利典 第3回


森亜人《もり・あじん》



 利典は、女の言った意味がわからなかった。手のひらに乗せたパンくずをじっと見つめていると、女は戸惑っている利典の心を察したのか

「裏に井戸があるから体を洗っておいで。あたい、汚い人はきらいだよ」

 と言った。

 言葉は夜の町に立つ女と同じだったが、利典の耳には母親のようなぬくもりとして聞こえていた。彼は、全身を包含してくる母の慕情のような女の声を聞いていた。が突然、そんな思いを払拭してしまうような寒い想像が利典の心を震わせた。

「おいらにパンやミルクをただで食わせてくれるはずはねぇ」

 利典は、胃袋のあたりに手を当て、小屋の中をひとわたり眺めてから、少しおずおずと

「お・お・おいら、か・か・かねなんかも・も・もってないよ」

 知恵さとくない利典にも、目の前に座っている女が、パン代を請求するような女とは思えなかったが、小屋の中の様子の貧しさを見て、咳き込むように言った。

 入口付近の壁に、女には似合いそうもない派手な服が二枚、心細そうに釘に架かっている。くず拾いや、もの乞いをして歩いているとき、夜の淡い灯火が暗い通りに光を落としている中に、壁に架かっているような服を着た女が客待ちしているのを何回も見た。利典は、さっき自分を突き倒した女の姿を、ひっそりほほ笑んでいる女と重ねてみた。

「お・お・おいらさあ、お・お・おねえさんにやるか・か・かねないよ」

 と、さっきと違う想像を胸に浮かべて、更におずおずと言った。

 女は淋しそうな微笑を口元に浮かべただけで何も言わなかった。そうして、手拭いと石鹸をわたして、先に立った。

 女は利典に自分の素性を読まれたことが悲しいのではなかったのかもしれないが、利典には自分の言ったことが女を悲しめたような気がし、先に行く女の後をおずおず従いていった。

 井戸は小屋の裏にあった。つるべ井戸の上には、穴の空いた屋根が傾いて架かっていた。黒く煤けているのは、東京を襲った何回かの爆撃のうちの一つによる跡だろう。井戸の周囲は高い板壁になっているため、たとい、裸になって行水を使っていても人の目を気にする必要はなさそうだった。

 利典は寒さに身を震わせていた。うっすら積もった雪が、塀の上にも土の上にも解けることなく白く残っていた。利典は、女にわたされた手拭いで皮膚が破れるほどこすった。女の甘い体臭が手拭いから立ち昇ってくると、利典は思わず手を止め、大きく鼻孔を膨らませた。それもいつしか利典の垢と共に落ちていった。

 歯の根も合わないほど震えていたのが、いつの間にか全身から湯気が立つほどに、利典の体は燃えていた。すっかり絡み合った頭髪の中へ指を入れ、一本一本、ほつれをほぐしていった。石鹸の泡も立たないほど、頭髪は汚れ切っていたが、丹念に洗っているうちに、次第に頭髪は指に絡まなくなっていった。この前、頭を洗ったのはいつだったか、利典は考えてみたが、全く思い出すことができなかった。

 利典の人生は、大戦を境に狂ってしまっていた。自分でも何が何だかわからないうちに三年という年月が流れていた。死ぬかもしれないと思ったことも何度あったか。それでもきょうまで生きてきた。利典は、死を目の前にしても今まで恐怖を感じたことはない。死ねば父や母のところへ行けるという期待に、進んで死を選んだこともあった。だが、今日まで死ぬこともなく生きてきたのだ。

 利典は背後に人の気配を感じ、濡れた頭をひと振りして振り返った。いつの間に小屋から出てきたのか、女が立っていた。ほんのりともった雪あかりの中に、女は雪女のように立っていた。

 利典は、目に映じた女の白さに胸が高鳴り、思わず井戸の縁に両手をかけて目を閉じてしまった。女は、利典の肩にかけてある手拭いを取ると、彼の背後に身をこごめた。雪あかりの中で、女は黙ったまま利典の背中をこすりはじめた。利典は、後ろに鼻をすする音を聞いて、『寒いのに、おいらの背中なんか』と、彼女に済まなく思った。

 女は泣いていた。今まで泣き声をどのくらい聞いたろうか。利典は、それらの泣き声とは異質の苦痛に似た泣き声として心の温まる思いで聞いていた。

「きれいになったわ。今度わたしが洗うから、あなたは小屋に行っててちょうだい」

 缶詰の空き缶で何杯も利典の背中に水をかけてから、女は優しい声で言った。

 冬のさ中の行水は、たとい井戸水が温かくても冷たいことに変わりがない。しかし、女も利典も冷たさなど忘れていた。ずうっとこの方、人間らしいぬくもりなど感じたことがなかったのに、今宵は本当に自分が人間であることを思い出させてくれる夜だった。

 利典は藁床にあぐらを組んで、女が使っている水の音に耳を済ませていた。狭い井戸端で交替するとき、女の温かい体と密着した感覚が、右腰や太腿に残っていた。黙って背中を洗ってくれた女の手は、寒く雪が積もっている夜だというのに、火のように暑かったことも利典を恍惚とさせていた。あれほど寒さに震えていたのに、今は体が火照っていた。二五歳の情念は、はち切れんばかりに利典を高ぶらせていた。

 利典は己の性器を見おろしていた。いつもズボンの中でしか確かめたことのない生き物を直接自分の目で確かめ、今更のように新鮮さを感じていた。

 板戸の明く音に、利典は顔を上げた。冷気が小屋の中へ入ってきた。木箱の上の蝋燭の炎が大きく揺れた。ジジジという音と共に、小屋の中に再び明るさが戻ると、利典は戸口に立つ女を見つめた。

 女は、右手で洗い上げた黒髪の雫を払っていた。左手は腰に添えられていた。蝋燭の光に女の肌は、まぶしく光っていた。女が髪の毛を払う度に、右の乳房が妖しく上下した。利典の視線は、女の張りのある胸から腹へ、そして黒く光る部分へ移っていった。

 女の裸身に見入っていた利典は、己の足で、しっかり腹に押しつけていた性器が、生命を吹き込まれたもののように躍動しはじめたことで、恥ずかしそうに女から自分の股間に視線を落とした。脈うつように性器がおどると、白い液体が勢いよく吹き上げた。それまで戸の前に立って髪をすいていた女は、利典の兆したさまに、身を投げ出すようにして利典の股間につっ伏した。 

 女は、利典の性器を口に含むと、やわらかい舌先を絡ませてきた。利典は低く唸いて、女の濡れた黒髪を鷲づかみ、感情の差すがままに己を彼女に任せた。女は、利典の激しさに喉を詰まらせたのか、慌てて顔を上げ激しく咳き込んだ。そして、何が可笑しいのか、澄んだ声を立てて小さく笑った。

 利典は恍惚とした気分で女を抱いて寝ていた。

 利典は、何度目かの興奮に身を任せたあと、女の頭を自分の左肩に乗せ、擦り切れた毛布にくるまっていた。

「あなた、きょうの夕方、恐ろしい事件があったのを知っていて?」

 女は、娼婦の使う言葉をやめていた。

 利典は、髭面を女の頬に押しつけ、首を横に動かして、

「知らない」

 と言った。

「帝銀の椎名町支店に東京都の衛生課員の者だといって、銀行の人をみんな毒殺したんですって。さっき、あなたを突き倒した女の人が、どこからか聞いてきて話してくれたの。折角戦争も終わったというのに、嫌なことばかりつづいて、この先、いったいどうなるんでしょうねぇ。わたし、どこか田舎へ行きたいわ。もう東京に住んでるのはたくさんだわ。ねぇ聞いているの?」

 利典は、女の話を波のうねりのように聞いていた。

「わたしね、このあいだまでオンリーだったの。とっても優しい男の人だったわ。あなた、アトランタという町のこと聞いたことあって? 彼は、その町で時計屋をしていたんですって。彼、ひと月ほど前に国へ戻ってしまったの。最初からわかっていたくせに、わたし、そのとき随分と泣いたみたい。死のうとも思ったわ。でも死ねなかったの。勇気がなかったのね。お金、たくさん置いていってくれたけど、乳飲み子を抱いてもの乞いをしている人にほとんど上げちゃったの。わたしって馬鹿なのよね。食べるものも買えなくなって街角に立つようになったの。でも嫌だわ。みんなわたしをおもちゃのように扱うの。ねぇ、聞いているの?」

 女は左手を伸ばして利典の髭を軽く引っ張った。利典は女を抱き締めながら、

「うん、ちゃんと聞いてるよ。君も可哀そうなんだね」

 と言って、女の髪に手を当て、それを指に絡ませた。

「あぁ! 今夜は本当に生きていてよかったと思っているの。あなたもわたしも取り残された人間らしいわね。わたし、ひとりぽっちが淋しいのよ。ねぇ、わたしをどこか遠くの町へ連れてって。二人でいれば寂しくないと思うわ」

「おいらばかなんだよ」 

「そう、あなたもわたしもきっと馬鹿なのよ。上手に生きられない人間なのよ。今は泥棒するか乞食になるかしなければ生きていかれないのよね。あなたもわたしも世間からおいてけぼりをくった人間かもしれないわ。あなたには家族がないの?わたしは独りよ。戦争でみんな死んだわ。兄はパラオ島で玉砕。両親や妹たちはB29が家と一緒に取り上げていったわ。わたしは学徒動員で田舎に行っていたの。それに……」

 女は何かを言おうとして口をつぐんだ。そして、利典にもヒシヒシと感じる寂しいため息を大きく吐いた。

 利典は、女の澱みない話を聞いているうちに、女の声が次第に遠くへ去っていくのを意識したが、今まで味わったことのない安らぎに深い眠りの中へ沈んでいった。

 女は、利典が軽い鼾をかいていることを承知で話しつづけていた。人のぬくもりを全身で感じながら、女は心ゆくまで話していたかった。独りぽっちになってからきょうまで、徐々に欝積してきた淋しみを人のぬくもりの中で語りたかったのだ。たとい、鼾をかいていようが、自分の肌で情を感じられるのなら、それでもよかったのだ。

「あなたは三月十日、どこで何をしていたの? … わたしの家は向島にあったのよ。わたしは越谷に行ってたのよ。越谷って知っていて? … 十二日に向島へ戻ってきたけれど、どこが自分の家だかわからなかったわ。近所の小母さんに教えてもらわなかったらわからずじまいだったと思うの … 十日の大空襲を直接見たわけではないけれど、二日すぎた十二日でもあちこちに焼死体がごろごろしていたわ。言問橋の付近や、明治座では千人以上も焼け死んだそうよ。男の人か女の人かまったくわからないほどひどかったんですって。あなたは疲れているのね。気持ちよさそうに眠っているわ。あの人もどこか遠い島で生きていてくれるかしら」

 女は、自分の口からほろりと出てきた言葉に虚を突かれたように、眠っている利典の顔を覗き込んだ。

「そんなことないけど、この人、あの人にどことなく似ているわ。だから、わたし、この人をここへ連れてきてしまったのかもしれない」





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