉は何もなかった。真吾は彼女が自分を罵倒するような言葉を残していったなら、もっと前に記憶から彼女の総てを消していられたであろう。

「あいつは俺にまだ挑んでくるのか。あれから五年も過ぎたというのに…。まだ飽き足らずに、畜生!」

 真吾は、手紙を握り締めて憤怒に身を震わせた。温子の思いが彼の顔に吹きつけてきたように感じ、真吾は思わず歯を食いしばった。それでも二度三度と読み返すうちに、彼は便りを冷静に読めるようになっていった。

 彼の瞼の裏に汚点のように染みついている温子の悲しげな顔が浮かび、その顔と絵の中の女とが二重になって真吾の心に襲ってきた。

 真吾の元へ寄せられた温子の便りは、彼の心を打った。何度も書いては消し、消しては書いたらしく、便箋の所々にインクが滲んでいた。

 五年という歳月が真吾にとってそうであったように、彼女の上にも多くの問題が提起されたようだった。

 一見平穏に感じ取れる内容だったが、彼女の心に刻みこんだ幾筋かの過去の曲線を真吾は、読み取った。

 真吾は、温子の便りを何度読み直したろうか。彼にとって本意とはいえない訣別。五年を経た現在でも温子がどうしてあのような気持になったのか理解できないでいた。

 それも温子の便りで彼女の本心を知り、真吾は後味の悪い思いに唇を噛み締めた。

 温子は、手紙の中でひとつの結論めいたことを言っていた。

『真吾さん、人間は幸福な生涯を制覇しようと考えたときから挫折が始まるのですね。たとい、小策を用いて欲望を得たとしても、初期の状態が持続しているとは限りません。私の場合、結婚にたいする観念に不純なものはなかったと思っています。ただ、今も申しましたように、初期段階の感情のままでは二人の生活を進めて行くことができなかったのです。私にはその急変に対応する柔軟な精神が欠けていたのかもしれません。』

 真吾は、彼女の手紙を机に戻した。自分の元を去っていった彼女の苦汁を垣間見たにすぎないだろうが、彼女の苦杯の一滴を飲む思いだった。彼女をそんな思いに追いやってしまった五年前の出来事を回想してみた。


 室内には暗幕が張り巡らされていた。幕の合わせ目から春の爽やかな風が流れこむと、微かな光の束が室内にいる人を浮き上がらせた。

 真吾は、厚く巻かれた包帯が、看護婦に解かれて行くのを不安な気持で味わっていた。最後のひと巻きが解かれると、光の渦が固く閉じた瞼の中に流れこんできた。真吾にとって室内に漏れている微光は、あたかも光の洪水そのものだった。

 真吾は、閉じている瞼を思い切り開いてみたかった。しかし、医者は色の濃い眼鏡を掛けさせた。総ての邪魔な器具から解放され、室内を見回すまでには十数分を必要とした。薄暗い電灯が点けられ、医者の許可がおりた瞬間、真吾は思い切って両眼を開いてみた。十数年閉ざされていた光が眼の前で乱舞していた。彼が一番に見たかったのは温子の顔だった。医者の影に隠れるように立っている女を見た瞬間、真吾は感動を覚えた。

 全く見覚えのない女だった。十年間、真吾が想像してきた顔ではなかった。それでも彼は嬉しさに声を詰まらせて彼女の名を呼んだ。

「はい、ここにいますわ」

 と言った温子の頬に、涙が光っていた。

 真吾は、彼女の顔から眼を離さないでいた。二十で失明し、二五で結婚し、三五で再び開眼した。

真吾は、十五年間の空白を埋めようと、夜も惜しんで精力的に動き回った。

 常に自分の傍らに温子がいないと夜も日も過ごせない彼が、温子の存在を忘れてしまったかのように充実した日々を過ごしていった。真吾の追憶はいつもここで止まってしまうのだった。温子がどれほど心を痛めていたか、彼は全く気づいていなかった。


 温子は、真吾に不安を抱き始めた。彼女は、自分など真吾にとってもう必要がないのではないかと悲観的になっていった。

 病院のベッドの上に座っている彼に初めて見詰められたとき、温子は、喜びで全身を震わせてしまった。が、自分でも全く予期していなかった暗影が心の奥に湧いてきた。あのときの不安が現実となって表われるのにはそれほどのときを必要としなかった。

 彼女は悲しかった。彼が盲目であったころは、温子のちょっとした声の変化にも気づいて優しい言葉をかけてくれた。しかし光を取り戻した今、彼は温子の顔色を見ていながら彼女の心の内を察してくれなくなっていた。

 真吾の眼は直ると医者に言われたとき、温子は嬉し泣きに声を詰まらせながら何度も頭を下げた。若い医者に

「潟山さんは御主人を愛しているんですね」

 と、羨望とも揶揄ともつかぬ口調で言われたときも、温子は嬉しさに瞳を潤ませた。

 夕食の買い物もそこそこに家に飛び帰ってきた温子は

「真吾さん、ねえちょっと聞いて…。もしかしたら真吾さんの眼は見えるようになるかもしれないんですってよ」

 と、興奮を抑え切れないで、玄関に入るなり叫んでしまった。

 その日から開眼するまでのひと月半、温子は近くにある神社にいって御百度を踏んだ。三月に入っていたが、地面は冬の厳しい寒さの名残りに、足の裏から寒気が身体の芯まで這い上がってきた。

 繃帯を取る朝、真吾は、不安に襲われたのか

「ねぇ、温子、繃帯をどうしてもきょう、外さなくてもいいんじゃないのかなぁ…。もし見えるようにならなかったら困るもん」

 温子には自信があった。

 看護婦が手際よく解いていく繃帯のうねりを、暗い病室の陰に立って見ているうちに、温子は激しい感動に涙が溢れてきた。

 薄闇の中で真吾の眼が、自分の視線をはっきり捕らえたときには立っていることもできずにベッドに駆け寄り、真吾の両手を握り締めてしまった。

 真吾の視線が、温子から医者へ、そして、看護婦へと滑っていった。温子は真吾の眼に映っているはずの看護婦の美しい顔立ちを眼の端に捕らえた瞬間、波のような不安が自分の胸を襲ってきたことに息を呑んでしまった。

 温子は、真吾が自分だけを見詰めていてくれるものと思っていた。女の浅はかな考えと承知していながらも、真吾の視線が滑るように移っていったことで、血の気を失うほどの衝撃を受けたのだった。

 温子は、自分の心の醜さに憎悪した。十数年ぶりに光を取り戻せば、総てのものに眼を当ててみたくなるに違いない。と理性では分かっているつもりだった。それなのにこの感情は一体どこから生まれてきたのであろうか。温子は、醜悪に変色して行く心にすっかり辟易してしまった。

 真吾が悪いのではない。彼が自分を頼りにしなくなったことも考えようでは喜ぶべきことなのかもしれない。

 しかし、温子の心は日を追って寂しさが募っていった。真吾が充実した毎日を過ごせば過ごすほど、温子の生活は灰色の雪雲のようなものに閉ざされていった。

 温子は、自分の醜い心を清算するには彼の元にいたら、永久に解決することができないように思い始めた。以前の温子だったら病院の勤務が終わると、自分を待っているはずの真吾の元へ飛ぶように帰ってきた。自分のいない間に何か困難なことはなかっただろうかと、坂を駆け上がっていった。二階の窓際に身を乗り出すように立っている真吾の姿を見ると、温子は不安の内にも心に満ちてくるものを味わっていたものだった。

 真吾が開眼してからの温子は、勤めを終えて家に急いで帰ってきても、彼の姿をどこにも見出さなかった。走り書きした男らしいメモが温子を迎えるばかりだった。

 彼女は、真吾のいない家の寂しさに買い物篭を絨毯の上に投げ出し、そこへ座りこんでしまうのだった。力の溢れた彼の文字を見て、温子は複雑な思いに大きく溜息をついた。

 温子は、机の上のメモ用紙に向かって

「ねぇ、あなた、私もう何もかも分からなくなったわ。あなたに対し自分の心が汚れていくの。助けてちょうだい。私もうだめ」

 温子は机に顔を伏せ、声を震わせて泣いた。こんな悲哀を過去に感じたことはなかった。真吾が盲目だという不自由さに馴れないため、泣いたことはあってもこれほど心の中を冷たい風は吹いて行かなかった。あれほど彼の開眼を夢に見、もし見えるようになったら、と心の浮き立つような空想に興奮して眠れない夜もあった。一度堰を切った涙は、くる日もくる日もとめどもなく流れ落ち、温子の心を暗欝な世界へと引きずりこんでいった。

 彼女から見ると、真吾は、自分のことなど眼中にないのではないかと思われるほど、十五年間の空白を埋めようとあらゆることに没頭しているようだった。喜ばねばいけないと自分に言い聞かせれば聞かせるほど、温子の心は暗く澱んでいった。

 真吾がすっかり視力を快復して数ヵ月経った秋、温子は重圧に耐えきれなくなり書置きを残して真吾の元を去っていった。

 里の両親の悲しげな顔が瞼の裏にこびりついていたが、温子は、父にも母にも心の内を話さなかった。落ち着き場所を定めてからでも遅くないと考えていた。


 温子は、自分に纏わりつく記憶の一つ一つを修正液で丹念に消すような思いで、住み慣れた町を後にした。彼女は、夜汽車に揺られながら、最後にもう一度、家のある丘陵に連なる灯を見上げた。

 自分の手の届かない人と諦めていた十五年前の感覚が、音もなく温子の胸に忍び寄ってきた。

「やはりそうだったのね。私に相応しい真吾さんは…」

 温子は、遠ざかっていく灯火が、山の影に隠れてしまうまで、じっと息を止めて見ていた。そんな自分の心に、真吾への断ち切れない思いを発見するのだが、彼の元にいられた年月に体のどこかで甘い柑橘類の香りがするようだった。


 真吾は、一年間というもの、彼女を恨みながら、それでもフッと帰ってくるのではないかと待っていた。

 四年前、人の噂で温子らしい女を見かけたという町へ出かけていったことがある。大きな川が町の真ん中を横切っている静かな田園都市だった。

 電車を下りたとき、真吾はこの町なら温子が好んで住むようだと思った。が、一週間そこに滞在して彼女を捜し求めたが、結果は虚しかった。その後は全く温子の噂を耳にすることもなかった。

 ところが、昨夕、真吾を驚かせる一通の便りを受け取ったのだ。

 店の片づけを済ませて帰宅した真吾は、ポストの中に、差出人の名も住所も記されていない手紙を発見したのだ。

 彼は、『潟山真吾様』と大きな文字で書かれた見覚えのある文字に、声もなくその場に立ち竦んでいた。自分の名が書かれた封書をぼんやり見ているうちに、温子の去ってからの五年間が吹き出すように真吾の脳裏を去来し始めた。

 彼は、温子の便りを、怒りと、恨みと、懐しさとで感動しながら封を切った。

 真吾は、彼女の便りを読み進んで行くうちに、温子と、壁に掛かっているモディリアーニの絵の中の女とがダブってきたことに気づいた。

 彼は、自分が失明した頃に記憶を遡らせ、温子との結婚に至るまでの道程を、恰も盲人が足探りするような面持ちで辿ってみた。





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