森亜人《もり・あじん》
利典
利典は積み上げた藁の山から首だけ出して、物珍しそうに辺りを見回していた。
刈り取った稲を天日で乾燥させるために使う長い棒が、寝転んでいる利典の頭の先に打ち込まれたままになっていた。その棒杭の先端に、百舌が一羽、鋭い眼光を利典に向けていた。
うず高く積み上げられた藁の山の後ろは、農具を納めておく小屋だった。防腐剤も色褪せ、ところどころ腐りかけた板壁に、子供の書いたらしい落書きが、そこだけまぶしく見えた。
小屋の左右に、胡桃の木と、唐橘の木が植えられてあった。胡桃の木は、農家の母屋へとつづき、唐橘の木は、屋敷と田んぼとを分けていた。胡桃の木には、既に収穫したのか、実は一つもついていなかった。唐橘の枝の先には、百舌のハヤニエが、秋の陽に鈍い光沢を見せていた。
利典は、藁の中で思いきり手足を伸ばしてみた。体の中に澱んでいた血液が、膠着しきっている手足の隅々まで勢いよく流れ出していくように思えた。
空を見上げると、真っ白な雲が風に飛ばされ、小屋の陰へと消えていくところだった。
利典は、自分の体と魂が雲の流れ去った青空に吸い込まれていくように思えた。そうして、大きく円を描いている鳶と並んで、自分までもが旋回するのではないかと、思わず藁のひと束を握り締めた。
鳶は、渦の中心に吸い込まれるように円を狭めながら徐々に下ってきた。そうして、首を前に倒したかと思うと、いきなり真っ逆さまに、地上目掛けて落下してきた。利典は慌てて頭を持ち上げ、鳶の行方を目で追った。
遠くでかすかに水音がしたように思った。利典は持ち上げた頭をゆっくり回した。すると、落下したはずの鳶が、ゆったりと空に浮かんでいるのが見えた。利典の目にも見届けられるくらいの魚が、鋭い爪にかけられているのも見ることができた。
鳶は、羽音も聞こえるくらいの低空を掠め、小屋の陰へと消えてしまった。利典は、自分の視界を塞いでいる小屋の向こうに、神秘さを感じた。白い雲も鳶も小屋の向こうに飛んでいった。小屋の向こうに何があるのか知りたいという思いがないではなかったが、それ以上に今の利典には気力というものが失われていた。
再び、利典は藁の中へ潜り込んだ。自分の体温で暖められた藁の中は、何にも代えられないほど、彼を幸福にしてくれた。彼は頭上に広がる青い空をぼんやり見ていたが、突然身を起こして辺りを見回した。
―― いったいここはどこだ。 ――
利典は、晩秋の太陽が頭上に昇ってきている下で、なかなかはっきりしてこない自分の記憶の糸口を求めるように首を振った。古くて粗末な小屋といい、胡桃の木といい、田んぼの先に見えている林檎畑といい、それは利典にとって何もかも初めて見る風景だった。
利典は、汚れた手の甲で目をこすりながら、どうして自分がこんなところにいるのかを、彼なりに考えてみた。
「おいら、たしか、ゆんべ」
と、利典は額に皺を寄せて思い出そうとした。
利典は、昨夜まで隣り町の在にある農家にいた。彼は、そこで田んぼの後始末や、まき割りをしていた。きょうと違って、きのうはみぞれ混じりの寒い日だった。かじかむ手に息を吹きかけながらまきを割っていた。そこへ遊びから戻った農家の息子が利典を一瞥して言った。
「おいリッスウ、てめえ、こればっかりの薪、まだ割ってねぇんか」
農家の息子は鼻汁を袖口で横なぐると、利典に唾を吐きかけた。利典は、泣きそうな顔をして、顔にかかった唾をおずおずと拭きながら
「だ・だ・だって、お・お・おいら、寒くって」
と、熱い息を赤黒い手に吹きかけた。
「へん。父ちゃんに言ってやっからな。また飯、半分しか食わしてもらえねぇぞ」
農家の息子はそう言って、土間に駆け込んでいき、
「父ちゃん、父ちゃん、リッスウは薪を割らずに遊んでるぞ」
と呼び立てていた。
利典は、
「また飯、半分しか食わしてもらえねぇぞ」
と驚かされたことが腹に応えたのか、残っているまきの束に突進していった。そして、口の中で
「お飯を腹いっぺぇ食いてぇ」
と呟いていた。
その日の夕飯は、利典の腹からすれば、本当に半分だった。
夜更けて、利典はそっと農家を抜け出した。鉞と掛け鞄を一つぶらさげて山を下っていった。川を何本か渡り、鉄道線路も渡った。足の向くまま、くたびれはてるまで歩きつづけた。そうして、一番鳥がときを告げる頃、藁の山を見つけて潜り込んだのだった。
利典は、
「もういいよ」
という女の子の声に夢想から覚め、慌てて藁の中に身を沈めた。小屋の後ろから足音がして、いきなり藁の中へ子供が飛び込んできた。女の子は、利典の固い体に頭をぶつけ、きゃっと言って藁の中から顔を出した。
利典は、逃げ出そうとする女の子の肩を優しく押さえ、おかっぱ頭をゆっくり撫でてやりながら
「怖くないよ。ほら、鬼さんがこっちへくるよ」
と言ってやった。
女の子は、それでも顔を強張らせて利典の目を覗き込んでいたが、大人とは思えない、どこか自分たちに共通する何かを利典の瞳の色から感じ取ったらしく、安心したのか、利典の脇にすっぽりと潜り込んできた。
利典は、ほっとため息を吐き、遠くの空を見た。視線を遮るように、雪を頂いた峰が、晩秋の陽を弾き返していた。利典は、女の子が鬼に見つからないように、藁を万遍なく彼女の体にかけてやった。
自分の脇の下に小さく丸まっている女の子の体温が、利典には甘酸っぱい過去の思い出として心に忍び入り、彼を感傷的な気分にさせた。
遠くで、
「さっちゃん見いっけ。きみちゃん見いっけ」
という声がしていたが、やがて、草履のぺたぺたという音がして、目と口の大きな女の子が小屋の角から顔だけ覗かせた。利典の目と合うと、女の子は、『あっ!』と言う口の形を作って、すぐ顔を引っ込めて走り去っていった。
「鬼さん向こうに行ったよ」
利典は、藁の中で息をころしている女の子に小声で呼びかけた。しかし、左腕は女の子の体をしっかり抱いていた。利典は、体の深い部分から燃え上がってくるものを感じた。久しく忘れていた感覚だった。利典は、腕の中の女の子をどうにかしようなどと思ってもいなかった。
突然自分を襲った欲情に戸惑っていたのだ。人に罵られたり、途方に暮れたりしたとき、必ず見せる、べそかきの表情になっていた。女の子をいすくめることも、解き放つこともできないで、ただおろおろしていた。
「ふみちゃぁん。ふみちゃぁん。もうみんなめっかったよ。早く出ておいでぇ」
三、四人の子供たちが声をそろえて呼んでいた。利典は息を大きく吐いた。女の子を抱いている腕から力を抜くと、それまで利典の脇に潜っていた女の子が、藁くずだらけのおかっぱ頭を持ち上げ
「わたしここぉ」
と、高く澄んだ声を張り上げた。頭をのけ反らしたとき、白い喉が利典に、『何もなくてよかった』と思わせた。
小屋の向こうに息をころした囁き声がしたかと思うと、女の子の名を呼ぶ声が、さっきより大きくなって利典のところまで聞こえてきた。女の子は、利典の脇の下からするりと抜け出すと、にっこり笑いかけて小屋の向こうへ駆けていった。真っ白なセーターの背に藁くずをたくさん付けて駆けていった。
利典は、女の子の潜っていたあたりを触ってみた。ほんの少ししか潜っていなかったのに、そこは何ともいえないほどほかほかしていた。ほんとなら、晩秋の晴れわたったなかでは、心の底まで暖かくなるようなぬくもりだったが、今の利典には鼻の奥がつんとする淋しさとして感じられた。
「いっちまったのか」
利典は、女の子が本当に行ってしまったのかと、藁の山の奥まで手を突っ込んでみた。彼はもう一度
「ほんとにいっちまったのか」
と言って、その手をズボンの中へ滑り込ませた。頭の上を百舌が甲高い鳴き声を残して唐橘の木に飛んでいった。利典は両足を突っ張らせて目を閉じた。兆してくる感覚のなかで、百舌に似た女の嘲笑と、それにつづく、雪のようにまぶしい女を思い出していた。