森亜人《もり・あじん》
三
二月から三月ともなると、クラスの皆は受験のために目を血走らせ、仲の良かった友達でも、進む学校が同じだと、相手が是非とも受験に失敗してくれることを願うようになるらしい。
すみれは、母と担任の先生と一緒に見にいった職業訓練所へ入ることが決まっていたので、日頃もそうであったが、なおのこと、のんびりした日々を送っていた。
広い松林の中に建てられた古い訓練所は、すみれの心を引いた。ローカル線の長い旅が終わるころ、自分が想像していたものよりずっと馴染み易い建物が待っていてくれた。
一月の末だったが、そこでは梅の花の蕾が膨らみかけていた。何もかもが新鮮だったし、すみれの心を捕らえた唯一のものは、広い松林だった。
もしかしたら、狭い屋並の立ち並ぶ一角とか、高いビルの陰に、半ば傾いた建物があることを想像していたので、車が松林の中へ入っていったときには、すみれは思わず歓声を上げたくらいだった。
その思いは母も同様だった。すみれの歓声と同じくらいな声を発し、
「諏訪よりずっと良いみたいね」
と言ったのだ。
きっと、母は母なりに自分のことを心配していてくれたのだと、何となく奥歯が痒く感じた。
すみれは、水のきれいな川に沿って走るローカル線に乗り換えてから、初めのうちは駅を数えていたが、途中でわからなくなってしまった。小さな駅がつづき、人の乗降もないところへも停まったりもした。
沿線の風景にも少し飽きたころ、やっとかなり大きな町に到着し、そこで二十分も停車していると聞いて、車内から外へ出てみた。古いローカル線を走る電車は、外から見ると、どことなくうす汚れていて、あちらこちらに傷があり、すみれを少し不安にさせもした。
「やっと半分というものかねぇ」
いつの間に出てきたのか、母が声を掛けてきた。
「やっと半分…」
すみれは驚いて聞き返した。考えてみれば、こんなに乗ってもまだ長野県の中だ。いつになったら愛知県に入るのだろうと、冬の空を見上げた。諏訪と違い、空が随分と高く、そして明るくもあった。
それから約二時間、電車は目的の駅に着き、車で訓練所を訪ねたのだ。旅が長かった分、すみれを迎えてくれた訓練所の周囲の景色は、全て彼女を満足させてくれた。
そんなわけで、すみれにとっての三学期のほとんどは遊びのようなものだった。母が頭痛で寝ていた日に感じた悟りのような感覚は、その後もすみれを包んでくれることがあり、そんなときには紙片に詩を書きつけたり、絵を描いたりした。
特に、絵の素養は母譲りだと、母は絵を見て大喜びだった。だが、すみれは、母はそう言うけれど、むしろ父譲りだと思っていた。
すみれの描く絵は、ほとんどが写生だった。好きな林檎や、家で飼っている動物の絵を好んで描いた。牛が牧場で草を食んでいるところの絵など、母がどうしても展覧会に出品すると言って、すみれと喧嘩をしたくらいだった。
詩のほうもまんざらでもなさそうだと、母は、彼女の作った詩を何回も読み直し、観客に聞かせでもするような口調で詩を朗読した。
ところが、その母のお気に入りの詩を、たまたま国語の授業で出された宿題に提出した。すみれは内心で、先生も驚いて褒めてくれると密かに思っていた。
残念なことに、すみれの夢は無残にも踏み躙られてしまった。つまり、先生は疑ったのだ。すみれにこんな詩が作れるはずがない。誰かの詩を写したのだろう。そうでなけりゃ、誰かに書いてもらったのだろう、と言ったのだ。
すみれは腹を立て、先生の見ている前で、自分も母も気に入っている詩をずたずたに切り裂いてしまった。厚い眼鏡の奥から先生の顔を見ながら、細かく切り裂いた。
星
タレントが舞台の星なら
星は夜空のタレント
タレントは輝きを求める
だけれど星は違う
輝くときを知っている
わたしはそんな星が大好き!
この詩を書いたときの精神状態は、何もかもが爽やかで、自分なりに自分を必要としてくれる場所のあることを信じていた。詩が戻ってきたころには、それほど自信を持っているとも思えなかったが、詩を書いたのは確かに自分であり、誰に教えてもらったわけでもなかった。
すみれは、学校での一件を母に話さなかった。母に言ったりしたら、血相を変えて学校へ乗り込んでいくに決まっていると知っていたからだ。母だけでも自分の詩がわかってくれたことで満足していた。
というより、放課後になり、下校時間がきたころには腹を立てたことなど、すっかり忘れてしまっていたのだ。だから、家に帰ったときには念頭になかったというわけだった。
ところが、すみれの詩の理解者は母だけではなかった。仲よしの桂子もそうだった。すみれがこたつに尻まで潜ってテレビを見ているところへ桂子が飛び込んでくるなり
「すみれさん、わたし腹が立ってしようがないもんで…」
と、息を弾ませながら入ってきた。
「何しただ?」
すみれは、こたつから首だけ上げて、息を弾ませて立ったままでいる桂子を見上げた。
桂子の言うように、彼女が急いで走ってきたことが、彼女の様子を見てわかった。赤いジャンバーの前は開きっ放し。おまけに、ジーパンのファスナーまでも開きっ放しだった。すみれは人差し指でくるくるさせてやった。
「国語のペコよ」
桂子は、よほど興奮しているのか、すみれがジーパンの前を指で示していることにも気づかず、じれったそうな声を上げた。声ばかりでなく、体でも苛立ちを表わしたので、ぱっくり開いているジーパンの内側から、真っ白な下着が顔を覗かせた。
「桂子さん…」
すみれは起き上がると、まだ立ったまま自分を睨みつけている桂子の下腹部をつついてやった。
「やだぁ!」
桂子は頓狂な声を発し、両手で前を覆いながら、その場に座り込んだ。
桂子がすっ頓狂な声を上げたので、こたつの向かい側で編み物をしていた母がちらと顔を上げた。
「あらあら! 桂子さんもそんなことをするのね。すみれがするんならわかるけど。よかったね、すみれ…」
「いやだぁ! おばさん…。見ちゃったの。わたし、この恰好で自転車を飛ばしてきたのよ。どうしよう。もう家に帰れない」
桂子は真っ赤な頬を押さえた。寒風に吹かれたばかりではなく、すみれの家までの道程を思い出して、何の目的でやってきたか忘れたほどの狼狽ぶりに、ただおろおろしていた。すみれが訥々と慰めてやらなければ、しばらくは平常心に戻れなかったかもしれない。
「それで何だって? えと、そうそう、ペコがどうしたっちゅうだ?」
不二家のキャンディーの箱に描かれているペコちゃんの顔に似ているところから名づけた国語の教師のニックネームだったが、すみれはペコちゃんが可哀そうだと、つねづね思っていた。
「だってすみれさん、国語の時間にあんなこと言われて腹が立たないだ」
桂子の精神の変わり身も早い。ジーパンのファスナーを上げてしまい、すみれと並んでこたつに足を入れると、もう消え入りそうに意気消沈していたのが、一変し、すみれの家に飛び込んできたときの勢いを取り戻して言った。
実際は授業時間に先生の言ったのは、
「本当にすみれさんの作品かしらと思われるほどの出来栄えですね」
と言っただけだった。
すみれは、その言い方にむっときたので、職員室へ行って文句を言った。そのときに
「国語の成績が悪いからといって、点数稼ぎのつもりかもしれないけれど、人の作った作品を提出するなんてあんたらしくないわ」
と言われ、そこで詩を書いた紙を引き裂いたのだった。
まさか桂子がそのことを知っているとも思えなかったが、あまり語気が鋭かったので、内心、すみれは驚いて口も利けないでいた。二人の様子を見ていた母が
「桂子さん、その腹を立てるって何のことなの?」
と、口を挟んできた。
すみれは慌てて
「何でもない。それより母ちゃん、桂子さんに温かい甘酒でも出してやって」
と、すみれにしては珍しいほどの回転で、その場の雰囲気を変えるつもりで言った。
「桂子さん、もう忘れちゃったから言わないでぇ。母ちゃんに知れたら学校へ乗り込んでいっちゃうもん」
すみれは、母が台所へ立っていったのを見送ってから、声を低めて言った。桂子も消えた母の後ろ姿に目をやって
「ほんとだね。すみれさんのお母さんに知られたら大変よね」
と、これも小声で言って、何を思い出したのか、くっくと笑った。
そんなこんなしているうちに、三月も半ばを過ぎ、卒業式も間近になった。クラスは、すみれを除いた全てが高校へ進学することになっていたが、入試の発表を明日に控えているため、どの人の顔も緊張していた。
他のクラスにも中学を出たあと就職する者はいるにはいたが、すみれ同様、クラスに一人いるかいないかという数だったので、すみれは仕方なく、緊張している同級生の中に入って、彼女一人、いつもの笑顔を周囲に振り撒いていた。
その屈託のない笑顔は、彼女自身、何の意識もなかったが、周囲の者たちに一種の安らぎを与えていた。入試の発表を待つという重苦しい空気が何日もつづくなかで、授業中、ふと顔を上げると、にこにこ笑って窓の外に広がる冬空に目をやっているすみれの姿が目に映る。すると、何となく緊張が緩み、誰もがほっと息を吐くのだった。
すみれは無事に中学を卒業した。三月も末近く、訓練所へ入所するため、母に伴われて出掛けていった。その折、桂子が駅頭まで見送ってくれたが、目的の高校へ入学できたというだけで、どことなく立派になったように、すみれには見えた。
プラットホームに立って手を振っている桂子の姿が遠くなるにつれ、すみれの心からも桂子の思い出も遠く離れていった。自分は高校へも行けないという負い目ではない。住む世界が違うという感覚だった。
そのことを寂しいと感じない自分の精神は、他の人と違っていると思わないでもなかったが、白いハンカチで目を押さえている桂子を見ても、すみれは笑っているだけで、涙など出てきそうもなかった。
「すみれはさっぱりしているねぇ」
と、電車がトップスピードに達した頃、窓の外の景色を眺めていた母が、ある種の感慨をもって、ぼそりと言ったときも、すみれは、
―― 母ちゃんの言うとおりかも。 ――
と、思っただけだった。
訓練所を囲む松林は、すみれの町では考えられないほど、春が跳びはねていた。
「母ちゃん、ここならわたしやっていけるかもしれない」
すみれは、後方へ走り去っていく景色を、タクシーの中から目で追っていたが、浮かない横顔を向けている母の耳に口を寄せて言った。
父に車で駅まで送ってもらい、電車に乗ったときは感じなかったが、田園風景が飽きるほどつづくローカル線に乗換えてから、何となく母の口は重くなっていた。きっと、遠くの訓練所へ送り出すのが心配なのだろうと、すみれは思い、それで母を安心させるつもりもあって言ったのだった。
松葉の一本一本の針に斜光がきらめいている。名も知らない花も咲いている。ひっそりとうずくまるように訓練所は林の奥に建っていた。タクシーから降りたすみれの耳に、所内から若々しい女の子たちの声が、すみれの心を引き上げるようにこぼれてきた。
母も電車やタクシーの中で見せていた顔ではなく、いつもすみれに向ける笑顔に戻って
「本当にすみれには合うかもね…」と、さっきタクシーの中で言ったすみれの言葉に応えるように、大きく頷きながら、木の梢を見上げて言った。
タクシーの音を聞きつけたのか、所内から人が出てきた。父と同じ年くらいの男の人だった。一月の末に来た折、所内を案内したり、いろいろ説明をしてくれた所長さんだった。その後ろから事務を受け持っている所長さんの奥さんもエプロンで手を拭きながら、大きな声ですみれたちを迎えてくれた。
奥さんの声に誘われたように、今まで笑い声を立てていたのがぴたりと止み、二階の窓が開いて、幾つもの顔が覗いた。そのなかの一人が
「あれえ! 一月に来た人よ」
と言うなり、顔が引っ込み、どたどたという騒々しい音と共に、階段を駆け降りてくる音が玄関先に立つすみれのところまで響いてきた。
すみれは、こうして皆に歓迎されて入所し、共に入所した数名の人と、一日も早く訓練所に馴れるよう、彼女なりに頑張っていく決心をした。
訓練生は全部で三十人ほどいた。どの人も身体のどこかに障害を持つ人ばかりで、男の子は数人しかいなかった。あとは女の子だった。義足の人、義手の人。股関節脱臼で、かなり足を引いて歩く者もいた。それぞれ障害を持っている者たちばかりだったが、すみれのように、視力の乏しい人は誰もいなかった。
すみれの部屋は八人部屋で、窓は西に向いていて、やけに細長い部屋のように思えた。先輩が五人、共に入所した二人と寝食を共にすることになった。どの人も近在の中学を出てきた子たちで、すみれが一番遠方だった。
一週間がたちまち過ぎた。
すみれは松林の中をうつむいて歩いていた。あれほど輝いていた訓練所での生活の全てが、たった一週間の寝食で、暗い淵に陥ってしまった。これからの二年間をどう暮らしていけばいいのかと考えただけで、すみれは目に映るもの全てがくすんで見えるのだった。
訓練所へ来て二日目から勉強が始まった。母が作ってくれた裁縫箱の中に、真新しい道具が納められている。そのなかから針と糸を取り出し、まず目処に糸を通すことから、二年間の洋裁訓練が始まったのだ。
他の人は、瞬きを一つするくらいで針に糸を通してしまうのに、すみれは数えきれないほど瞬きをしても針に糸は通らなかった。
途中で目が霞み、針の穴が二つも三つも見えてしまい、どれが本当の穴かわからなくなってしまうのだ。それに、白い布には白い糸で縫うため、自分が真っ直ぐ縫っているのかさえ見えなかった。
しかも、作業場は薄暗いため、すみれは窓際に寄って針を目に近づけ、何回もやり直し、やっと糸が通るのだった。そんな頃には、他の人たちは二段階も三段階も先に進んでいる。それが毎日の積み重ねなので、たちまちすみれは皆からおいてきぼりにされてしまった。
今も目が霞んでしまい、木々を通して差し込んでくる午後の日差しを部屋の隅でぼんやり眺めていた。見かねた先生に散歩を勧められ、すみれは外へ出てきたのだった。
あれほど希望で胸を膨らませてやってきたというのに。それが多かった分、落胆も大きく、底のない沼に沈んでいくような感覚だった。
すみれは、自分がこれほど見えないと思っていなかった。考えてみれば、縫物などほとんど母に任せてきた。学校の家庭科の授業で出された宿題もほとんど母に作ってもらってきた。その罰が、今、自分に下ったのだ。
と考えたものの、林の中へ出てくると、今まで心も重く、明日への希望も亡くしたような気分だったのが、歩いているうちに、どこかへ飛んでいってしまった。すみれは小声で歌をうたい出した。やがて、その声は林を縫って遠くまで渡っていった。
〈林檎の花びらが風に散ったよな 月夜に月夜にそっと〉
林檎の木の上で声を張り上げていた小学校の頃を思い出して、すみれは心いくまでうたいつづけた。小節も途中で切ることもなく、息のつづくかぎりうたった。
舟戸川に沿う林檎畑にもうららかな春の陽光が映えているだろう。すみれは洋裁のことも忘れて日が踊っている林を歩きつづけた。
糸が針の穴に通らなくても、真っ直ぐ縫えなくても構わない。悲しいことがあれば、辛いことがあれば、その時々で処理していけばいいと思うことにした。たった一週間しか経っていないが、悲しくなったり、辛くなったりしたら、こうして林に出てくれば心も晴れると知って、すみれは救われる気分だった。
林を歩きながらうたったときは心も晴れたが、やはり訓練所に戻って裁縫台に向かうと、たちまち壁にぶち当たってしまい、すみれの心は再び暗く沈んでしまうのだった。
手の遅いことなどちっとも悔しいと思わなかった。ただ、針の穴に糸を通すという単純な作業が出来ない自分に腹立たしさを覚えるのだった。
すみれの毎日は、視力の乏しさからくる仕事の困難さと、林へ逃れ出ていっての気分転換の繰り返しだった。薄暗い部屋での苛立ち。高く広がる青空の下での爽快感。何もかも忘れて眠る夜と、きょうもまた始まるのかという朝の目覚めの繰り返しが一ヶ月つづき、すみれは連休を家で過ごすべく戻っていった。
湖の上に虹が掛かっていた。大きく濃い虹がアーチを描いていた。ローカル線から本線に乗換えたときは、走る電車の窓を激しく叩いていた雨滴も、すみれの降りる町に近づいた頃には雨も上がり、電車の窓から虹をくっきり見ることができた。
駅には兄ちゃんが迎えにきていた。真新しいナナハンに跨いだ兄ちゃんの小鼻がぴくぴく動いている。すみれに何か言ってもらいたい顔だ。すみれは、何か言ってやらなければと思ったが、訓練所での生活が引きずっていて、口を利く気にもなれず、黙ったまま後ろの席に乗って、頑丈な兄ちゃんの腰にしっかり掴まった。
舟戸川の土手を跳びはねてナナハンは走っていく。葦も土手の上まで伸びてきていたし、林檎の花も咲いていた。どこを見ても見慣れた景色のはずなのに、すみれの目に映る景色は今までと少し違っていた。どこがどう違うというわけでもなかったが、すみれの目に入る景色に今までのような鮮明さがなかった。
ナナハンの爆音が家に近づくと、父が冬のあいだ猟に行くときに供をして、兎や、鴨や、ときには猪を追い出してくれるポインターのチルが大きな声で吠えていた。
その声に合わせてか、それとも、部落中に響くナナハンの音に驚いてのことかわからないが、鶏も一斉に鳴き立てた。それは、恰もすみれにとって、自分を歓迎しているように、耳の奥へ染み込んできた。
おしゃべりのすみれが駅を出てから家に着くまで、ほとんど口を利かないことに、兄ちゃんは困惑したような顔をしていた。すみれは頭を軽く下げ、スーツケースを手に下げて家に入っていった。
家の中は誰もいないと承知していたが、一ヶ月ぶりに遠い訓練所から帰ってきたのだから、母くらいはいてくれてもと思わないでもなかった。しかし、家の状態を知っているだけに、すみれは早速家に上がった。
部屋の柱時計が五つ打っている。六時を過ぎないと、父も母も畑から戻ってこないだろう。庄平も遊びに行ったとみえ、どこにも姿がなかった。部屋を通り越して台所へ行くと、そこに祖母ちゃんがいた。
「おいすみれ、帰ってきたかい。ご苦労さん」
祖母ちゃんは前かけで手を拭きながら曲がった腰を伸ばせるだけ伸ばし、すみれのほうに向き直って言った。
「母ちゃんは…」
すみれは知っていてもそう聞かないではいられない気分だった。一分でもいい。とにかく母に会いたかった。きっと母の顔を見れば、沈んでいきそうな心を上に引っ張り上げてくれるような気がした。
「もうすぐ帰ってくるわね。すみれが帰ってきたら知らせることになっているから。庄平が走っていったで、すぐ母ちゃんは戻ってくるら…」
祖母ちゃんは、すみれの上から下まで見て
「すみれは少し大きくなっつら。訓練所のお飯は口に合うかえ。きょうは祖母ちゃんが料理してやるでな」
と言って背を向けると、鍋から勢いよく吹き上げている湯気の中へ顔を突っ込むように屈み込んだ。
その夜、すみれは誰よりも先に寝てしまった。家に帰ってきたとたん、全身の力が抜け、目を開けていようと思っても、無意識に瞼が下がってしまうのだ。母は訓練所での生活の様子を手紙で知っていたが、直接すみれの口から聞きたいようだったが、父に言われて、すみれを解放してくれたのだった。
翌朝、すみれが何かの気配を感じて目を覚ますと、父と母の顔が並んで、じっと自分を見おろしていた。
「何しただぁ」
すみれは目をこすりながら半身を起こした。
「あれっ! すみれ、体が動くの?」
母が、周りの者が驚いてしまうような高い声でそう言いながら、すみれの肩の下に手を差し入れてきた。
「どうしてぇ」
すみれは、母のすることが何だかわからないまま、布団の外へ出た。そのときになって、自分の着ているのがパジャマでなく、浴衣になっていることに気づいた。それに、寝るときは、家にいたときにいつも掛けていた花柄の布団ではなく、母の布団を掛けていたことにも驚いた。
すみれは目をぱちぱちさせて
「これどうしただぁ」
と、まだ心配そうに覗き込んでいる母に聞いた。
「すみれ、あんたは何も覚えていないの? 本当に何も…」
母は狐に抓まれたように、父と顔を見合わせていた。
寡黙な父も母に負けないほど驚いた顔をしていた。
「何があっただぁ。わたし何かしただぁ?」
父も母も黙ってすみれを見つめるばかりで、何も言わなかった。それで、すみれがしつこく母の膝を揺すって尋ねると、やっと母は
「すみれ立ってごらん。ちゃんと立てるか見せてちょうだい」
と言って、すみれの脇の下へ手を入れて立たせようとした。
すみれは、母の言うままに勢いよく立ち上がり、部屋を歩いてみせた。
父たちを驚かせ、心配もさせた事柄は、すみれの預かり知らぬことばかりだった。
すみれは、母と並んで寝ていたのだが、夜中に急に跳ね起き、意味も不明な言葉を早口でまくしたてたかと思うと、ばたりと布団の中へ倒れ込み、止めどなく排尿をしつづけたのだそうだ。
「やだぁ。そんなことするはずないじゃん。おしっこの出ることくらいわかるわね」
すみれは恥ずかしいというより、母の話が馬鹿ばかしく思えた。十五歳にもなって、寝小便をするなんて、人に話したら笑われる。それより庄平の耳に入りでもしたら何を言われるか、わかったものじゃない。すみれは真顔になって
「母ちゃん、本当に本当…。庄平も知ってるだぁ」
母は首を横に振った。すみれは安心して、今度は、そのときの様子を面白い話でも聞くような気分になって母に尋ねた。
「とにかくどこも悪いんじゃなくてよかったわ。父ちゃんが救急車を呼んだほうがいいと言ってね、それでも苦しい様子もないし、すぐ死ぬほどの病気とも思えなかったから、明日まで待とうということになったのよ」
話を聞いているうちに、すみれは少し心配になってきて
「それで、パジャマや布団はどうしただぁ?」
と、聞いてみた。
「裏のクルミの木の下の垣根に掛けておいたよ」
「庄平に見つかったらどうするだぁ」
すみれは庄平に見つかったときのことを思うと、じっとしていられなくなり、慌てて部屋を飛び出した。そうして、自分の無意識のうちに書き込んだ地図を見にサンダルをつっ掛けて裏へ出ていった。
たった一週間の休みは瞬くうちに終わった。休みに向かう帰りの電車の中で、あれもしよう。あの人にも会おうと、指を折りながら楽しみにして帰ってきたのに、帰ってみれば、日はたちまち過ぎてゆき、訓練所へ帰らなければいけない日になってしまった。
それでも桂子の家に一泊。桂子がすみれの家に一泊してくれたことは、計画のうちにあった唯一の楽しみだったので、すみれは満足して訓練所へ戻っていった。
母は、すみれにあんなことがあったので、一緒に行くと言ってくれたが、すみれは大丈夫と、駅へ送ってくれてもまだ心配そうな顔をしている母に手を振って電車に乗り込んだのだった。
訓練所へ戻ってみると、他の生徒は近いところに住んでいるため、明日の朝でも間に合うため、誰も戻っていなかった。すみれは広い部屋の隅に一人ぽつねんと座り、これから夏休みまで続く洋裁の勉強のことを思っていた。
依然として針の穴に糸を通すのに五分も掛かるし、縫物をしても真っ直ぐ縫えたことは一度もなかった。一つのものを作るためにどれだけやり直さねばならないか数えられないほどだった。白い布地など、手垢がついて、黒くなってしまったりもした。
そんなことを思い出しているうちに、すみれ自身も予期しないような思いが心の奥から浮上してきて、みるみる姿を整えたかと思うと、それは母への憎しみに彩られたものになった。
訓練所へ入所してひと月しか経っていない。自分は、ごく簡単なブラウスも丁度に縫い上げていない。同期に入所した子などは、ミシンを踏んでスカートや、ひらひらのついたブラウスも完成させていた。人を羨むことはなかったが、不甲斐ない自分の視力が悔しくてたまらなかった。
回りの人が可哀そうに思ってか、すみれの知らない間に、針山に刺してある針を白と黒の糸に通しておいてくれた。嬉しくないわけではなかったが、そうされれば自分の不出来を見せつけられたようで、すみれは内心で自分に腹を立てた。
自分に対する苛立ちを人に見せたら自分に負けだと思うので、周囲の親切がすみれを暗いトンネルへ追い込んでも、誰もそれに気づく者はいなかった。
すみれは胸苦しさを覚え、押し入れから布団を引っ張り出し、部屋の隅に伸ばすと、頭から布団を被って寝てしまった。
暗い布団の中で目を開いていると、郷里のことが浮かんでは消え、消えては浮かんできた。懐かしい同級生の顔、三日前に泊まってくれた桂子の顔。それらのことを思い出していると、次第に涙が瞼を押し上げ、ほろほろとこぼれ落ちてきた。
「母ちゃんの馬鹿! わたしなんか生まなけりゃよかったに…」
すみれが母に対して、こんな気持ちになったのは初めてだった。視力のない事実をこれほど辛く考えたこともなかった。時々、小学校や中学で嫌な思いにさせられることもあったが、十分も経たないうちにきれいさっぱり忘れてしまえた。しかし、訓練所での生活は、すみれの心を縛りつけ、両親への恨みにまで自分を押し下げてくるのだった。
さんざん母に毒づいているうちに疲れが出て、いつの間にか眠ってしまった。所長の奥さんの声で目覚めるまで、すみれは深い眠りのなかにすっぽりと沈み込んでいた。それが彼女をいつものすみれに戻してくれたらしく、布団を蹴って飛び起きると、夕食を食べるために階下へ駆けおりていった。
すみれの生活は、晴れたり曇ったりの毎日だった。夏を過ぎ、秋を過ぎた頃、突然、思いもよらないときに母がやってきて、訓練所での生活に終止符が打たれた。
すみれの知らないところで、訓練所と家とのあいだで話し合いがあったのだ。入所する頃は、すみれの視力も〇,〇八くらいあったのが、母が迎えに来たときには、十分の一に落ちていたのだった。
すみれは、自分の視力の落ちたことなど全く気づかないでいた。たぶん、それに気づいたのは訓練生を指導している先生だったろう。来たときから針に糸も通せなかったので、別断、それが夏になっても秋になっても、春と変わらず、糸が通らないのは当たり前だぐらいにしか考えていなかったのだ。