虹色の陽炎 第1回


森亜人《もり・あじん》



      1

 すみれは、母が野良仕事の合間にミシンを踏んで作ってくれたスカートのフリルをひらひらさせながら林檎の木に登って辺りを見回していた。

 彼女はみずみずしい若葉と、白い林檎の花に取り囲まれているなかで、広がる林檎畑や田んぼを眺めていた。どちらを見ても山が連なり、空と大地を区別するために描かれた緑の縁取りのようだった。

 江戸時代、水害や旱魃から城下町や水田を守るために、城主の命令によって敷設された水路の私舟戸川が、田畑を縫うように流れている。遮るもののない田畑の彼方には、初夏の日を浴びた湖が光っている。

 一ヶ月もすれば、川の両岸は葦で埋まり、水鳥の群が卵を生みに渡ってくるし、梅雨には湖から鮒や公魚が溯上してくる。盆地は目をやるところ全てが青々としていた。

 すみれは小学校六年生になっていた。低学年のあいだは教科書の文字も大きかったので、あまり苦労ではなかったが、高学年になるにつれて、教科書の文字が小さくなり、五年生の夏休みが始まる前のテストのときから全てを諦めてしまった。だからといって、すみれは決してしょんぼりするような女の子ではなかった。

 担任の先生が驚くほど朗らかだったし、クラスでも劣等生だったにもかかわらず、同級生に大事にされていた。「成績が悪くてもすみれさんは明るいからこのままで結構です」というのが担任の先生の言葉だった。

 それを良いことにして怠けるつもりはなかったが、すみれの学業は親たちも呆れるほどだった。戻ってくる答案の上に書き込まれた点数などに、すみれは一度も気を止めなかった。見なくても自分がどのくらいの点数を取っているかくらいは承知していた。

 あるとき、隣の席の人と戻ってきた答案の点数を付ける作業を授業時間にやったことがあった。隣の生徒はクラスでもよく出来る子で、先生の正しい答えを聞きながら点を付けていったところ、百点にたった五点しか足らなかった。その子は悔しがり 「たった五点なのに…」と繰り返してばかりいた。すみれは

「だったら正しい答えを書き込んで百点にすればいいじゃん」

 と言ってやると

「それなら、すみれさんにも五点やるから百点にしてよ」

 と言った。

 すみれは腹が立った。たった五点をもらったところで、すみれの点数は十五点に五点が加わるだけだ。しかも、点数をもらってまでして二十点にしたいとは思いもつかなかった。劣等生にも意地というものがある。五点やると言われ、すみれは自尊心を大いに傷つけられたように思った。

 いつもテスト中、クラスの皆は下を向いて鉛筆を走らせている。自分は何を書いていいのかわからないまま、時間が過ぎるのを待っていなければならない。その寂しさは誰にも理解できないだろうと、鉛筆を握り締めて思ったものだ。

 その自分に、

「五点やるから…」

 と言われ、すみれは泣きたくなるほど腹が立ったのだ。授業中、見えない教科書を前にし、黒板に書かれる先生の文字も見えたり見えなかったりで、すみれのノートはいつもきれいだった。

 きょうは日曜日で、学校のことを考えなくてもいい。だから、彼女は朝から機嫌がよかった。毎日が土曜であり、日曜だったらどれだけ楽しいかとさえ思っていた。

 彼女は、いつも土曜から日曜の夕方まではご機嫌だったが、夕食が済むと、急に心が重い石でも入れられたようになってくるのだ。それも月曜の朝、近所の同級生と学校へ向かう頃にはいつものすみれに戻って、田中の道を大騒ぎをしながら駆けていくのだった。

 すみれが、いま登っている林檎の木は、ここいらでは最も古く、背も高い木だった。彼女は、その木のなかほどより少し上まで登って周囲を眺めていた。

 彼女の背から一直線に東へ辿ると、残雪を頂いた八ヶ岳の峰や、周囲の峰々を睥睨している富士の霊峰が、雲海の上に頭を出して屹立している。

 すみれは、スカートのフリルを枝に引っ掛けて破りでもしたら、母に叱られ、罰としてご飯炊きを言われたらたいへんと思い、細心の注意を払ってここまで登ってきた。

 二つに分かれた太い枝に腰をおろし、父に買ってもらったハーモニカをスカートの大きなポケットから取り出して唇に当てた。

 すみれは、林檎の木に登ったら、まず最初に何を吹くか決めていた。いつも林檎畑に向かうために家を出るときからそうしていた。校歌を吹くときもあったし、テレビのアニメの主題歌を吹くときもあった。

 唇が痛くなるまで吹きつづけてから、おもむろに背を伸ばし、胸を張ってうたうのだ。ハーモニカで吹いた歌を初めから声に出してうたうのだ。自分の声が畑を越え、舟戸川を越えて、対岸で働いている父や母に聞かせるつもりで大声を張るのだった。

 昼食のときや夕食のときに、母は、

「すみれの声は良い声だねぇ。舟戸川の向こうまで聞こえてきたよ」

 と言ってくれたし、父は、大きな目玉を優しく動かしながら、

「おぉ」

 と、母の言葉に頷いてくれるのだった。

 すみれは、レンズの厚い眼鏡を上に持ち上げ、唇を舌先で湿らせておいて思いきり深呼吸をし、五月の空に目をやってからハーモニカを吹き出した。母に教えてもらうまでは自分も知らなかったし、同級生の誰もが知らない美空ひばりの林檎追分だった。母が風呂へ入ったとき、首まで湯に漬かってうたう歌の一つだった。

〈林檎の花びらが風に散ったよなぁ〉

 歌に合わせでもしたように、すみれの目の前の枝から白い花びらがひらりと落ちた。まだ実など出来てもいないのに、すみれの鼻孔には甘酸っぱい林檎の赤い実が匂ってきた。

 その歌を飽きるまで吹いてから、次に吹いたのは、三橋美智也の『林檎村から』だった。この歌も母のお得意の歌で、田んぼや畑で働きながらうたう歌の一つだった。

〈覚えているかい故郷の村を 便りも途絶えていく年すぎた〉

 という歌い出しが好きで、すみれは三度も四度もそこだけ吹いて、やっと先へ進んだ。

 自分の生まれ育った土地が、よそから見ればどんなふうに見えるのか考えもつかなかったが、すみれは、やがて自分も故郷を離れる時がきたら、この歌の歌詞もきっと理解できるだろうと思いながら吹きつづけた。

 すみれはハーモニカを吹いているうちに何となく悲しくなってきて、ほろほろと涙をこぼしてしまった。何が原因で悲しくなるのか考えつかなかったが、とにかく涙がこぼれてきた。

 家の中や縁先に座って吹いているときには、ただ楽しく吹いていたのに、林檎の木に登って吹いているうちに、涙がこぼれてきたのだ。

―― もしかしたら鶏や牛や犬が聞いていないからかもしれない。 ――

 今は林檎の木の上にいる。大家の祖母も、やかましい鶏たちもいない。

―― でも今までだって林檎の木に登って何回も吹いたのに、涙なんか出なかった。家鴨が野犬に襲われて二羽も死んだせいかもしれない。 ――

 すみれは、自分の心を湿らせてくる感情の波の出所をそう思うことにした。切なくなるようなことを考えても仕方ない。すみれは気を取り直すと、楽しいことを思い出しながら、一段と強くハーモニカの小さな穴に息を吹き込んだ。

 父や母、兄や弟と一緒に行った山の牧場でのことが真っ先に浮かんでくる。

 搾り立ての牛乳が、遊び回ってきた喉に、こくこくと音を立てて流れ込んだときの感触。同級生と湖へ潜って、黒くて大きなカラスガイや、シジミを拾ったことなどを思い出しながらハーモニカを吹いた。それなのに悲しみが絶える様子もなく、心の底から湧き上がってきた。

 すみれの悲しみを救ってくれたのは、弟の庄平だった。いつも一人でころころ遊ぶので、手が掛からない子だと親たちが言っていた。

 その庄平が木の下へやってきて何かしていると思っていたが、すみれはハーモニカを吹きつづけ、庄平のしていることなどに気をとめていなかった。

 目の前は涙で霞んでいたはずだったのに、全く違うものによって目の前がぼやけてきた。それと同時に、松葉の燃える匂いと、ぱちぱちという音が下から聞こえてきた。すみれは激しく咳き込みながら下を覗いてみると、煙の中に庄平が立って上を見上げていた。

「かぁちゃぁん! おおい、早く来てぇ! 庄平が…」

 すみれはハーモニカをポケットに仕舞うと、木を滑り降りていった。いくら母の名を呼んでも聞こえるはずのないことを思い出し、急いで木を滑り降りていった。登るときはスカートを小枝に引っ掛けないように気を配って登ったが、今度はそんなわけにもいかないと思いつつ素早く幹に両手と両足を絡ませて降りていった。

 すみれが煙の中から外へ飛び出したときには庄平の姿はどこにもなかった。

―― 掴まえてひどい目に合わせてやらなくっちゃ。 ――

 庄平が逃げ込むところは決まっている。父や母に叱られて追われるときも、兄の持ち物を隠して追われるときも、逃げ込むところは大家の祖母のところと定まっていた。

 だから、すみれは慌てて弟を追う必要もなかった。どのようにして懲らしめれば一番効果があるか考えながら、レンズに付着した煙を袖口で拭き拭き家の前を横切っていった。

―― 庄平のやつ、どこから松葉を持ってきたずらか。あんなことをしたら林檎が駄目になっちゃうかもしれないのに…。また父ちゃんの拳固をもらえばいいんだわ。 ――

 台所の前を通りすぎるときに中を覗いてみたが、誰の姿もなかった。日曜日でも父も母も野良に出ている。それも、夜が明ける前に出ていったきり、昼になる時刻になっても二人の姿は見えなかった。

 すみれは庄平を捜してお仕置することを諦め、台所へ行った。思ったとおり、洗った釜が流しの中に伏せたままになっていた。すみれは大きな米櫃に首を突っ込んで、一枡升で米を掬った。

 白い米の一粒一粒が、父や母の汗の塊のように感じ、一粒でも流してしまわないように気を配りながら、ゆっくり三度ほど洗い、ガス焜炉に釜を乗せ、座敷の柱に掛かっている時計を見上げた。

「こんな焜炉を使っているのはうちくらいなもんだわ。桂子ちゃんちだってタイマーつきの炊飯器を買ったっちゅうに…。大家の伯母さんちだって…」

 すみれは、自慢げに話してくれた同級生の桂子の顔を思い出すやら、何もかもをもったいながる母と伯母の話を思い出すやらで、お金はあるくせに炊飯器も買おうとしない母の顔を思い浮かべ、何かやたらに頭の中がくるくる回っていた。

 台所へ戻ったすみれは、少しずつ湯気が立ちはじめた大きな釜を見上げているうちに、なんだか眠くなってきそうだった。本当は釜が噴くまで遊んでいても構わなかったが、それでよく失敗することがあるので、最近では噴きこぼれそうになるまで釜の前に座っていることにしたのだ。

 食事の支度は親がするものだと思っていても、朝も暗いうちから畑に出ていることを思うと、親たちが可哀そうになり、いつもこうして食事の支度をしてしまうのだった。これが田植えや稲刈りのときなら十数人もの人が集められ、ご飯炊きも自分がしなくても済むのにと、すみれは少し残念な気持ちで台所に座っていた。

 自分ばかりに食事の支度をさせるので、母に文句を言ったことがあった。そのとき

「すみれ、やっておきな。大人になってから得をするよ。兄ちゃんや庄平は男としてやらなければいけないことが出てくるものだよ」

 と言われ、そういうものかと、漠然と理解したつもりできょうまで過ごしてきた。

―― 兄ちゃんたちは男として何をするんだろう。母ちゃんだって、父ちゃんと同じことをした上、食事の支度も洗濯もしているではないか。 ――

 すみれは、女というものは何とつまらない生き物だろうと思った。と同時に、そんな母の手伝いができるなら、誇りに思わなければ母に対し、気の毒のようにも感じられた。

 すみれはポケットからハーモニカを取り出した。釜の蓋の下で、しゅっしゅっという音がするまで時間がある。林檎の木の上で吹いたように、噴きこぼれそうになるまでハーモニカを吹くことにした。

 台所へ上がるとき、それでもスカートが破れていないかたしかめてみた。どこにも破れたところがなかった。あまり急いで木を滑り降りたため、太腿の内側の皮膚がささくれ、少し血が滲み出していたくらいだった。

 母自慢のフリルに林檎の脂がちょっと付いていたが、そんなのは気にすることないと、すみれは、毎日のように走り回ってよく鍛えられ、引き締まった両足を思いきり伸ばした。

 釜から湯気の立つのを見ていると、すみれは何となく眠くなってくる。前にもこうして飯を炊いているときに睡魔が襲ってきて、気づいたときは台所中に飯の焦げる匂いが満ちていたことがあった。

 今も眠くなってくるのを懸命に我慢しながら、父の背に負われて毎日のように病院へ通っていた頃のことを思い出していた。無論、それが母のときもあったが、ほとんど父に連れていかれたことを記憶している。

 すみれ自身は記憶していないが、視力の無いことに気づいたのは母だった。風呂へ行った折、うっかり落としてしまった石鹸を拾うのに、タイルを手で触りながら捜しているのを見て、母は青くなったと聞いていた。

 それから何回も手術をした。その度に視力が出てきて、厚いレンズの眼鏡を掛ければ、どうにかこうにか学校へ行けるくらいの視力を得ることができたのだ。

 しかし、すみれは学校へ行っても黒板に書かれる先生の文字が見えなかったので、あまり勉強は好きになれなかった。まして、学年も上がるほどに、文字は小さくなるし、勉強は難しくなるで、ますます学校へ行くのが嫌になってきていた。

 それでも家にいるより学校へ行けば、友達がたくさんいたし、誰も彼もすみれを大切にしてくれたので、その点では学校もさほど悪いものでないと思っていた。

 学校の帰り、掛けている眼鏡が重くて仕方ないので、車も通らない農道ということもあって、下へずらして歩いているところを母に見つかり、何か言われたこともあったが、目の前に邪魔なものが乗っているのは楽ではなかった。だから、母がいないときは、なるべく眼鏡を外していた。

 眼鏡を外していると、世界が違ったように見え、むしろ眼鏡を掛けないほうが、すみれにとって都合の良いことが多かった。眼鏡を掛けていると、道の凹凸がはっきり見え、歩いていてもつい緊張してしまうが、眼鏡を掛けていないと、道はほとんど平らに見えるので、凹凸に足を取られても慣れたもので、身体を軽々と立て直すことができるのだった。

 そんなことを思い出しているうちに、釜がことことと歌をうたいはじめ、白い湯気が噴いてきた。すみれはガスを止めて座敷へ行き、時計を見上げた。十一時五十分だった。五分間だけ遊べる。そう思って台所から外へ出たが、また忘れてしまったら困ることになると思い直し、溜息を吐きながらもう一度台所へ戻った。

 すみれはポケットからハーモニカを取り出し、改めて『林檎追分』を吹くことにした。〈林檎の花びらが風に散ったよな〉

 いくら吹いても飽きない。さっきは弟に邪魔をされてうたうことができなかったが、今度は家の中にいる。すみれは、まだ白い湯気を少し噴いている釜の前に立って、胸を張ってうたいはじめた。

 母は歌のなかでも『えぇー』と小節を転がすところが上手で、息を切らないでうたってくれるが、すみれは息を思いきり吸い込んで、えぇー、とうたっても、途中で息を吸わないとつづけられなかった。

 ひばりは十二か十三のときにこの歌をうたったと母に教えてもらったが、自分も同い年なのにどうしてうたえないのか不思議だった。最後の『えぇー』と節を転がすところで詰まってしまうのだ。すみれは三度目の挑戦に胸を張った。

「カーン」

 台所の外で声がした。

―― 庄平だ。わたしが捜しに行かないもんだから、自分のほうからのこのこ出てきたんだ。近くに来るまで待っていよう。 ――

 すみれは、弟の存在を無視してうたいつづけた。

〈月夜に月夜にそっと ええぇー〉

―― 座敷で音がする。弟が部屋のほうに回ったのだ。もう少し待たなくっちゃ。 ――

〈津軽むすめが泣いたとさ 辛い別れを泣いたとさ〉

 すみれは間合いを計って座敷へ飛んだ。そうして、板戸の陰に隠れている弟を捕まえた。それからはいつものように部屋の中を転げ回っての喧嘩だった。お陰で、釜に二度目の火を付けるのをすっかり忘れてしまい、逃げ出した弟を追って外へ飛び出していった。





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