利典 第5回


森亜人《もり・あじん》



 隠れん坊をしていた女の子たちの声がいつしかやんでいた。頭の上にあった太陽もいつの間にか傾いてきていた。

 利典は藁の中に首まで潜り込み、今では過去と課してしまった時の流れを、ある箇所では鮮明に、ある部分ではいずれが時間的に古いものか戸惑いながら逆行していた。

 空腹で道にへたり込んでしまった利典を助けてくれた女は京子と言った。昭和二三年三月十日を新たな日とした。この日を選んだ理由は、互いの悲運がこの日に始まり、この日で終わらせたかったからだ。

 不幸をまねいた三月十日は、二十メートルを超す強風だったが、悲しさをよせ合う二三年三月十日は、風も穏やかな曇り空だった。

 利典と京子は喜多見にある不動明王を祭った小さなほこらの前に立っていた。彼らの取り合わせは一見ちぐはぐなものに見えたであろう。知恵遅れの利典、高い教育を受けてきた京子。戦争がもたらした苦悩と悲哀が二人を結びつけたのかもしれない。

 利典や京子を見舞った戦火の悲惨さは、日本の至る所に見られた。角を一つ曲がれば、敗戦の困苦をなめている人々を見ることができた。至る所に利典がいて、京子がいた。

 このように、彼らを独りぽっちにさせ、また、二人を結びつける原因となった東京大空襲の史実は過去となってしまった。が、人の一生を狂わせてしまう戦争。家も家族も友達も一瞬に奪ってしまった戦火を、利典も京子も忘れることは出来ない。そうであるからこそ、この不釣合いとも思える一組の男女が肩をよせ合い、仲よく生きていかれたのかもしれない。

 利典や京子の家族を一瞬に奪い去った東京大空襲は、八三〇九三名の命を奪った。実算は、十万余とも言われている。このような大被害をもたらした米軍の巨大な力は、南方のサイパン・テニアン・グアムの島々から飛び立ったB29によるものだった。

 東京大空襲史によると、これらの島々から二時間四五分をかけて三三四機が離陸し、うち二九六機(二七九機とも言われている)が攻撃に参加した。焼夷弾・爆弾を全て集めると、一七八三噸(一六六七噸とも言われている)であったという。 これらの攻撃により、二六万七千余軒が灰となった。

 しばらく椎名町の物置小屋に住んでいたが、職を求めながら転々と居を変えていた。そして、数日前、利典の親戚の家を頼って喜多見にやってきたのだった。

 叔母夫婦は、知恵遅れの甥が容姿といい、賢さといい、常人でもなかなか嫁にもらえそうもないような女を連れてきたことで大いに驚きもし、感迎もした。彼らにも利典と同じ年の息子がいるが、南方へ出征していったきり、いまもって帰還していなかった。

 叔母夫婦は、この三年間というもの、生きているはずだという人の噂を信じて利典を捜索してきた

 浅草や上野へも行ってみた。最近になって、新宿で乞食をしていると聞かされ、何回も足を運んで、不浪者たちに尋ね、やっと仲間だったという男たちに巡り会えたと喜んだところ、利典はぷいとどこかへ行ってしまったと言われ、ほとんど諦めはじめていたのだった。

 それが、利典のほうからやってきたのだから、叔母などは嬉しさに一日中、泣き笑いをしていたほどだった。

 年寄りが暮していたという離れを二人のために手を入れ、若い二人に相応しいようにしてもくれた。

 京子は、利典が普通の人のように仕事をこなせないことを理解していた。そういう利典であっても疎ましいと思ったことは一度もなかった。青く澄んだ瞳で、じっと自分を見つめてくれるだけで、京子は満足だった。

 京子は、利典が近所の人たちと話をしているうちに、いつものべそかきの表情になっても、ほほ笑んで彼を見守っていた。無論、恥ずかしいとも思わなかった。彼が京子に助け舟を求めるまで、京子は口を利くようなことはしなかったし、利典に向けられた難しい質問を横どりすることもしなかった。

 彼女の一言で、利典がほっとする表情や、彼女に向けられる澄んだ瞳に、京子は何にも替えられない喜びを感じていた。

 利典たちが彼の叔母の家に落ち着くようになってから喜多見にも本格的な春が巡ってきていた。利典が一箇所にこれほど長く滞在したことは今までになかったことだった。無論、京子にしても同様だった。綿の入った布団に寝ることすら、この三年のあいだ一度たりともなかった。

 京子は喜多見にやってきたばかりの頃は、この家の農作業を手伝っていたが、いつ、どこから知れたのかわからないが、最近では叔母夫婦の口添えもあって、近在の子供たちの勉強を見てやるようになっていた。

 利典は何の仕事をさせても長つづきしなかった。ここが叔母の家だからいいようなものの、他人の家だったなら、とっくに追い出されているところだったろう。鶏の世話、畑の畝作り、山羊の乳搾り。どれ一つ取り上げても満足な仕事は利典に無理のようだった。

 ある夜、利典は京子に幼かった頃の話をした。空襲で家が焼失するまで剣道をやらされていた話だった。京子は、その話を聞きながら、一つのことに思い当たった。

 翌朝、京子は、利典の叔母に、彼の剣道の話をし、薪割りのことを言ってみた。彼の叔母も手を打って、

「どうしてそこに気がつかなかったのかしら。あの子は剣道が強かったのよ」

 と言って、早速鉞を持ってきてくれた。

「利典さん、この薪だけど、割れるかしら?」

 と、少しいたずらっぽく言ってみた。京子は、利典の青い目に光が差してきたことを見逃さなかった。

「こ・こ・こんなのわけないよ」

 と言って、利典は、ひと打ちで薪を割ってしまった。

 京子は、自分の考えが間違っていなかったことで大いに喜び、利典の見事な腕前に心から拍手を送った。叔母も心配そうに利典の手元を見ていたが、こんなに見事な割り方をする者を見たことがないと言って、京子以上に利典を褒めるのだった。

 利典は嬉しかった。もみ上げの長い顔をくしゃくしゃにさせて笑った。自分を見上げている京子の笑窪の中に、丸ごと自分の喜びを埋めてしまいたいほどだった。京子に褒められるなら、京子に喜んでもらえるなら、一日中でも一年中でも同じ作業をしていられると、本気で思った。取り分け、薪割りなら飽きることはないと思った。

 割った薪をいろいろな形に重ねてみたり、物置小屋から母屋まで、鉄道線路のように形よく並べていったりもした。利典の力量からしてみれば、叔母たちが頼んだものなど二時間もあれば片づけることができるはずだったが、利典は決して急ごうとしなかった。

 京子は京子で、農作業をしながらも常に利典のことを気にかけていた。ちょっとした合間を捜しては、利典のところへやってきて、彼を励まし、

「今度くるまでに薪の束を七つ作っておいてね」

 と言うのだった。

 二人が喜多見へ来てから、たちまちふた月が過ぎようとしていた。周囲の雑木林の緑が増すのと争うように、小田急線の沿線に家が新築されていった。と同時に、戦争の傷跡も一つ一つ周囲から消えていった。

 京子は、自分たちに与えられた離れの縁先に立ち、空を仰いでいた。五月の空は見張るかすかぎり晴れわたっていた。屋敷の地つづきに林がある。毎朝、幾種類かの野鳥の囀りが京子を楽しませてくれていた。

 いまも野鳥の声に耳を傾けながら、京子は行く末のことを考えていた。

―― この家は利典の叔母の家だから少々のわがままも聞いてもらえるかもしれない。しかし、それとても限度というものがある。まして、息子さんが帰ってくれば、いつまでも甘えているわけにいくまい。 ――

 利典に生活設計を立てろといっても無理なことくらい、彼女も承知していた。

 京子が真顔でそんなことを考えているところへ利典が起きてきた。

「どうしたの?」

 利典は、いつにない京子の顔色を見て怪訝そうに言った。

「あぁ、利典さん、もう起きてきたの? いまね、わたし魔法を使ってみようかなって考えていたのよ」

 京子は利典を振り仰ぐようにして言った。利典に、自分の心の様を読み取られたのではないかと思い、明るい笑顔を向けた。

 利典は、京子の顔色ひとつで自分の全てが決まると思っていた。自分のような愚かな男は、誰からも見捨てられるものと思っていたので、利典は、常に京子の顔色を窺っていた。学問のある京子が、いつまでも自分などにかかずらっているはずはないと思っていた。

―― 魔法を使って自分の前から消えてしまおうとしているのだろうか。 ――

 利典は、京子の笑顔の中に隠されているものを見つけようと、朝日の中で、まぶしそうに自分を見上げている彼女の目をじっと見つめた。

「どうしたの、利典さん。そんな目でわたしを見ないでちょうだい」

 京子は、縋るような利典の目の奥に、覆い隠せない不安を読み取って、明るく言った。

「わたしの言った魔法ってとても素晴らしいことなのよ。きょうね、利典さんをあっと言わせてあげようと、魔法の言葉を思い出していたのよ」

 京子は利典の両手を取ると、自分の頬に押し当てた。利典が極度に不安がったりしたとき、こうして彼の手を自分の頬に当ててやるか、自分の両手で彼の頬を挟んでやるかした。そうしてやれば、利典の不安は消えてしまうのだった。

「お・お・おいらが、あっというような…」

「そうよ。あとで見せて上げるから腰を抜かさないでちょうだいね」

 京子は、しっかり掴んでいた利典の手を自分の顔の前で合わせ、上から力を込めて押さえてやった。

 太陽が高く上がった頃、京子は、小屋の前の地面に座って、朝から鉞の刃を研いでいた利典を呼んだ。

 利典は、京子に呼ばれると、砥石も鉞も放り出して離れの縁先に飛んできた。京子は、蝋燭の炎でガラスに煤を塗りつけていた。

「利典さん、このガラスを目に当てて太陽を見ててちょうだい。わたし、これからおまじないをかけますからね」

 利典は好奇の目を輝かせて、京子から受け取ったガラスを目に当てた。直射日光など決して肉眼で見ることはできないのに、黒いガラスを通すと、ちっともまぶしくないのだ。

 京子は利典に身を寄せ、口の中で何かつぶやいていた。

「ほんとうだ! 太陽がまぶしくない! すごい! すごい!」

 利典は、煤で黒く塗ったガラスを、目に当てたり、外したりして興奮の声を上げた。

「あら利典さん、魔法はこれからよ。これからもっと素晴らしいことが起こるのよ」

 京子は可笑しみを耐えながら、また口の中でぶつぶつ呟いた。彼女は、こうした子供じみた振る舞いを単純に喜べたし、利典自身も共に喜んでくれた。

 他人が見れば、何とばかげたことを言ったりやったりしているものだと思うだろう。しかし、京子は、自分自身の心の中にある子供っぽい面を、真面目に聞き、真面目に楽しんでくれる利典が好きだった。

 利典は、京子の言うがままに、じっと空を見ていた。どのくらいそうしていたろうか。ガラスの中で燃えていた太陽が輝きを次第に失っていった。利典は、目に見えない怪物が太陽を食ってしまうのではないかと思った。

「もういいよ。わかったよ。はやく魔法をといておくれ。じゃなけりゃ、太陽が死んじまうよ」

 利典はガラスの破片を振りまわしながら京子の周りを狂ったように回っていた。子供の頃、母に聞かされた西洋の魔法使いの話を恐怖のうちに思い出し、京子が恐ろしい顔をした老婆の化けた姿ではないかと、すっかり青ざめてしまった。

 京子の魔法は日食だった。稀にしか見られない金環・皆既日食だった。礼文島を中心にした地域からは、金環食と皆既食の混ざった日食を観測することができた。五月の陽光に照り映えていた彼らの周囲は、夕暮れのようになっていった。

 利典は京子を恐れた。たあいのない京子のいたずらと思わず、暗くなってくる現象の不可思議さに驚く前に、京子を恐れてしまったのだ。

 夕暮れのような中に、利典は立ち尽くしていた。恐ろしいものでも見る風情で京子を見ていた。今まで 彼女に向けられてきた信頼のまなざしではなく、いつものべそかきの表情に、怯えの表情を染め抜いたものだった。

 京子が労りの目を向けても、利典は、いつもの京子の優しさとは受け取っていなかった。自分をたぶらかす魔女の変身だと思った。

 冷静さを取り戻した京子は、全身を小刻みに震わせている利典に近づき、いつものような声音で優しく語りかけた。

「利典さん、心配いらないわよ。あれはね、太陽と地球の間にお月さんが割り込んできただけなの。すぐ明るくなるから安心してね」

「ひ・ひ・ひるに、つ・つ・つきが、出るはずないよ。お・お・おまえは、ま・ま・魔法使いなんだろう?」

 利典は、両手を振って京子を拒んだ。太陽を食ってしまう怪物を自由に操るのは魔女に決まっている。普通の人なら、自分のような人間に優しくしてくれるはずがない。いつか、今度は自分が京子に食べられてしまうに相違ない。自分を食べるために、今まで優しくしてくれていたのだ。

 京子は途方に暮れていた。ちょっとした戯れが、とんでもない結果をまねいてしまった。日食を二人で楽しむどころの騒ぎでなくなったのだ。どうにかして利典の誤解を解かなければならない。京子は太陽の消えてしまった空を見上げ後悔していた。

 利典の蟠りは、京子の根気よさと、五月の明るい空が戻ってきたことで和らげられたものの、京子への疑いは、水の中の澱のように、利典の心に沈み込んでいった。





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