濁り香 第2回


森亜人《もり・あじん》



      2

 ぼくが十二歳、彼女が十五歳の秋だった。冷たい風がまともに吹きつけている土曜の午後のことだった。ぼくと彼女は偶然にとんでもない場所で鉢合せした。ぼくのほうは何の考えもなくその通りを歩いていた。というより、友達の家からの帰りにはその道がもっとも近道だったから、スキップをするような軽い気分で歩いてきた。

 通りの両側はどの家にも広い庭があり、高い塀の上から松や楓の美しい枝が顔を覗かしているだけで、建物など道から見ることはできなかった。

 ぼくは通りのまんなかをスキップしながら家に戻ろうと人気のないことをさいわいに、少し蛇行するように駆けていった。

 このへんでも特に長い塀を持った家の門前に差し掛かったとき、突然にその家から人が飛び出してきた。門の奥のほうで激しく犬が吠えていた。その激しい吠え声と重なるように、女の金切り声も追ってきた。ぼくには突然すぎて何が何だかわからないまま、高い塀の下に身を縮め、走り去っていく男の後ろ姿を見るともなく眺めていた。

 黒い革のジャンパーを着、足にはスニーカーがぴったり合い、力強く道路を蹴る姿。町内でも郡内でも彼に勝つ者は誰もいない。四番でピッチャー。中学三年生なのに百七五センチもある。

―― 博文 ――

 学年でも成績は抜群のところから、音読みで『はくぶん』と呼んでいた。でも、逆らうようだが、ぼくは、

「だって、伊藤博文は『ひろぶみ』と呼ぶんだから、『はくぶん』はおかしいよ」

 といつも言っていた。

 普通なら中学生の博文のことなど知るはずもないが、博文とぼくとは隣り合わせの家で、父親同士は同じ会社の社員だった。

 ぼくは塀の下にうずくまって走り去っていく博文の後ろ姿を見送った。門内でしきりに吠えていた犬の声もやみ、今ごろでは珍しく、下駄の軽いからころという音がして門から一人の少女が顔を出した。

 少女といっても博文と同じ中学に通っていて、博文同様、もう大人のような雰囲気を辺りにかもし出している少女だった。ぼくは、彼女が真由美という名だということしか知らない。博文と肩を並べて中学校の坂道を下ってくるのをよく見掛けた。

 近所の中学生のあいだでは評判の女の子で、彼女を取り巻く同級生ばかりでなく、他校の女生徒たちからも一目おかれていた。しかし、中学生仲間の評判とは逆で、大人たちからは冷たい視線が彼女に投げ掛けられていることも知っていた。

 それほど話題性にとんだ彼女だったが、ぼくは彼女の家を全く知らなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ、町や学校の帰り道で彼女に会ったりすると、心の奥で何かがごとんという音を立てることだけは意識していた。

 だから、彼女がどこに住んでいるかは知らなかったので、大きな屋敷から顔を出したときは驚いてしまった。

 門柱に左手を掛け、同じ側の足を跳ね上げたように後ろに伸ばして上半身を乗り出し、走り去っていく博文の背をじっと見つめていた。

 その姿は、まるで短距離選手が号砲一発、全力を傾けてスタートしたが、誰かがフライングをしたため、二発のピストルが鳴らされ、急に走るのを中止したときのようだった。

 彼女は門柱に掴まってじっとしていた。体を支えている手の上方に雨宮という文字が書かれている。どうして今まで彼女の名字を知らなかったのだろう。学年も同じの姉から彼女の名くらい聞かされていたはずだったが、ぼくの記憶には全く残っていない。

 彼女は動かなかった。長い黒髪が右の頬を隠しているため、彼女がどんな表情をしているかぼくのところからは見えない。しかし、ぼくに向けられた下駄の裏が彼女の表情そのもののように思われた。

 下駄の裏がリズムを取るように小刻みに上下している。下駄に沿って目を這わせていくと、白くすっきりした足がスカートを押し上げているところに到達する。足先が高く跳ねられたときには色物の下着が見える。一瞬、ぼくは自分の目玉がそこに縫いつけられたかと思ってしまった。

 ぼくは息を飲んだ。隠されている部分が清潔なものかどうかぼくには判断もつかなかったが、いやに成熟な感じのする彼女の股間から、走り去っていった博文の顔が覗いているように思え、むりやり糸を引きちぎるように視線を離した。

 初めて地面を踏んだとしか思えないほど真新しい下駄の裏が、秋の陽光を受けて眩しかった。玄関から門までの長い距離のほとんどが石畳になっていたことも下駄の裏を美しく見せていたのかもしれないが、ぼくは、そのまま門柱に掴まっている彼女の全身からこぼれる何ともいえない清らかさが、下駄の裏にまで反映しているように感じられた。

 博文の姿は視界から消えていた。それでも彼女は門柱に手を掛けたままの姿勢を崩さないでいた。博文と肩を並べて坂を下ってくる彼女には何の抵抗もなかったのに、今のいま、ぼくの心に何か言いようのないわだかまりが生じてくるのをどうしようもなく、両手を胸に当てたまま、高く挙げられた彼女の足の美しさに意識を喪失させていた。

 ぼくは、自分が彼女のすぐそばにいることを知らせなければ失礼に当ると思うのだが、どうしても声を発することができないでいた。

 どのくらいの時が流れただろうか。やがてぴんと伸ばされていた彼女の足先から力が抜け、ゆるゆると地面におりた。そうして大きなため息が聞えた。静まり返った住宅街の通りに、ぼくが驚いて立ち上がってしまうほどの大きさで、そのため息は通りの反対側の高い土塀にぶつかって戻ってきた。

 何かの気配に気づいたのか、彼女が振り返った。そこにぼくの姿を見て、彼女は大きな目をさらに大きく開き、まじまじとぼくの顔を覗き込んだ。

 二人が並ぶと、彼女の額がぼくの目の高さにあることを知った。ぼくの姉の額も広いほうだが、不思議なものでも見るような目で見つめている彼女の額も広く、カールした前髪がふわりと覆っている。

 ぼくは小学六年生でも背が高い。中学三年生だと嘘を言っても誰も疑わない。時には高校生かと問われることさえあった。

 だから、日頃から中学の女生徒などは恐るに足りぬと思っていたので、彼女たちなど眼中になかった。ところが、今は自分が急に子供っぽく感じられた。薄いカーディガンを羽織ったままの彼女の胸が、走り去った博文とのあいだに何かがあったことを暗示でもしているかのように大きく波打っていた。

 ぼくは彼女の真剣な顔つきに気圧され、もしかしたら彼女はぼくを殴るのではないかと思った。彼女は表情も崩さずに下駄の音を立ててぼくに近づき、ぼくの顔を覗き込んで言った。

「ワッチュアネーム?」

 多分英語だろうと思ったが、殴られるとばかり思っていたので咄嗟には答えられなかった。すると

「こんな簡単な英語もわからないの?」と、鼻に小皺を寄せて言った。

 ぼくは、初めて白い歯を見せて笑った彼女の、どこか人なつっこさに対して恐怖心が消えた。それでも口ごもりながら

「榊原昇平です」

 と言った。

「へぇ、結構イカスじゃん」と言って、口調を改めて顔を近づけ

「ねえ、あいつのこと知ってる?」と聞いた。

 ぼくは小さく頷いてみせた。本当なら強く大きく頷きたいところだったが、そうすれば彼女に面倒なことを聞かれるような予感がしたので、遠慮ぎみに首を縦に振っておいた。それに、近づいてきた彼女の体から何ともいえない香りが漂い出て、ぼくの官能をくすぐり、その感覚にぼくは戸惑ってもいた。

 その香りが彼女のどこから漂っているのかわからなかった。鼻を動かして出所を知りたいと思ったが、そんなことをしたら彼女に咎められるか、本当に殴られると思い、彼女に気づかれないようにそっと息を吸い込んでみた。

「ねぇ榊原君、わたしのメッセンジャーボーイになってくれないか」

 ぼくは要領の得ない微笑を彼女に向けただけで何も言わないでいた。

「あいつの家を知らないの?」

「知っています。」

 知っているどころの話ではない。しかも親たちは仲よしときている。正月だからやれそれとか、桜が咲いたからどうのとかいって、すぐ両家が集まって宴を催すのだ。

「じゃあ頼むよ。ちょっとこっちにきな」

 彼女はぼくの返事など待たずにずんずん門内に入っていった。静かな夕暮れ、彼女の鳴らす下駄の音が澄んだ空に反射でもしているかのように、それだけがきわだって聞えた。

―― 顔は目を奪うほどきれいなのに、どうして乱暴な口の利き方をするんだろう。 ――

 ぼくは彼女のあとに従った。ある種の憧れを抱いている彼女がどんなところに住んでいるか知りたかったし、こんな立派な家の中を見たいという気持ちもあったので、門の外で彼女に言われたときより、門内に入ったときにはそれほど億劫とも思わなくなっていた。それに、いつも堂々としている博文が、血相を変え、ぼくが目の前にいることにも気づかないで走り去っていった背景に何があったか知りたくもあった。

 玄関といっても、門内に入ったときは立木に妨げられてどこにあるのかさえわからないほど広く、ぼくの住む社宅の七軒分の幅はたっぷりあるように思えた。よく知らないが、これがお屋敷の前庭だろうと思った。

 前庭には苔むした岩が二つも三つも転がっていて、その一つなどは高さが二メートル半はあるようだった。何の木か知らないが、やけに真っ直ぐ伸びた木も空を支えているような勢いで伸びていた。

「これホオの木。あっちが泰山木。まぁ、[たいさんぼく]と言ってもいいけどね。本当は『たいざんぼく』というのが正しいってうちの親父が言ってた。どっちともいい匂いがするんだ。親父もおふくろもやたらにでかい木が好きで、おまけに匂いがしないと植物じゃないってさ」

 彼女の親がどんな樹木や花が好みかなんて聞いてもいないのに、彼女は後ろを振り返りながら話してくれる。親たちの好みだと言っているが、案外彼女も好きではないかと、ぼくは彼女の楽しそうな顔を見てそう思った。

「あれは?……」

 やっと玄関が見えてきたとき、張り出した玄関先の屋根の下に花をつけている木を指さしてぼくは尋ねた。近づくと、多分その木からだと思うが、何ともいえない香りが漂ってきた。ぼくは小鼻をひくひくさせ、三メートルほどもある木から香ってきていることをたしかめた。

「あぁ、あれ? 金木犀。漢字でちゃんと書ける?」

 たぶん、ぼくが書けないに違いないという確信めいた笑いを口許におよがせながら、彼女は言った。

 ぼくは首を横に振った。そんなもの知るはずがない。今まで一度や二度くらい見たことがあったかもしれないが、名前など聞いたこともないのだから当然ながら漢字でどう書くか想像もつかなかった。

「馬鹿ね。金木犀の字くらいちゃんと覚えておきなさい」

 彼女はそう言うと地面にしゃがみ込んで手頃の石を拾い、美しい書体で書いた。

 彼女の書く文字は石で書いているにもかかわらず、本物の金木犀が香ってくるのではないかと思えるようだった。

 だが、ぼくは彼女に侮辱された口の利き方に、その筆跡を褒めてやりたい気持ちを押し殺して

「だったら(きんもくさい)じゃないですか」

 と、自分では精いっぱいの虚勢を張って彼女の肩越しに文字を親指で示しながら、少し抗議っぽく言った。

「これを、さいと読んじゃいけないの。『さい』と読むとちょっといやらしくなるでしょ。まぁ、せいだってそう変わりはないかもね」

 ぼくは口の中で呟いてみたが、彼女の言うような嫌らしさなど感じなかったので

「そんなことありません。どこが嫌らしいんですか?」

 と改めて口に出して言った。

「馬鹿ねあんたって。この意味がわからないほど幼稚なの」

―― さっきは君と言ったくせに今度は(あんた)だってさ。それに幼稚だなんて!自分が中学生だからといって少し生意気だ。 ――

 ぼくは少し頬を膨らませて彼女を上から睨みつけた。本当は、彼女が、 「さいと読むとちょっといやらしくなるでしょ」

 と言ったときの、口の歪め方で何となく顔を赤らめていたのだが。

「へぇ、あんたもあいつと同じように結構やるじゃん。なかなか気が強いみたいじゃん。気に入ったわ」

 顔に似合わずきついことを平気で言う人だと、ぼくは彼女の強い視線を外しながらひとりごとのように

「中学生だからといってそんなに威張ることねぇじゃん」

 いつも姉に向かっていう台詞を呟くように言った。

「なによ。言いたいことあったら大きな声でいいなさいよ。あんた男の子じゃんか。それともわたしが怖いんだろう」

 彼女は手に持っていた小石をぽいと放り投げると、スカートの裾を指先で抓まんでぼくの前に立った。

 その下からは、さっき門柱に掴まって跳ね上げていた足が、今度は無意識ではなく、かなり挑発的にぼくの目を射た。

 家にいて、姉や母の裸に近い姿など見慣れているはずなのに、目の前に晒された彼女の白い太股からぼくは逃げるように視線を外した。

 ぼくは挑発的な彼女の白い太股から視線を上げて彼女を睨みつけた。彼女もぼくの凝視に負けまいとでもするように、張りのある目をさらに見開き、けんめいに跳ね返そうと腰に手を当てて立ちはだかっていた。

 走り去った博文とのあいだに何が介在していたか判断できないが、彼女の目を見ていると、何となく彼が逃げていったのではないかと想像された。

 腰に当てていた彼女の手がぴくりと動いた瞬間、ぼくの左頬を払った。痛みはそれほどでもなかったが、ぶたれたという恥辱がぼくを狂暴な精神に追いやった。

 ぼくは何もいわずに右足を跳ね上げた。挑発した彼女の股間に食い込むほどの力で蹴り上げた。彼女は小さく悲鳴を上げた。そして棒を倒すように仰向いたまま転倒した。一見、蹴倒したように思えたが、ぼくの足先が彼女の股間に食い込む寸前、彼女が自ら倒れてぼくの攻撃を躱したのだった。

 その変わり身の見事さに、ぼくは手を打って大声を上げて笑ってしまった。

 倒れた彼女はしばらく呆気に取られたように口をぽかんと開けて空を見上げていたが、まくれ上がったスカートの裾を、それがぼくででもあるかのように力いっぱい払い、軽々と立ち上がって

「やるじゃん! 気に入った。あいつとは違う。見掛けない顔だけどどこの中学」  と言った。

 ぼくは首を横に振った。

「えっ! じゃぁ小学生?」

 彼女は珍奇なものでも見るようにぼくの顔を覗き込んだ。ぼくはゆっくり縦に首を振ってみせた。

「ますます気に入った。わたしのダチにしてやる。その儀式をするからついてきな」

 彼女はくるりと背を向けると玄関の横を通り抜けて庭に回り込んでいった。彼女の背は、ぼくに蹴倒されたときの汚れがそのままになっている。この場合、彼女と同じ中学三年になる姉なら、急いで着ているものを脱いで調べて、汚れていたら慌てて着替えをするだろう。そして、さんざんぼくを罵り、挙げ句の果てに涙をいっぱいためて母に訴えに駆けていくところだ。

 ところが、彼女は何の頓着も見せずに前を歩いていく。ぼくに蹴飛ばされたという辱めのために忘失してしまったのかもしれない。ところどころに土が着いているにもかかわらず、ぼくの目には、頭を反らせて歩いていく彼女の全身からはどこか近づき難いような威厳すら感じた。

 彼女は、必ずぼくがついてくると確信しているかのように、一度も後ろを振り返らずに庭の植え込みのあいだをずんずん歩いていく。ぼくは何となく躊躇したが、彼女から発する何か冒し難い力のようなものに引きずられていった。





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