利典 第2回


森亜人《もり・あじん》



 上野や新宿駅界隈には、数は減ったものの、かなりの浮浪者が集まってきて、あちらに三人、こちらに五人といったように屯していた。

 空爆の巷で受けたのか、それとも焼け跡から拾ってきたのか、焼け焦げだらけの背嚢を背負ったまま横になっている者。風呂敷包を首にぶらさげている者。靴磨きの道具を膝の上に乗せ、ぼんやり人の流れを見ている者。ごみを払おうと振ったら崩れてしまいそうな莚を後生大事に抱えている者。そういう種々雑多な連中が屯していた。

 誰も彼もがきょうを生きるために目玉を動かし、口を動かし、手足を動かしていた。細々と生命の火を絶やさぬように、生き長らえている者たちだった。

 頭髪と、髭が絡み合い、一晩の仮寝のあいだにノミやシラミの巣になってもさほど不潔とも思わなくなっている連中だった。哀れっぽい声でもの乞いをしたり、田舎に帰る人の荷物をくすねたりして彼らは生きていた。

 東京大空襲から数えて三年目の昭和二三年一月二六日の夕暮れだった。この二、三日、空はどんより曇り、骨の髄まで寒さを滲み込ませる冷たい雨が、ときおり強くなったり、目を凝らさなければ見えないほどになったりしながら降りつづいていた。それもきょうにはついに雪になった。

 利典は半月ほど前から新宿の浮浪者と一緒にいた。四、五人の仲間に混ざって町のごみ箱をあさったり、裕福そうな家の勝手口でもの乞いをしたりしていた。彼らは、新宿界隈に住む乞食たちの中でも賢いとは言えなかった。その中で、利典は体に似合わず臆病で、皆の後に小さくなって歩いているような青年だった。

 この三年間というもの、よく生きてきたとしか思われない利典の毎日だった。仲間の連中は、面倒な用事は全て利典にやらせた。たとい辛いことでも利典は黙って従ってきた。

 食い物の分け前も利典が一番最後だった。それでも利典は何も不満を言わなかった。言わないというより、言い出す勇気がないといったほうが正しかった。仲間の誰かが捨てた煙草の吸い殻を大事にポケットに仕舞い、それをこっそり建物の陰へいってうまそうに吸っているような利典だった。

 二六日の朝、きのうの夜、もらい集めた黴だらけの餅を利典は焼いていたが、うっかり野良犬に取られてしまった。仲間の一人が腹を立て、利典の頬を三つ四つ殴った。利典はいつものべそかきの表情になって男に謝ったが、男は許してくれず分け前ももらえなかった。利典は、空腹を抱えて悄然と新宿をあとにした。

 雪が降っていた。細かな雪が、利典の痩せた肩にうっすらと積もっているのにも気づかないのか、利典は顔の向いたほうへ歩きつづけていた。空腹と寒さに歯の根も合わず、利典は朦朧とした感覚で、いつしか椎名町を歩いていた。以前、行ったことのある寺へいけば、粥を食べさせてくれるかもしれないという期待だけで、利典は歩いていたのだ。

 四つ辻を曲がろうとしたとき、危うく前からきた制服の巡査とぶつかりそうになった。巡査は、利典の風体を一別して読み取り

「きさまは…いや、君の名前は?」

 戦時中の癖がいまもって抜けないらしく、四十がらみの顎の張った巡査は、胸を反らせて言った。

 利典は、新宿で受けた仲間からの疎外感を引きずって、やっとここまできた。彼は、巡査の一瞥に、すっかり怯えてしまい、つねでも吃るところへ、横柄な巡査の態度に

「お・お・おいら…」

 と、体を激しく震わせて自分の名を言おうとした。

「もうよい。あっちへ行け」

巡査は利典を遮って、通りの反対側を顎でしゃくってみせ、二歩三歩、利典の体を押すようにして足を進めたが、何か思い出したのか

「おい、背広姿で白いマスクをした四四、五、六の男を見なかったか」

 と聞いた。巡査は、利典から耳寄りな話など期待していないらしく、それだけ言うと、さっさと椎名町の駅のほうへ去っていった。

 利典は、自分が歩いてきたほうへ去っていく巡査の背に、弱々しく首を横に振った。

 たとい、人とすれちがったにせよ、ひもじさと寒さに、頭の芯までしびれ切っている利典には、それが男であっても女であっても、見分けられるほど彼の意識は確かなものでなかった。

 利典は、巡査が顎でしゃくって示してくれた通りへ入っていった。

 彼は立っていることもやっとだった。利典の脇を人々がざわめいて走り去っていく。町全体がどよめいているようだった。人の流れはすべて駅に向かっていたが、利典は、そのことに何の疑問も感じなかった。金剛院へ行きさえすれば、腹を満たしてくれる粥と、一夜の宿を得られるだろうという考えしかなく、鼻水を垂らして歩いていた。

 利典は目の前に赤いものを見ると、両手を広げてすがりついていった。

「なにするんだい。この瘋癲!」

 利典は、女の罵声に突き飛ばされたように、濡れた道路に腰から落ちた。実際は、女が利典を突き飛ばしたのだが、利典には胸を突かれた感覚より、女の甲高い声に突き倒されたように思えた。

「あたいは、あんたみたいなやつを客に取らないよ。見損なわないでおくれ。そんなところに座り込んでりゃ商売の邪魔だよ。さあ、あっちへお行きよ」

 女は汚い物でもどかすように、靴の先で利典の腰を蹴った。そこへアメリカ兵が口笛を吹きながらやってきた。女は利典の体を飛び越してアメリカ兵の腕に飛びつき

「ヘーイミスター、ラヴミー」

 女は、背の高いアメリカ兵の首ったまに両手をかけて甘えるように言った。

 アメリカ兵は軽々と女を抱き上げ

「ヘーイ、マイベイビー」と言って、大袈裟なキッスをした。

 二人は縺れ合いながら路地の暗闇に入っていった。女の甲高い笑い声が、取り残された利典を嘲笑しているように、縺れ合う靴音と一緒に路地の奥へ遠ざかっていった。

 胡桃の木に飛んだ百舌が、再び甲高い鳴き声を残して小屋の向こうへ飛んでいった。利典は、ぶるっと身を震わせた。あの日の寒さとひもじさは、今も思い出せるものだった。

 利典は崩れかけた板塀に背をもたせて荒い息をついていた。通りは森閑としていた。屋並はあるものの、人の気配もしない。女・子供は、夕方になると家に閉じ籠っていた。外にいる女は商売女くらいなものだった。進駐軍に掴まり、強姦されるという風評が、真しやかに囁かれていたため、妻や若い娘たちは夕方には誰もが家に閉じ籠っていたのだ。

 利典は、風に飛ばされる雪のひとひらひとひらに目を当てていた。それぞれに表情があり、利典を哀れんでいるものもあれば、路地の奥へ消えていった女のように、彼の愚かさを笑っているものもあった。塊になって舞い落ちてくる雪が、うまそうな握り飯に見え、利典は思わず手を伸ばしてそれを掴もうと試みたが、彼の手に握られたものは何もなく、野良犬が奪っていった餅となって視界から消えてしまった。

 またひとしきり雪の量が増した。降る雪の中に母が立って自分を見おろしていた。彼女の唇が動いていた。

「可哀そうねあんたも…」

 利典は、死んだはずの母に会えることなど考えてもいなかったので、口も利けないで自分に差し出された母の手をぼんやり見つめていた。

「あんた、おなかすいているのね。あたいのところへおいで。と言っても、満足のいくほど食べさせて上げられないけど…」

 利典は、自分の前にしゃがんで、じっと顔を覗き込んでいる人をまじまじと見つめた。化粧もしていない若い女だった。母ではない。妹でもない。今まで見たことのない女が、利典の前にしゃがんで何か言っている。

―― そうだ。おいらのかあさんは死んだんだ。こんなところにいるはずがない。それじゃぁ、この人は誰なんだ。 ――

 女は、利典の手を抱えるようにして彼を立ち上がらせると、さっきの女とアメリカ兵が入っていった路地とは反対の路地へ彼を導いていった。

 女は路地に入ると利典の手を離し、ちょっと振り返って利典にほほえみかけてから先に立った。体を横にしなければ通れないほど狭い路地だった。利典は、ややもすれば、折れてしまう膝に力を込めて白い姿を追った。今の利典には、前を行く姿は、自分の命を預けた天使と同じだった。

 先を行く女は暗闇でも慣れているらしく、戸惑う様子もなく奥へ進んでいった。両側は白壁のため、闇の中でも辺りはぼんやりほの白かった。利典は、先を行く女が、自分の手のとどかないところへ去っていくように思え、がくがくする膝に力を込めて両側の壁に身を預けるようにして進んでいった。

 利典が案内されたところは、世辞にも家とはいえそうもなかった。路地の奥まったところが幾分開いていて、両側の崩れた壁に板を押しつけ、どこからか拾ってきたトタン板を乗せただけのもので、利典の家にあった物置小屋より粗末な小屋だった。

 女は、建てつけの悪い板戸を引くと、振り返りもせずに入っていった。闇の中に動く気配があって、小屋の中に黄色い光がゆらゆらと立ち昇った。

 利典は女に手招かれるまま小屋に入った。小屋の中は三畳くらいの広さだった。隅に藁のはみ出した落下傘の生地で作った寝床があり、古ぼけた毛布がきちんと畳まれて置いてあった。蜜柑箱のような木箱が三つ重ねてあり、その上に蝋燭がともっていた。

 不安そうに戸口に立っている利典を振り返った女は、利典の手を取って藁床に座らせた。木箱の横木を軽く揺すると、板が床に滑り落ちた。中に食器や食べ物が入っていた。女は、壊れた焜炉の灰を掻き、炭火をおこし、凸凹の鍋を火にかけた。そうして、手桶から水を鍋に注ぎ、湯を沸かしはじめた。そのあいだ、女は何もしゃべらなかった。

 利典は、藁床に座って女のすることを見ていた。無言でいても女の背中からは、今まで利典に示してきた多くの人たちのような刺々しいものは感じられなかった。

 湯が沸くと、女は脱脂粉乳の入った缶を取り出し、縁の欠けた湯呑み茶碗に粉と湯を注いで、静かに掻きまわしはじめた。

 やがて女の手元から利典の空腹を刺激する匂いが立ち昇ってきた。女は、コッペパンと、湯気の立つ茶碗を利典の前に差し出して、路地の入口で振り返ったときと同じようなほほえみを浮かべて小さく頷いてみせた。

 利典は、床に置かれた皿を押し頂くように取り上げると、パンの香りがまだ充分に含まれているコッペパンを掴んで口に放り込んだ。

「お・お・おまえ、く・く・くわんのか?」

 利典はみくちほど食べて初めて気づいたように女をじっと見つめて言った。

 女は壁にもたれて両膝を抱えていた。利典の問いに、女はにっこりと笑ってみせただけで、何も言わなかった。利典は、夢中でパンとミルクを口に放り込みつづけた。昨夜から何も口にしていなかったので、食べ終えても自分は物を食べていたという実感が湧いてこないくらいだった。それでも目の前に座っている女のほほえみを見ると、腹の奥で恥ずかしいほどの音を立てている虫を両手で抑えつけるようにして頭を一つ深々と下げた。

「あんた、臭いんだねぇ」

 女は微笑を浮かべたまま唐突に言った。





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