濁り香 第1回


森亜人《もり・あじん》



      1

 上京して三十年。時の経過と共に苦い過去が浄化していくと同じように、淡い記憶も薄らいでしまった。

 ところが、時も場所も、さらに演出してくれた人物も違っていたにもかかわらず、陰蔽していた過去が噴火山の轟きのように一瞬にしてぼくの脳裡に浮上してきた。

 最近になって少し太りぎみになってきたぼくは、朝が弱く、いつまでもベッドのぬくもりから抜け出ることができないのを引きずり起すためでもないだろうが、妻の房子は犬好きのぼくを早く起すためにビーグル犬を買ってきた。

 今朝も散歩をせがんで吠え立てるビーグルに引きずられて近くの公園に出てきた。犬の名前を房子とさんざん考えたが、挙げればあげるほどこの愛くるしい犬にはふさわしく感じられなくなり、結局犬種であるビーグルという名をつけたのだが……。

 いつもなら房子も一緒に出てくるのだが、今朝は頭痛がするとかでぬくぬくしたベッドの中から目だけ出し、右手の指だけ振って

「はぁい、いってらっしゃい」

 と、頭痛がするという割りにはしごく晴れ晴れとした声で送り出されてしまった。

 ぼくの体の深みに昨夜の房子との名残があり、そいつがぼくの体を房子の傍に引き戻しそうになる。この少し道化た仕草がどれだけぼくをある呪縛から救ってくれただろうか。性愛に対するある種の拒絶感がいつとはなしにぼくを充足していたことに気づいたのは就職して数年を経た頃だった。

 上司の世話である女性を紹介された。人間的にもぼくの好みに近い女性だった。必然的に交際は深まり、どちらからともなくネオンの並ぶ一隅にあるホテルに入った。ところが、ぼくを突然に捕らえたのは行為に対する拒絶だった。心は昂揚しても肉体が自由を奪われたようにどうにもならなかった。

 その時は彼女の優しいゆとりの言葉に慰められ、男としての恥辱を辛うじて忍ぶことができた。しかし、事が二度三度と重なるとぼくに対する彼女の目が変わってきた。


「もしかして昇平さんは不能じゃなくって」

 これは決定的な言葉だった。以来ぼくは気後れが先立ち、上司や同僚の紹介をやんわりと断ってきたのだった。

 房子と結婚したのは十年前。遅い結婚だった。ぼくにはどうしてもやりたいことがあったなどといえば嘘になるが、少年期に経験したある出来事が尾を引いていたことだけは間違いなかった。あれほどぼくを呪縛していた性への恐怖が房子との交わりをすんなり通過させた背景には、時のうつろいと何げない房子の所作が大いに助けてくれたらしい。

 房子とは十年前にある展覧会場で紹介され、気づいたときには共に暮らす仲になっていた。家族の者たちから結婚そのものを反対されたわけではないが、田舎に帰ってこないことに対する不満は今も続いているようだ。

 房子は雑誌社の挿絵画家だったが、ぼくに紹介された頃はすっかり落ち込んでいるときで、逢う度にどこか暗い表情が笑顔のなかに隠されていた。

 ぼくは別段そんな房子の心を引き立てようというつもりはなかった。むしろその場の沈黙が恐ろしくてつい好きな小動物の生体の話を好んでしていた。多分、房子は聞きたくもない話だったろうと思う。ぼくが夢中で喋るので、仕方なしに聞いていたようだ。

 より端的に房子を表現するなら、甘えん坊で、泣き虫で、いったん怒らせるとたちまち貝になってしまう。さしずめシャコ貝というところだろう。この貝はいったん殻を閉じてしまうと、鉄槌か電気ハンマーか何かで壊さないかぎり絶対に口を開かない。

 ぼくは最も恐れていたシャコ貝の房子を見た。ほんの詰まらないことでぼくが彼女を疑ったことが原因だった。ぼくは腹を立てると慇懃無礼な口を利く。房子が最も嫌うぼくの悪癖だった。

 房子は泣くだけ泣くと頭痛がするといって寝室に入ってしまった。それから十日間というもの、ぼくがどんなに心を込めて詫びても口を利こうともしなかった。そんな頑なな態度を示しながら、ぼくの身の周りのことはやってくれるのだ。

 そんな房子に対し、ぼくがどれだけ苦しみ、愚行を呪い、嫌悪したかしれない。会社へ出掛けるときの言葉や、帰宅したときの迎える言葉は常と変らない。それなのに房子を詰ったときの話題にふれようものなら、房子は貝になってしまい、ただもくもくと妻として為すべき事柄を行なうだけになってしまうのだ。

 ぼくは苦しさに、もしこれで許してもらえないのならどうなってもかまわないと、ある夜決心し、房子の両手を胸に抱き、やわらかな体を抱き締めてさめざめと泣きながら詫びた。

 それでも房子はそんなぼくを黙って見つめるだけだった。ぼくは夜が明けたら家を出るつもりで最後の夜を房子の傍らで過ごした。夜明けにぼくがトイレから戻ったとき、ぼくの首を両手で抱え込み

「二度と貝にさせないでね」と言ってほんのりと笑ってくれたのだ。

 爾来、ぼくは房子を泣かせるようなまねも、房子を貝にさせてしまうような真似も二度としていない。房子という女は、共に暮らせば暮らすほど新鮮さが満ちこぼれてくるものを持ち合わせているのだ。ぼくにせよ、房子にせよ、お互いが垣間みせる性質が、他人の目を通せば奇癖としか見えないものを、ぼくたちには新鮮であり、好もしいものになっていた。

 房子のことになると話すことにこと欠かない。多分、房子の側からしても、ぼくのことについてだって際限なく話があるといいそうだが、今はぼくの心を三十数年前に引き戻したきっかけを話さねばならない。

 公園は町のほぼ中央にあり、ぼくの家からは散歩コースとしては最高だった。ほとんど車の通らない小道を選んでいけば二十分くらいだ。たとえ大通りを通ったとしても、朝の五時くらいなら車道を歩いていても車に跳ねられる心配はない。

 ちょっと足を進めればまだ田園風景の残っているような所だから、暮らすには申し分ない場所といえる。

 いつものようにビーグルに引かれながら細い道を歩いていった。不思議なもので、犬というのは小用にせよ、大便にせよ、するところは同じで、ある家の垣根のところまでくると必ず片足をひょいと上げて勢いよくやり、十歩ほどいったところにブロックで囲った花壇があるが、その裏に回り込んで今度はどっしりと腰を落して大きいのをする。そうして、二歩三歩さささっと前に進んで後肢で土を掛けるのだ。ぼくは持参してきた移植用の小さなスコップとビニール袋でそれらをかたつけ、ぶらぶらさせながら再び公園に向かってビーグルと行く。

 そのいつものコースに差し掛かったときだった。高い土塀に囲まれた大きな屋敷から水色のジャンパーを羽織った青年とも少年ともつかない男が脱兎の如く飛び出してきた。思わずぼくと正面衝突しそうになり、彼はあわてて身を翻し、驚いたような目でぼくをじっと見つめた。

 それと同時に、屋敷からもう一人の姿が飛び出してきた。年は四十歳になるくらいの女で、少しべそをかいているような顔を門から突き出し、やはりぼくがここにいることに気づいて、あわてて横を向いてしまった。

 ぼくとぶつかりそうになって身を躱した男は、「信夫ちょっと待ちなさい」という、多分この男の母親かもしれない女に声を掛けられると、電流にでも打たれたように全速力で通りを駆けていった。

 ぼくは前に進めず、後ろにも退けず、棒を飲んだように立っていた。信夫と呼んだ女の目には、そこにぼくのいることが罪ででもあるかのような光を湛えていた。だから、ついぼくは深々と頭を下げて、言う必要もない詫びの言葉を呟いてしまった。

 女はぼくの詫び言など耳に入らないのか、走り去っていった青年の影を求め、愛願する悲哀のこもった目を宙に泳がせ、体内から絞り出すような溜息をついたのだった。

 何ともいえない悲哀に満ちた溜息がぼくの心に深く染み込んだ。その溜息によく似たやつをぼくは思い出した。とてつもなく深い水底からふっと湧き出したように記憶が甦ってきたのだ。

 まっすぐ通りは伸びている。そこを背を丸めて男が走っていく。それも記憶の断面から一人の男の後ろ姿が甦ってきた。耳を澄ませると、朝を告げる小鳥の囀りが、少し離れた木立から聞えているだけで、ほかに物音らしいものの響きも伝わってこない。小鳥の声に誘われるように、目の前の家の庭木の梢を貫くように朝日が差してきた。

 女は起きたばかりとみえ、まだパジャマのままだった。かなり上等な品だろうに、乱れた着こなしが目を背けさせそうだったが、はだけた胸元から女の艶かしさが漂い出ていて、ぼくをどぎまぎさせた。

 ぼくの進む方向に彼女は立ってあらぬ方を見つめている。道の中央に寄れば通りすぎることができるくらい承知していたが、どうしても動くことを許してもらえない彼女の態度に、ぼくは落ち着かない視線を泳がせていた。

 そうだ、あの時は少女だった。しかも目の前に立つこの女のように崩れた美しさではなく、若い清純な美しさがぼくを混乱の坩堝に放り込んだ一瞬だった。それに続く経過をつぶさに見れば決して美しいものではなかったが、その瞬間は眩しさだけがぼくの心を占有してしまったのだ。

 ぼくはそのあと、ビーグルとどうやって歩いてきたのか覚えがない。気づいたときは、いつもの公園のベンチに座っていた。何がそれほどまでぼくの感情を昂揚させたのか見当もつかなかった。





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