虹色の陽炎 第2回


森亜人《もり・あじん》



      二

 すみれは中学三年になっていた。

 中学は小学校のときの勉強の比ではなかった。訳もわからない勉強をするより、ほかにしなければいけないことがあるようにも思えたが、さりとて、何をするべきか、今のすみれには見当もつかなかった。

 久しぶりに学校で喧嘩をした。勿論、喧嘩の相手は男子だった。他人とする喧嘩は小学校へ入学したとき以来だと記憶している。

 以前から、すみれの顔を見ると、喧嘩をふっかけてくる男子生徒が隣のクラスにいた。きょうもすみれの分厚い眼鏡のことと、視力のないことを肴に突っ掛かってきたのだ。

 小学校のときに喧嘩をしたときの原因と全く同じ内容の挑戦だった。そのときも相手の男の子を投げ飛ばしてやったが、今回もそうしたいという衝動がすみれの五体を揺り動かした。

 いつもの彼女なら、笑っているくらいだったが、きょうは腹の虫が騒ぐらしく、ケリをつけてやろうと、その子を放り投げてきたのだ。

 すみれは、悪童どもからどんなに悪口を言われても泣かなかった。一度だけ目のことで皆の前で泣いてからは、その屈辱を思い出しては耐えてきた。その意地の強さが良いか悪いか、すみれにも判断できなかったが、とにかく皆の前で泣くことだけは御免だった。

 意地の強さを除けば、すみれは明るく、物事にいつまでも屈託しているようなことはなかった。どちらかといえば、周囲の者たちが、「もう許しちゃうの?」と口にするほど、すみれは物事に執着しない娘だった。

 そんな彼女の姿勢に多くの女性徒たちは好感を抱いてくれているようだった。土曜や日曜には、クラスが違うのに遠くから遊びに来てくれる友達もいた。すみれは、こと勉強に関しては全く無口だったが、外での遊びは天才だった。

 舟戸川に沿った家なら、どの家にもある泥舟が、すみれの家にもあった。それに皆を乗せて湖へ漕いでゆき、あまりきれいな水とはいえないが、「潜ってごらん」と尻込みする町の子たちに勧めたり、葦やカトギで小屋を造り、その中でカトギの葉で作った笛を上手に鳴らす方法を教えたり、舟を作って流れに浮かべたりして遊んだ。

 その上、父や母までもが皆を可愛がってくれ、父の暇なときなどは、すみれでも躊躇してしまうような沖まで船を漕いでゆき、投網を打って魚を取ってくれたりもした。

 そんなことから、すみれをからかったりしようものなら、口達者な女の子たちがすみれに代わって攻撃してくれるのだった。

 きょうは彼女を守ってくれる仲間のいないところで悪餓鬼の大将格の男の子に掴まり、からかわれたのだ。

「おいすみれ、お前の目玉はどっちを向いているのが本物なんだ。そんなに重い眼鏡を掛けているもんで鼻がぺちゃんこなんだろう。この絵、なんだかわかんねぇだろう」 

 すみれは、不良仲間の大将格であっても別に恐ろしいとも感じていなかったので 「それがどうしたの。厚い眼鏡を掛けていれば迷惑っていうわけ…」

 と言ってやった。

「すみれ、この絵が何だか言ってみろ。そうしりゃ眼鏡を掛けて鼻ぺちゃでも許してやらぁ。おめぇも持っているもんだぜぇ」

 中途半端な声変わりが耳障りだった。すみれは、男の子の持っている下品な絵にも腹を立てていたので、その子の首を掴むと、いきなり投げ飛ばしてやったのだ。

 すみれはクラスでも力のあるほうで、鉄棒にぶらさがっている時間は誰よりも長かったし、腕相撲も負けたことがなかった。いつも親の仕事を手伝ってきた。歯を食い縛って重いものを担いできた。それが知らず知らずのうちに体内に蓄積されていたのだった。

 きっと今ごろは学校で大騒ぎになっているだろう。不良の親分を投げ飛ばした。しかも、逃げもしないで、堂々と帰ってきたのだ。すみれにしてみれば、ごく当たり前のことをしたに過ぎない。皆は大騒ぎをするかもしれないが、彼女は心を高ぶらせる出来事だとは思っていなかった。

 もしかしたら先回りして、すみれを待ち伏せしているかもしれないと考えてみたが、それも彼女を恐れさせるほどの問題ではなかった。

 学校から家までは四キロほどある。町の中を突っきり、田園地帯に足を踏み入れる頃には、学校での出来事など記憶の外にあった。今は早く家に戻り、父や母の手伝いをしなければいけないという思いしかなかった。

 舟戸川の岸までくると、すみれは道を急いだ。家では仕事がいくらでも待っている。乳牛が二頭、乳の出る山羊が二頭、子山羊が三頭、鶏卵用の鶏が二百羽。舟戸川を利用して放し飼いをしている家鴨が十数羽。それに父の猟のために飼っている猟犬が一匹。これらの動物の世話は彼女が行なっていた。

 朝も太陽が顔を出さない前に起きなければ、一日が始まらない。母と弟の庄平が搾っておいた牛乳を、三キロも離れた牛乳の採集所へ運んでいくのがすみれの役だった。

 家の者たちが、それぞれの分担を果たすのが当たり前のように育ってきた。兄も弟も文句を言ったことがない。だから、部落のなかでもすみれの家は豊かな生活を保っていられた。

 本家から少しばかりの田んぼを分けてもらった父は、ハイカラな母と結婚したので、あんなに働くんだと村の人たちに陰口されていた。きっとそのとおりだったかもしれない。でも、すみれは満足していた。どんな形であれ、家の中が笑いに満ちていれば言うことはないと思っていた。

 夏が過ぎ、間もなく刈り入れになる。新宅に出たときは三反歩しかもらえなかった農地も、二十年のあいだに二町歩の田畑と、六反歩の林檎園を手に入れていたのだ。

 忙しいのは当然だった。あまりの忙しさで、母はときどき具合が悪くなることがある。きょうは頭痛がするといって、朝から寝ているはずだった。

 すみれは道を急いだ。ずり落ちてくる眼鏡を押し上げながら、舟戸川に沿った長い道を半ば駆けるようにして歩いていった。舟戸川から家につづく道へ入る手前の土手に、学校へ行くときに繋いでいった山羊が待っているのだ。

 二年ほど前に、ようやく湖までの道が開け、車の往来も増してきていたが、山羊を繋いである場所は、まだまだ田舎そのものが色濃く残っているところだった。

 杭の周りを回ったらしく、短くなった綱をいっぱいに伸ばして、二匹の山羊は草を食べていた。子山羊のほうは、もし野良犬に襲われたら大変なので、家の小屋に入れてある。

 土手の下のカトギや葦の中から水鳥のバンの声がしている。夏のあいだ、青々としていたカトギも先のほうが黄色く枯れはじめている。もう子供も巣立ち、鳥たちも南へ帰っていくだろう。そうなれば、北風が吹き、北の国から鴨や雁の群が飛来してくるだろう。

 すみれは青く広がる空を眺めながら、山羊の綱をしっかり握って家に戻っていった。

 家に帰ると、案の定、母は寝ていた。手拭をきりきり捲いたので頭を縛っている。変な薬を飲むより、こうして寝ているのが一番だと、いつも言っていたが、きょうは辛かったらしく、枕元に薬の空き袋が置かれてあった。

 空き袋が二つと、茶碗のほかに、さまざまな本が積み上げられ、横になって本を読んでいた。

「おえ、母ちゃん、頭の痛いのはどうだぇ」

 家には玄関もあるのだが、すみれは一度も玄関から出入りしたことがない。たぶん、家の者たち誰ひとり玄関を使っていないだろう。南に広がる畑に面した廊下は、さんさんと降り注ぐ太陽の熱気のために、板はめくれ上がっていたし、障子も張り替えたこともないと思われるほど黄色に変色していた。

 すみれは、踏む度にがたぴし音がする板を踏んで家に上がり、奥の部屋を覗き込んで声を掛けたのだ。

「大丈夫よ。母ちゃんにとって頭痛は体を休める絶好のチャンスってもんよ。それに読みたい本だって読めるんだから、頭痛もありがたい病気だわよ」

 母は半身を布団から出し、手に持った本を支えて読んでいた。こんな農家には似合わないネグリジェなんか着ているのが、少し恥ずかしいと、すみれは思ったが、当の本人は、スカーレット色のネグリジェがお気に入りで、もう数年も着ているだろうか。

 母は、ここいらの人がふだん使わない東京の言葉で話すのだが、すみれは、そんな母を、誇らしく感じていた。若い頃は、躾けの厳しい家で働いていたために、母の言葉はとてもきれいだったし、着るものも近所はもとより、町中の人でも振り返るほどお洒落な服装をしていた。

「また本を読んでいるの。母ちゃんは本が好きなんだから…」

 すみれは半ば苦笑ぎみに言って、鞄を置きに自分の部屋へ行った。グラビアばかりが目立つ雑誌くらいなら目をとおすが、文字の並んでいる本を見ただけで、吐き気がしてくる。だから、すみれは一冊としてまともに読み切った本などなかった。

 世間で知られている小説の内容のほとんどは、頭痛がすると言って寝て読んだ母から教えてもらったものばかりだった。夏目漱石や森鴎外を好んで読む母は、真面目くさった顔をしてページを繰っていく。それが不思議で仕方ないと思ったものだ。

 それに、最近になって察したことだが、母が寝るときは父と喧嘩をしたときか、それとも本当に頭痛がしているが、寝るほどでもないときだと知った。なぜなら、本当に頭痛がして顔を顰めているときは、枕元を通っただけで、眉間に皺を寄せて呻くのが常だったからだ。

 部屋へ入ろうとするすみれの背を追うように

「すみれ、鞄を置いたらちょっと来てちょうだい」

 と、母の声がした。

「うん」

 すみれは咄嗟に身を固くした。別に叱られることではないが、きっと中学を出たあとのことを切り出すのだろうと、直感したのだ。

 夏休みが済んだ頃から話題に出るようになったすみれの進路のことだろう。視力もないし、勉強など義務教育だから仕方なしに行っていたようなもので、高校へ行く気はさらさらなかった。

―― わたしは家で百姓をしていればいいんだから。力もあるし…。 ――

 すみれは、自分より数センチも背の高い男の子を投げ飛ばしてきた光景を思い出して、くすりと笑った。それに、百姓をするくらいの視力ならこれで充分だとも思っていた。

 すみれは机の前に座ってぐずぐずしていた。母に呼ばれていることくらい承知していたが、どうせ就職のことに決まっていると思ったので、自分の心を固めてから母のところへ行かないと、自分の意思とは無関係な方向へ追いやられてもつまらないと考えていた。

「あと半年か。自分の進路は自分の意思で決めたいもんね」

 すみれは、壁に掛かっているカレンダーを見上げて呟いた。

「高校は行かない。就職もしない。家にいて百姓をする」

 すみれは声に出して言ってみた。この答えが一番自分の将来にふさわしい道だと考えていた。百姓なら今ある視力で充分だし、小さな頃から親を手伝ってきたので、よく慣れている。対象物が大きいし、動かない。

―― そうなんだ。農業などは、対象物は決して動かないから、わたしみたいな視力でも出来るんだ。 ――

 すみれは今、自分が思いついたことに胸を踊らせた。

「動かないものか。目が見えないから動かないものがふさわしいばかりじゃない。わたしには動かないものが必要なんだ。見えなくても自分を支えてくれるもの。生活であれ、精神の面であれ」

 すみれは心を決めた。たった今、思いついた事柄かもしれないが、ずっと昔から心のどこかにくすぶっていたもののように思えた。

 すみれは大きく息を吸い込み、ゆっくり立ち上がった。何か自分が急に違うものになったような気分だった。頭や肩から、いつも湯気のようなエネルギーが発散しているようだったが、ゆっくり立ち上がった自分の全身から、今まで感じたことのないゆとりのような光線が漂い出ているような気がした。

 今、自分の身体に太陽の光が差せば、きっと虹のようなものがゆらゆら立ち昇っているのではないかとさえ思った。その七色の光は、一見したところ、ゆらゆら動いているように見えても、実際は全くの静止状態なのだ。

 すみれは、突如として自分を包含してきた精神に一種の恍惚のようなものを感じた。母が毎朝、仏壇にお茶を供え、般若心経を唱えているのを聞く度に、すみれは笑っていた。しかし、今は、たとえ母が般若心経を唱えようとも笑わないでいられると確信していた。

 決して崇高な心になったとは思っていないが、心の底なのか、脳裏の中のある一部分でなのか見当もつかなかったが、自分を支えてくれるものを見つけ出せたような気がした。

 それは、まるで消えてしまうほど小さな火種のようだったし、太陽の光を受け、風に吹かれて薄れていく虹のようでもあったかもしれない。しかし、この瞬間において、陽炎のような頼りない心魂だったが、ある種の波動となってすみれを捕らえていた。

 五月になれば林檎の花が咲き、風に吹かれて散っていく。そうして、秋には甘い実を結んでくれる。それと同じように、自分が自然のなかで呼吸をし、自然のなかで働くのもおなじことのように思えた。

「これなんだ。いつも母ちゃんが言っていた悟りというのは…。この状態でなら母ちゃんに言い負かされないで済むかも…」

 すみれは無闇に嬉しくなった。目の前が明るく見えるようだった。訳もなく大きな声で、

「ありがとう!」

 と、叫びたい心境だった。

 母は寝床の上に座っていた。さっきまで読んでいた本が背表紙を上に向けて畳に置かれていた。すみれには何の本か見えなかった。見えないが別に寂しいとも思わなかった。

 この感情も今の今まで存在していないものだった。自分以外の者に見えていながら、自分には何も見えないことをどれほど寂しく思ったかしれない。その度に、笑ってきたが、内心では寂しさを噛み締めていたのだ。

 開き直ったわけではない。自分の定めを素直に受けることを知ったのだ。見えないものは見えない。知らないものは知らない。それで良いのではないかという思いが、すみれの心を占有していた。

 今になってすみれは男子生徒を投げ飛ばしてきた喜びが偽りのものであったことに深く気づいた。あのとき、相手に掴み掛かっていったのは、相手の言動に挑発されてのことだったに違いない。日頃から、自分の心のどこかに強く意識するものがあって、それを引き出されたためだったのではないかと悟った。

 厚い眼鏡を掛けていようが、左の目と右の目が違う方向を向いていようが構うはずがないではないか。

 隣のクラスの生徒にからかわれ、身体を熱くした裏には、自分自身でも、そんな自分を疎ましく思っていたからで、もし、母の言うような悟りを会得していたなら、笑って帰ってきたはずだ。

「すみれ、何だか嬉しそうだね。何か良いことでもあったの?」

―― さすが母ちゃんの目は確かだ。 ――

 すみれは心の中でそう思ったが、今は心に兆した感覚を口にしないでおこうと 「何か用事でもあるの? 頭が痛むんなら薬を持ってきてやるよ」

 と言って、空の茶碗を取り上げ、台所につづく障子に手を掛けた。

「頭痛は楽になったよ。それより、すみれの将来のことが気になってね…」

―― やはりそうか。でもわたしは決心したんだ。迷わない。母ちゃんの夢を壊すつもりじゃないけれど、見えないものは見えないし、知らないものは知らない。出来ないものは出来ないのだ。 ――

 すみれは、立ったままで聞いていたが、母の思いつめた声音に、台所へ行くのをやめて、こたつに足を入れた。

 母は町に一軒、それも小さくてもいいから温泉のある家を買い、そこですみれと店でも開いて暮らすことを考えていた。ところが、すみれは細かな商品を扱ったり、計算をしたりするのが大の苦手だったので、最初から気が進まないでいた。

「商品のことは母ちゃんがやるから心配することないわよ」と母は言っている。

 しかし、母がいつまでも元気でいるのなら、それでも構わないだろう。どう考えてみても、母のほうが自分より先に死ぬことは当然だ。そうなったときに自分はどうすればいいのか路頭に迷ってしまうではないか。

 むろん、父だって生きちゃいない。たとえ生きていたにしても、父は文字を書いたり読んだりするのが、わたしより苦手なんだ。

 すみれは、母が何と言おうとも百姓をして生計を立てていくことを主張する覚悟を決め、こたつの中だったが、膝を揃えて座り直した。

「母ちゃん、わたし考えたけど、やっぱ百姓で生きていく。それが一番わたしに合っているように思えるんだ」

 すみれは、姿勢を正した母の豊かな胸から目を反らして言った。

「そう言うと思っていた。でもねぇすみれ、百姓は一人じゃできないのよ。そりゃぁ、すみれが結婚できればの話にしたほうがいいと思うけど。それより、一人で生きていく道を捜すべきじゃないかしら…」

「うぅ!」

 すみれは、今の今、心に固く決心した思いが、地震でぐらぐら揺れるように、頼りなく揺れ動くのを感じた。結婚のことを言われるとは夢にも思っていなかった。だいたい自分自身でも結婚など想念になかった。

 考えてみれば母の言うとおりだ。百姓をするにしても兄ちゃんの手伝いだ。やがて兄ちゃんも結婚する。そんなとき、自分のような障害者が家にいたら嫁に来る者もいないかもしれないのだ。

 すみれは思いもよらない伏兵に先を阻まれた兵士のように、ただ呆然と母の顔を眺め入った。

―― さっき感じた悟りのようなものは何だったのだろうか。大自然を相手に生きていくと考えたとたん、すごく気分が晴れ晴れしたと思ったのに…。 ――

 すみれは唾をごくりと飲み込み、母の次の言葉を待った。

「だからねぇすみれ、さんざん考えたんだけど。すみれは手先が器用だろう。それでねぇ、もしよかったら洋裁を覚えたらどうだろうかと思ったんだよ」

 母は、目をぱちぱちさせているすみれの顔を掬い上げるように見つめて言った。

「洋裁…」

 すみれは、曖昧な声音で鸚鵡返しに言った。

 授業のなかで、家庭科は男女が別れて行なうのだが、男子は木工を、女子は裁縫をするのだ。すみれは宿題に出されたスカートや飾りもないブラウスを母にほとんどやってもらったことを思い出して

「そんなの駄目だわ。わたしが不器用なことくらい知っているくせに、どうしてそんなことを言うだ…。それに、わたしがミシンの糸を針に通せないことだって知ってるし、普通の針にだって糸が通らないでいるのを見ていたじゃん」

 すみれは、本当に自分は何も出来ない人間なんだと、改めて自覚させられる思いだった。こんなみじめな自分が、これから先、どうやって生きていけばいいのか考えただけで頭の中が真っ白になりそうだった。

「大丈夫よすみれ。母ちゃんはミシンが得意だから。洋裁なら年を取ってもできるもんね。すみれと二人で町で暮らすことを考えているんだよ。だから朝も早くから起きて仕事に精を出してきたんだもの。ここは父ちゃんや兄ちゃんがやっていくからね。すみれは母ちゃんと暮らせばいい」

 勿論、母と暮らせることは嬉しいに決まっている。でも、洋裁のことを考えると、すみれは心を締めつけられる思いだった。だが、頭のどこかで

―― どうにかなるかもしれない。百姓と違い、丈夫じゃない母ちゃんにも合っているかもしれない。 ――

 と、すみれは母の笑顔を頼もしい思いで眺めた。

 結局すみれは母の考えに従うことにした。百姓は一人じゃできないと言われたことと、母は洋裁が得意だという、いかにもうまそうな餌に誘われてしまったことが、すみれの心を動かす結果となった。

 そう決まると、すみれの心は解放され、今まで以上にのびのびと、あとの半年を暮らすことにした。

 さっき、勉強机の前で感じた爽やかな心魂はどこへ行ってしまったろう、と頭の隅を掠めたが、いつものすみれらしく、たちまち母の提案に思いを寄せてしまった。





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