森亜人《もり・あじん》
私は、自分の好きな遊びのためなら飽きることを知らない子供のように、その鳥の声に耳を傾けつづけていた。だから斎藤たちが小一時間ほども湖を取り巻く林のなかを歩きまわってきたことに対し、いささかの待ちどおしさも不安も感じていなかった。むしろ恍惚としている私を現実に引き戻したことに対する不満のほうがあったと思う。
私は、ジャックに鳥の名をたずねてみたが、知らないらしく、傍らにいるエレーヌに小声で聞いているようだった。
「ユップじゃないのかしら」
私にはそう聞えた。ところが、ジャックは
「あれはピュップだってさ」
と、特意そうな声で言ったのである。
そこは悲しいかな、私は日本人である。ジャックの耳のほうが、私の耳より確かであると信じてしまった。斎藤に確かめてみたが、彼もまた日本人であった。
そのとき、エレーヌたちが言い直しておいてくれさえしたなら、のちに私は、恥をかかないで済んだのだが……。
というのは、夏の休暇が終り、外国人のために開講している大学のフランス語講座の授業が再開されたある日、サークルのパーティーがあった。その席上で、私は、夏の太陽の下で聞き入ったあの鳥の話をしたのだ。話を聞いていた若い連中がくすくす笑い合っていることに気づいた私は、思わず言葉を呑んでしまったのであるが、すると大学で比較文学を教授していて、しかもわれわれ外国人のために正しいフランス語を教えてくれているプロフェッサーが立ってきて
「ムッシュ・稲村、ピュップというのは蝶になる前の蛹のことを言うんですよ。ですから、あなたの言うような美しい声でピュップが歌う筈はありません。それとも日本では蛹も歌うのでしょうか?」
と言って、プロフェッサーは大きな声で笑ったのである。それに釣られて十数人くらいいた仲間もテーブルをたたきながら楽しそうに笑ったのであった。
彼らの笑いのなかに私を嘲笑している雰囲気など微塵もなかったことが救いであったが、私は、大いに赤面し、むっつりと黙り込んでしまった。周囲の雰囲気が白けていくことがわかっていても、私にはどうすることもできなかったのだ。
つまり、ピュップは蛹であり、ユップはヤツガシラなのだ。私の聞いたのは、頭上に冠を戴いたように八つに割れた冠毛のある鳥のことだ。
残念ながらそのときはジャックの言葉を信じてしまっていたし、三人のフランス人もジャックの誤りを訂正してもくれなかった。多分それは、同国人の誤りを外国人、それも東洋人の前で指摘するに忍びなかったのではなかろうか。それとも、ジャックも彼女たちもわざとそう教えたのであろうかと、私は、疑心をいだいてまたぞろ心に寒寒とした風を感じたのである。
ともあれ、私は、私の心を打った鳥の名をピュップと覚えたのだ。ド・ミ・ソと鳴いて、しかもソの音をくるりと巻き上げて鳴く。ただそれだけの鳴き声だったが、生き物の声の無い林のなかでは、あたかも極楽鳥の声と想像してしまうほど美しく澄みとおっていた。
この鳥の声はその日の夕刻だったろうか。ラク・ブランをあとに小一時間ほど車に揺られて戻ってきたキャンプ地の林のなかで聞く機会を得た。それも、ラク・ブランではかなり離れたところから聞いた声も、ここではすぐ頭上の枝の茂みから舞いおりてきたのだ。
やはりここでも鳥の声は無かった。あるとしたら、林を縫うように流れていく小川くらいなものだった。
私は、鳥の耳に少しでも快く聞いてもらえるように、口笛を吹いてみた。少なくともその鳥の声に似せて吹いたつもりだったが、聞いていた斎藤が
「そんなんじゃあ鳥のほうで逃げてしまいますよ」
と笑い、代って彼が口笛を吹き鳴らした。すると頭上で鳴いていた声が失速でもしたようにソの音を巻き上げないまま途絶えてしまった。
私は、それでもしばらく全神経を耳に集めて木の下に立っていた。ほとんど人間など踏み込んでこない林の奥で、聞いたこともない奇妙な音に鳥のほうでめんくらっているのだろう。斎藤は自分の口笛にかなり自信を持っていたらしく、
「おかしいなぁ」
と言って、向きになって口笛を吹いていた。
斎藤が何回目かの口笛を吹いたときだった。梢ちかくで鳴いていたのが手を伸ばせば届きそうな高さから、われわれに呼びかけでもするようにあの声が戻ってきた。
斎藤は吹いていた口笛をやめて、声のする茂みを覗き見た。そうして、呻くような声を発し
「こいつぁー凄いや!」
と叫んだ。
彼の説明によると、ユップは体長十数センチで、赤みがかった黄褐色、背と翼には黒地に白の横帯があるのだそうだ。そして名前が示すように、頭頂は冠毛に覆われていて、姿も形もなかなかのものだそうである。
これは日本へ帰国してから斎藤の手紙で知ったことであるが、ヤツガシラは北アフリカからユーラシア大陸にかけて生息していて、日本へ迷い鳥として渡ってくることが希にあるとあった。
また、ヤツガシラは八つ頭と書くのだが、戴勝とも書くのだそうだ。そして、ラク・ブランの木陰で日本の仏法僧に似ていると思ったとおり、ヤツガシラはブッポウソウ目に属することも知った。
キャンプ地といっても他にテントを張っている者たちはなく、われわれだけが広い林を占有していた。
テントのある場所は、日に数回しか列車がやってこないようなローカル線の小さな駅から三十キロほど入ったところにあって、そこへ行くにはたった一本しかない道路を、しかも人家の影すら一つとしてない原野や林をぬって、やっと川に出たあたりに人の手を加えた畑地に到達するのであるが、そこの近くにある林にわれわれのテントは張られていた。
その道路にしても、朝から夕方までしっかり監視していたところで、十台以上の車も通らないほど静かすぎるところだった。そこを利用するのは人や車より、牧場と家を往復する牛や羊の数のほうがはるかに多いところであった。そのときだけは、さしもの道路も賑わいを見せ、牛や羊の足音や鳴き声で、何分も騒めき立つのだった。
村には四百人くらいの人が住んでいるが、面積となると、端から端まで数十キロでは利かないであろう。村の中央に教会があり、朝な夕な、そこから打ち鳴らす鐘の音が、トーモロコシの畑を抜けて林のなかにまで聞えてくる。
その教会にしても粗末なもので、椅子は丸太をただ切ってそれを組み合わせただけのものが並べられ、足元は床がなく、地面に小砂利を撒いてあるだけのものであった。教会に併設して、少しばかりの墓地があり、同じ通りのうちにこの村に一軒しかない店が、何でもかんでも商っていた。
通りを隔てて修道院あり、役場ありで、これらの建物を中心にくるりと見渡たした範囲内に家が集まっているのであった。
この村でも日本と同様に若者が少ないようで、ほとんどの若者が都会に憧れて、バイヨンヌやポーに出て行き、遠方ではトゥールーズやマルセイユに出てしまっていた。だから、エレーヌやその妹が村にいることは珍しいと言えそうであったが、それとても、もしかしたらバカンスで帰郷していたのかもしれないことであった。
そんな辺鄙な田舎にも日本の誇る本田の七半が大きな爆音を立てて走っていると、斎藤が嬉しそうに林のなかから走り出して見にゆき、戻ってきて私に教えてくれた。
舗装もされていない道には牛や羊の糞が転がっていて、私を案内していく斎藤が、
「またここにも」
とぶつぶつ言っては、私を右に押したり左に引き戻したりして、村に一軒しかない店に食料品をよく買いに出かけた。斎藤の神経の使い方に比べ、エレーヌの妹は、道に落ちているそれらの糞を白い靴の先で蹴っても何とも思わないらしく、斎藤の行動をおかしいと笑っているようであった。
夜になると林をぬうように流れていくせせらぎの音と、どことなく悲しみを誘うような梟の声しかしない。テントには三人が一緒に寝るのだが、斎藤と私は、地面に直接敷いたモーフに寝て、ジャックは空気を十分に満たしたマットに寝ていた。
テントにせよ、空気が十分に詰まっているマットにせよ、総てジャックの持ち物であるから文句を言えた義理ではないが、夜気は私の眠りを妨げるに十分であった。二人の若者の安らかな寝息が狭いテントのなかに満ちる夜更け、小川のせせらぐ音と、梟の声を耳にしながら今夜も冴え冴えとした気分で闇に向かって目覚めていた。ただ昨日までと違うのは、白い砂に囲まれたあの湖の林で、そして戻ってきたこの林で聞いたユップの声に、心のどこかで何かを感じ始めていたことである。
今夜ほど背中に感じる大地が、海を遥かに越えて日本へ続いていることが不思議に思えてならない。宇宙の無限の広がりからすれば、地球など微々たるものだ。それなのに、私は、とんでもなく遠いところまで来てしまったように思えてならないのだ。
三十歳半ばになっても確かな人生の道標も捜し得ないでいる自分の愚かしさが、若者たちの深い寝息から浮き上がったもののように思われ、一層、夜気が滲み入りそうであった。
自分が怠けていて道標が見つからないのなら諦めもしよう。私は、私なりに人生の確かな道を歩いてきたと確信している。
都会の汚れきった打算に流されたと言われればそれまでのことであろうが、大学を出たあと、就職した貿易関係の会社の社長にぞっこん惚れ込まれて、二十八歳の秋には社長のひとり娘と結婚し、姓も変った。
私としては決して背伸びをしているとは思わなかった。仕事は誰よりもした。就職してから事故に合うまでの十年間に、社用で海外へ出たのも数十回になろうか。なかでもヨーロッパへの仕事に対して誰よりも率先して出かけていった。
西洋の文化に憧れていたことも事実であるが、それ以上に、個人の能力を正しく見守っていて、日本では決して入社させようとしないであろう ―― むろん、当時の私もそう思っていたのであるが ―― 障害者をも適材適所に据えて、彼らが十分に能力を発揮していることに、ある種の驚きと戸惑いを感じながら、それらを見つめてきたのであった。
長男も生まれて家は幸福そのものであった。ところが、ある雨の夜、私は、難航していた大きな商談に活路を見つけ、何回かの話し合いの末、その商談を結ぶことに成功した。
帰り道、私は、かなり酒に酔っていたことは事実であったが、決して自分を見失うほど酔ってはいなかった。一瞬の精神の散漫があったのかもしれないが、前方から来る車のヘッドライトの距離間を計り違え、気づいたときには身体が宙に舞っていたのであった。
病院のベッドで意識を取り戻したときには事故からどのくらいの時が経ち、どのくらいの怪我であったか私にはわからなかったが、若い女の声が妻のものであることくらいは痛む頭でもわかっていた。
私は、すぐにも声をかけて自分が生きていることを知らせようと思い、懸命に口を動かそうとしてもあせればあせるほど何も言えないでいた。
あとになってわかったことであるが、そのときの覚醒は眠りのなかの一現象にすぎないものであったのだ。本当の目覚めはそれからずっとのちのことであった。
しかし、眠りのなかで聞いた妻の言葉は私の記憶のなかに止どまっていた。怪我もよくなり、退院できるという日、私は、眠りのなかで聞いた妻の言葉をもちだしてみた。妻は否認しようとしたが、私の心はそのとき、ほとんど動かすことの出来ないほど確かになっていた。
妻が否認するのも無理からぬことでもあったのだ。なぜなら、私が眠りのなかで聞いた妻の言葉は、実際に意識を快復するより一ヶ月も前のことであったからである。
妻は私の枕許で彼女の父親に言っていたのだ。
「お父さまだっておわかりになりますでしょう。成一郎さんは命があっても今までのようなわけにはいきませんのよ。会社だって無理ですわ。それにこの子もいますし、わたくしもまだ二十六歳よ。このままでいけば辛いのはわたくしだけ。お父さまがあと三十年わたくしたちのために頑張ってくだされば、この成久(しげひさ)も大人になり、お父さまの後継者として立派に成人してくれると思いますの。ですから思いきって成一郎さんにはご実家に戻っていただこうかと思いますのよ」
そのときの義父がどんな顔をして彼女に応対していたか知るよしもないが、ただ妻の会話だけが明瞭に私の記憶に残っていたことは確かなことであった。
妻は、
「あなたは意識を取り戻してもいないのにわたくしの話がわかるはずがない」
と主張し、それに、
「わたくしがそんなことを言うはずがない」
とも主張した。
それはあなたの被害妄想だと言って、私に
「あなたがそれほどまでにそう望まれるのなら、わたくしはお止めいたしませんわ」
と、私が望んでもいないのにそう決めつけるように言ったのである。
私が現在の状態になるまでには半年以上もかかった。失明という結果を除けば、あとは健康人と何ら変らないところまで快復していた。
当時の私は、妻たちの言動にかなり憤慨していたことと、視力の点について全く希望を遮断されていたわけではなかったため、失明に対する不安はそれほど感じていなかったのである。
私の意思より、私の両親の意思が強く働いたのであるが、妻の望むとおり、私は、総てを妻の元へ置いて郷里へ戻ってきた。むろん、かなりの慰謝料を添えて送り返されたのであったのだが。