利典 第4回


森亜人《もり・あじん》



 利典は、女のぬくもりを糖蜜のように感じながら夢を見ていた。

 利典は小松川橋の中ほどに立って振り返った。耳をつん裂くような爆発音。低く飛んでいくB29。亀井戸の辺りの空が真っ赤だった。橋の上に立っていると、強風に飛ばされそうだった。

 昨夜十時半、空襲警報が発令された。昼すぎから北風が募る一方で、夜になると二十メートル以上にもなっていた。利典の家は、荒川と中川との間にあった。利典自身には理由がわからなかったが、二十二歳になっていても兵役免除だった。

 利典は両親と妹と暮していた。空襲警報も解除となり、利典一家は安心して寝についていた。

 真夜中、利典は尿意をもよおし、便所に立った。便所の窓から外の闇を見ながら放尿していると、目の前に光が走った。と同時に、腹に響く強烈な音がした。それが合図かのように、次々と閃光が走り、大地を震わす音が家を揺すった。

 利典は慌てて

「敵機襲来。敵機襲来」

 と叫びながら、便所から飛び出していった。

 家の者たちもすでに跳ね起きていた。家族の者たちは、互いに言葉を交わしながら国防色の服を身に着け、防空頭巾を被って外へ飛び出した。利典の後ろから父親の声で「防空壕へ行け」と 言っているようだったが、利典は真っ直ぐ走った。

 気の狂った馬のように、利典は防空壕の横を通り越して走りつづけた。そうして、荒川の中ほどまできて、やっと振り返ったのだった。

 紅蓮の炎が生き物のように地を這い、屋根に飛び、広い荒川を一挙に跨ごうとしていた。

 利典は、恐怖のために全身の毛あなが凍りつく思いだった。

 火の勢いは増すばかりだった。利典は再び背を丸めて走り出した。逃げ惑う人にぶつかったり、家から運び出した家具につまづいたりしながら走って走って、とうとう江戸川の堤まで来てしまった。

 利典は堤に立って途方にくれていた。息のつづく限り走っていないと、恐怖に全身がばらばらになってしまうと思っていたので、目の前に広がる江戸川の水を見て、わけもなく涙が出てくるのをどうしようもないまま、人にぶつかられたり、小突かれたりしても、堤の上に仁王のように立っていた。

 夜中だというのに昼間のように周囲は明るかった。利典は呆然と家のある方角を見ていた。燃え盛る火の明りの中で、ときどききらりと光るものが上空をかすめた。B29の編隊が弧をえがいて舞っていた。闇の中から急に現われ、また闇の奥に消えていく。炎の明りの中に姿を現わす度に、火の範囲が広まっていった。

 利典は、阿鼻地獄のような様を朦朧としていく意識の中で眺めていた。

 利典が意識を取り戻したのは十日の昼ちかい頃だった。痛む頭を傾けると、自分と同じように人が寝ていた。反対に首を回してみると、そこにも人が寝ていた。両側に寝ている人は、身動き一つしなかった。利典は目を上げてみた。青空があった。今まで見たこともないような空だった。

 利典は、すぐ近いところで悲鳴を聞いて、慌てて跳ね起きた。

「やぁ! この人は生きている!」

 何人かの者が、驚いたように口を開いて立ち上がってきょろきょろしている利典を見ていた。

「なんだ、生きていたのか」

 消防服を着た男が、白い歯を見せて笑った。それに釣られて周囲の人までもが、きょとんとしている利典を見て笑っていた。

 利典は死体と一緒に置かれていたのだ。二十体ほどの死体が焼け跡に置かれてあった。利典も焼死体として一箇所に集められていたのだった。彼の煤だらけの顔は、焼死体と区別がつかないほどだったのかもしれない。

 利典は小松川に戻ってきた。家に近づくほどに、空襲の激しかったことを知った。荒川を渡り、中川新橋まで来ると、路上にも焼け跡にも人がたくさん倒れていた。川の中にも煤で汚れた顔を上に向けたり、下に向けたりして人が死んでいた。人ばかりでなく、動物の死骸もあった。橋のたもとに人が群がり、大きな動物の肉を切り刻んでいた。利典は、その動物が何であるか確かめる勇気がなかった。腹をすかせた男たちが死骸に群がり、肉を頬張っていた。

 利典は焼け跡に立ち、昨日まで暮していた家の残骸を見ていた。黒い煙がときおり噴き出しているのが辛かった。利典は家族の安否を尋ねまわった。防空壕に逃げ込んだのを見たと聞かされ、そこへ行ってみたが、焼夷弾の直撃で、防空壕は完全に崩れていた。

 利典の行き会う人のほとんどは、どろんとした目を焼け跡に向け、何時間でも地面に座り込んでいた。西の空に陽が沈む頃になってようよう立ち上がる人もいた。立ってみたところでどうしようもなく、また地面にへたり込んでしまう老人もいた。利典もそれらの人と同じように焼け跡に座りつづけていた。


 利典は人の気配で目覚めた。東雲のほの白さが高窓から小屋の中へ流れ落ちていた。

 女が入口のところに立っていた。右手を戸にかけ、左手で長い髪を後ろに掻き上げていた。

「もう朝になったの?」

 利典は半身を起こして尋ねた。女は驚いたらしく、体をぴくっとさせ、上半身をねじむけた。

「まだ寝ていて」

 女は少し甘えるように言った。利典には女の声が、いつも聞き慣れているように思えた。「もう朝になったの」と言ったのも、日頃の習慣のようでもあり、女が甘えた声で、「まだ寝ていて」と言ったのもしごく当然のように馴染んでいた。

「どこへ行く?」

 利典は尋ねた。

「ちょっとね」

「おいら、おしっこにいきたいんだけど」

 利典はそう言って立ち上がった。

 小屋の外の空気は冷え冷えとしていた。息を吐くと白い塊がふわふわと浮いて見えた。狭い路地の上に細長い空があった。半分ほど朽ちかけた屋根に雪が解けないで残っていた。二人は冷気に身を震わせ、互いに顔を見合わせて意味もなくほほ笑んだ。

 両側の塀が終わる辺りに大きく口を開いた壁があった。そこが便所だった。たまたま、爆撃で手洗い場の外壁が崩れていたのだ。女はちょっと利典を振り返り、腰をこごめて一つの穴に入った。利典は隣の穴に入り、昨夜から溜まっていた小便を放出させた。

 すっきりした気分で穴から出ようとしたとき、利典の視野に、向こうむきでしゃがんでいる女の尻が飛び込んできた。恥ずかしいものを見てしまった、という感覚より、美しい白さに利典はまぶしいものを感じた。利典は、自分の鼻の先にある女の尻に見惚れていた。女は気配を感じて、右手を後ろに回し、いやいやをしながら落ち着いた声で

「だめよ、あなた」

と言った。それは咎めているというより、幼い子に言い聞かせている口調だった。

 利典は、一つこっくりをすると、弾かれたように路地を走って小屋に逃げ帰った。いま見た女の白さが瞼の裏にこびりついている。それにしても、何と母の声にそっくりだったろうか。利典は、事あるごとに、母から、 「だめよ利典」

 と、いつも優しく言い含めるように言われてきた。女の口調がそのときの母にそっくりだったのだ。

 死んだ母のことを思い出しているところへ女が戻ってきた。利典は、何も言わず、何も考えないで女の手を取った。女は利典の心を読んでいたのか、彼の横に身を横たえ、利典の頭を抱いた。まるで赤子に添い寝する母のように女は利典を胸に包み込んでくれた。

 利典は女の胸に顔を埋め、乳房を唇で捜し求めた。薬指の先くらいの乳首が口中の中で、生き物のように固くなっていった。利典は前歯で軽く噛み、舌先を絡ませて吸った。母の乳房に取りついているつもりだった利典は昨夜のことを思い出し、赤子ではない己に自分の感情が高揚していくのを知った。

 女は、殊更緩慢に体を動かし、自らの感情を高めようとしているようだった。利典の背中に回した手に力を込め、

「うぅん」

 と言っていたが、身をのけ反らせ、両の腿で利典の躍動する生き物を締めつけて擦り合わせた。

 やがて、女は細く長い笛のような声を上げると、身を硬直させたまま動かなくなってしまった。利典も頂点に達し、女の上に覆い被さって息を激しく吐いていた。しばらく身を硬直させていた女が、大きくふーっと息を吐いて、利典の耳元に、 「うぅん」

 と言って甘えた。

 二人は藁床に並んで寝ていた。高窓から流れ込んでくる朝の光に目を細めていた。互いに何も言わないが、これでいいと思っていた。夕べ初めて会ったばかりだが、天涯孤独となった悲哀を埋め合わせるのに長い時間をかける必要などなかったのだ。これから先、どんな運命が待っているかわからなかったが、昭和二十三年の一月二十七日の朝を、利典も女も忘れることはないだろう。





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