濁り香 第3回


森亜人《もり・あじん》



      三

 秋雨前線もすっかり南下した空は抜けるように青く、あまりの青さに黒みがかって見えるほどだった。明るい陽射しが庭いっぱいに照り映えている。五十坪ほどある庭は、春から秋まで花が絶えたことがない。クロッカスから始まり、福寿草、水仙、チューリップ、ヒヤシンスと、房子の思いがこめられた庭は明るくいつも華やいでいる。

 なかでも、房子が丹精こめて面倒をみている鈴蘭水仙と口紅水仙は訪れる客も思わず声を発するほどの出来映えだった。今は、遅く植えた朝顔が最後の花を毎朝つけてくれるし、サルビアやペチュニアもビーグルの小屋の近くで咲いている。

 今年は例年に比べてトンボの数が多いように思う。数種類のトンボが線を引いたように飛んでいる。トンボの世界にもきつい縄張りがある。ヤンマの類が最も高いところを飛び、次にシオカラの類がその下を飛び、最も弱いものが最下層を占有しているのだ。

 俗にイトトンボといわれているやつが、弱々しく羽を動かして菊の花にしがみついたところへ、葉の裏に隠れていたカマキリが飛び掛かって鋭いカマを振りおろした。たちまちトンボはカマキリの両足に捕らえられた。ぼくには聞こえないが、もし鋭敏な聴覚を持っていて、昆虫たちの声まで聞き取れたなら、さぞ悲しい叫びを上げてカマキリの餌食になったのが聞こえたのではないだろうか。

「まぁ 可哀そう!」

 ぼくはビーグルに引きずられるようにして家に戻ってきた。まだ寝ているものとばかり思っていた房子は既に起きて縁先に立って庭を眺めていた。

「自然の営みといっちまえばそれまでだが、やはり弱いものの住む世界は狭いんだよな」

 ぼくはビーグルを犬舎のポールに鎖を掛けながら応じた。散歩の途中で心に激しく浮上してきた過去がちくちく胸を刺す。目敏い房子に心の内をけどられないよう努めてさりげなく振る舞っていたが、どうにも落ち着かない気分だ。

「でも、カマキリも生きていくのに懸命なのよ。この可愛い顔をしたビーグルだって、餌をやらなければたちまち狂暴な獣に早変わりしちゃうのよね」

 房子は細く引いた眉をちょっとくもらせ、秋の陽光に眩しそうに目を細めて大きな欠伸をしているビーグルの整った横顔を見ながら言った。

「弱肉強食か。惨たらしいな。生きていくためには手段を選ばずか」

 のんびり欠伸をしているビーグルからは、狂暴に変身した姿など想像もつかない。有るか無しかの牙を向き出し、背中の毛を逆立てて幼い子供に襲い掛かる姿など夢想だにできないのに、たしかに房子の言うとおり、どんなに弱い小動物であれ、昆虫であれ、弱いものは弱いなりきに種族保全のためには思いもつかないほどの狂暴さを示す。

 あの日、ぼくは何かの力に導かれるように真由美に従った。そしてそれに続く泥沼のような経験。外力が加わらなかったならいったいぼくたちはどこまで転げ落ちていったのだろう。今とは全く異なる人生を送ったかもしれない。

 花壇の手入れに没頭している房子の後ろ姿に、広大な庭を横切っていった真由美の姿が重なる。あれから三十数年が経た。彼女の噂を耳にしない。というより、ぼくは自分の少年期に繋がる一切を遮断してきた。一人娘だったし、富裕な家に育ったからにはそれなりの暮らしが今も続いているだろう。

 庭に降りてしまうと余念のない房子だ。きょうは日曜日だ、時間内に食事を取らなければいけないという拘束はない。ぼくは居間のソファに寝ころんで郷里から送られてくる新聞に目をやっていた。

 銀行の女店員を殺害したニュースがトップに掲載されている。このニュースは中央でもかなりニュースバリューがあったのでぼくもよく知っていた。

 犯人の近所に住む人の証言を読んで、人は見掛けによらないという言葉が身に染みた。誰もが人を殺すような人ではなかったと言っていた。

―― 虫も殺さないというやつか。 ――

 たとえそうであっても人間の深層心理を探求していけば、必ず動機が浮上してくる。たぶん、この犯人もそんな例の人物なのかもしれない。

 虫も殺さないといえば真由美もそうだった。だが、当時の大人たちが彼女に向ける視線の冷たさが今ならわかる。美しく整った顔、自分と関わり合いのない人たちに対する礼儀正しさは既に大人の世界のものだった。にっこり笑うときのあどけなさは同年齢の少年や少女ばかりでなく、世間を熟知していない若者たちの目を奪った。

 ぼくはページをめくった。どの新聞を見ても事故のニュースのない日はない。地方紙も毎日とまではいかなくても自動車事故のニュースが目につく。無謀な運転、スピードの出し過ぎ。酔っぱらい運転、引き逃げ等々。

 一面をさいて事故のニュースが掲載されていた。

 国道二十号線で大事故。

 乗用車が反対車線に飛び出し、前方からくる大型トラックに正面衝突。その事故に巻き込まれる形で三台も大破。

 事故を起こした運転手の名があった。『雨宮真由美五十歳』並んで二人の子供の名前も載っていた。

―― あの人の名前だろうか? ――

 ぼくの胸に去来したのはそのことだった。年齢や住所を見ても信じ難い。しかし、それはまぎれもない事実なのだ。ほんの一時間前に突然ぼくの記憶に浮上してきた人と同一人物だった。何か得体の知れない誘いのようなものを感じた。

 散歩の途中で遭遇した母と子。その乱れた母親のパジャマ姿の上に真由美が重なる。真由美はあの母親を少し老けさせた顔をしていたのだろうか。瞼の裡に現われる真由美は三十数年前のものだった。もし、さっき見た母親のようだったら、郷里に帰って再会するようなことがあったなら、ぼくは再び真由美に呪縛されたに相違ない。

 ぼくは庭に目をやった。房子は長枝鋏でアメシロの産みつけた卵の巣を切り落としている。それをちらと見ながらぼくは電話に手を掛けた。

 ぼくから電話をするようなことなど今まで一度もなかったので、母は大いに驚き、何かあったのかとしつこく聞いてきた。ぼくが何もない。ちょっと聞きたいことがあって電話をしたんだ、と言っても、母は執拗に

「またお前、房子さんを泣かせたんじゃないだろうね。もしかしたら家を出ていかれて困っているんと違うかい」

 と、とんでもない空想をして、ぼくが何も言わないでいるのをてっきりそうに違いないと思ったらしく

「待っておいで、すぐ電車でいくから」

 と言って電話を切ろうとするのに

「おふくろ慌てるなよ」

 と、つい怒鳴ってしまった。

 房子が心配そうに手を休めてこちらを見ているのに、ぼくは手を振ってにこっと笑ってみせた。

 房子は庭で虫取りをしているから心配するなと言ってやり

「それより今朝の新聞を見ていたら、雨宮真由美という名が出てきたからちょっと聞いてみたかったんだよ」と、声の調子を落として言った。

 やっと母は安心したとみえ

「なんだばかばかしい。年寄りを驚かすもんじゃないよ。ほんとに人騒がせなんだから」

 と、変なとばっちりを投げてきた。

 母の話によると事故はひどいもので、即死も即死。車体を切って中から引き出したという。しかも、上半身は完全に潰れていて、着衣で見分けたとのことだった。

 ぼくの心は複雑だった。少し小生意気だった自分だが、やはり少年の純粋さは持っていた。真由美の大人びた行為によって開花された性への溺れが彼女の死によって浄化されたとは言わないが、どこかで払拭されたような、解放されたような気持になっていた。

 既に十年前に房子によって真由美の呪縛から解放されたと思っていたが、彼女の死によってそれは見せかけにすぎなかったことを知った。これで本当の自分が表面に出てくるとも思わないが、解放された明るさだけは得られたようだった。

 ぼくは少女の真由美の後ろ姿を追って目を閉じた。





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