森亜人《もり・あじん》
四
刈り入れも終わり、湖を渡る風に冬を感じさせる十一月下旬、すみれは家に戻ってきた。敗北感に苛まれ、萎縮した心を抱いたまま、いったい自分に出来るものとは何であるのか、その糸口さえ見つけ出せない姿で家に戻ってきたのだ。
帰る電車の中でも、家に戻ってからも、すみれは誰とも口を利きたくなかったので、奥の部屋に閉じ籠もっていることのほうが多かった。桂子に会えば気も晴れると母に言われたが、すみれは、そう言ってくれる母を下から睨んだだけで何も言わなかった。今、最も会いたくないのが桂子だと母は理解していないんだと思っただけで、すみれは母に悪口を浴びせたいくらいだった。
風呂で母が婦人会の忘年会にうたうために、新しく覚えたブルーライト横浜の歌をうたっているのを聞いても、すみれは前のように、
「そこは違うのに」
とか、
「半音も狂ってる」
などと言ってやる気にもなれなかった。それでもたまには
〈 町の明りがとてもきれいね横浜 〉
と、大きな声でうたうのを聞いて
―― あんなふうに平らにうたったら歌が死んじゃうのに。 ――
と、自分でも小声でうたってしまうこともあった。
そんな自分のふるまいに気づくと、首を激しく振って、
「わたしには関係ないじゃん。馬鹿みたい」
と、耳を傾けてしまった自分に腹を立てて布団の中へ潜り込んでしまうのだった。
十二月に入った穏やかな日、すみれは不承不承、本当に気乗りのしないまま、母と一緒に町にある公衆浴場へ出掛けていった。
その風呂は、子供の頃から、町へ買物に出てくる度に利用していた。近所に数人の従業員を抱えているマッサージ屋があり、そこの従業員たちも一緒になることがあった。その日も三人の目の不自由な人が入っていた。
脱衣場にしゃがんで手探りに篭を捜し、脱ぐはじからきちんと畳んで篭に入れていく。すみれは彼女たちの様子を感慨深く眺めていた。母は渋い顔をして、いつも使う箱ではなく、マッサージさんたちから一番遠くへ行って着ているものを脱いでいた。
すみれは子供の頃にも感じたが、きょうも母に人を差別するような態度を見せつけられ、胸の奥が激しく疼いた。
―― 自分の娘だって目が悪いくせに。 ――
すみれは、三人のなかでも少し見えるらしい人の腕や肩に掴まって浴室へ入っていく二人の後姿を悲しい気分で見送っていた。
見るかぎり、彼女たちは、自分たちが盲人であることを意識している様子など微塵も感じさせなかったし、他に入っている者たちより明るく話をしていた。そんな彼女たちに哀れみとも、蔑みともつかぬ視線を走らせる人たちに対し、すみれは腹立たしさを覚え、母が何か言っているのを尻目に、さっさと風呂から上がってしまった。
家まで二キロ以上もあるだろう。すみれは母を待たずに外へ出た。
―― あの人たちのどこがいけないんだ。ただ目が悪いだけじゃない。それなのに…。母ちゃんは絶対におかしい。目の悪くなるのは罰だと言っていたが、それじゃあ、このわたしも何かの罰で見えなくなってきたことになる。そんなのは変だ。 ――
すみれは人間なんか信じられないと思った。自分や、あの人たちが幸せな気持ちで信じられるものが欲しかった。母は仏さまだと言っている。そうかもしれない。でも、あの訳もわからない念仏を聞いて、本当に信じられるのかと、すみれは母の心を疑わずにはいられなかった。
―― もし、目が見えなくなることが運命なら従わなくっちゃ。そこにはそこで生きていける道があるはず。そうでなけりゃ、あの人たちの生きていく場所がないじゃない。 ――
「マッサージか…」
すみれは口の中ではっきり言ってみた。スマートな名のように思えた。あの人たちは誰にも迷惑を掛けないで生きている。自分にも出来る仕事かもしれない。どうすればマッサージの仕事を身につけられるのだろう。すみれは、上川の土手を寒風に頬を赤く染めながら考え考え歩いていった。
すみれは少し離れたところから盲学校の建物を眺めていた。古く、あちらこちらが腐り掛けている建物だった。近々、校舎を建て直すと聞いていたが、これでも充分だとすみれは思った。
しかし、母は二階建の校舎を見上げながら、「こんなところで勉強するなんて、ちょっぴりすみれが可哀そうになる」と言っていた。
話しながら狭い校庭を横切り、寄宿舎へつづく道を、すみれは母と肩を並べて歩いていった。先に立って案内している先生が
「ここから寄宿舎で、南寮・中寮・管理棟・北寮になっていて、南寮には中学以上の女子生徒が寄宿し、中寮は小学部の男女。そして管理棟は食堂・男女の浴室・洗濯場・事務室などがあり、北寮は高等部の男子寮になっていましてな」と説明してくれた。
今は冬休みになっているため、校舎も寄宿舎もひっそりとしていて、心細い思いになりそうだった。すみれは、荒涼とした冬景色一色に彩られた風景を眺めながら、ここが自分にとって新たに踏み出す場所になるかもしれないと考えていた。
訓練所のときと少し違う感覚が心に住まっていた。あのときは中学を卒業し、何もかも新鮮だった。だが、今は挫折した傷を嘗めているところだ。もしかしたら再び挫折するかもしれないという不安を抱えての下見だった。
部屋は七室で、どの部屋も南に向いていた。各室とも十二畳で、広い廊下がつづき、北側には掃除道具を納めてあるロッカーが洗面所に挟まるように続いていた。どの部屋もきちんと整頓されていた。
部屋の真ん中に、大きな電気こたつが置かれている。きっと生徒たちは、こたつに手足を入れ、将来のこと、学校であったこと、先生の噂などを楽しく、話し込んだりするのだろうと、すみれは想像してみた。
障子の所々に丸い穴が空いているのは、間違って指を突っ込んでしまったのかもしれない。壁側に沿って造りつけの机や、その上の壁に何段もの本棚があるが、どの部屋の棚にも分厚い本が並べられていた。
すみれは近づいていって、本の背表紙に書かれた文字を読んでみた。『解剖学、生理学、病理学』などといった本が並んでいる。なかには、普通の文字で書かれた本も何冊か目に入った。
母も並んで見ていたが、
「まるでお医者さまと同じだねぇ」
と、感心したように言った。
すみれは、銭湯で楽しく話していたあの人たちもこの学校で医学を学んだのかと思うと、なんだか彼女たちが身近な人のように感じてきた。
寄宿舎をひととおり見て回ったすみれたちは、改めて学校のほうへ行き、中を見学させてもらった。
外側から眺めた校舎に入ると、時に触れ、手を入れているらしく、ペンキの新しいところと、すっかり剥げ落ちた部分とが、妙に生き生きと目に映った。
教室の反対側の窓の下に、適度な間隔を置いて楕円形の小さな金属製の板が釘で止められていた。すみれは指先で触れてみた。蚕の卵のようなものが浮き出ている。これが点字というものだろう。これを指先で読めるなんて素晴らしいと思った。
すみれが点字に触れているのを見た先生が、「点字ですよ。廊下の端から端までのメートルを一メートルおきに貼りつけてあるんです」と教えてくれた。そう言われてよく見れば、確かに一メートルおきに金属製の板が打ち込まれていた。
職員室といっても、すみれが通っていた中学の教室くらいなもので、教室ともなれば、更に狭く、どの教室にも机が数脚くらいしかなかった。階下は小学部の教室で、黒板もなかった。二階には、それでも形ばかりの黒板があり、すみれの部落の公民館に据えられた黒板より粗末なものだった。
「こんなところで本当に勉強ができるのかしらねぇ」
学校をあとにした二人が、校門脇に停めておいた母ご自慢の車に戻ってきたとき、母は心配そうな声で言った。
「大丈夫さ。訓練所のときと違うみたいだから…」
すみれは、訓練所と盲学校とどこがどう違うか説明できそうもなかったが、銭湯で一緒になるマッサージさんの姿を思い出すと、自分でも今度は挫折しないでやっていけそうな気分になるのだった。