利典 第6回


森亜人《もり・あじん》



 京子は、人のくちコミで得た家庭教師の仕事に力を入れるようになった。いずれ、利典と共にこの家を出ていかねばならないときがくる。そのときのために少しでも収入源を確保しておきたかったのだ。

 日食のときの出来事以来、利典と京子の生活にこれといった影を落とすようなことは何もなかったが、京子を見る利典の目に、ときおり何ともいえない暗いものが掠めるようになっていた。

今朝も、そんな目で京子は送り出され、人からの紹介で行くようになっていた家庭教師の仕事に出かけた。梅雨も近い東京の空は、晴れていてもどことなく重く、林の中は涼しさより湿気でむんむんしていた。

 京子は、道を急ぎながら考えていた。このまま利典とどうやって生きていけばいいだろうか。子供が欲しい。しかし、利典を思うとき、京子には踏み出す勇気がなかった。夜を共にして不満はない。昼の生活と同じように、夜も京子が利典を誘い、コントロールする。決して利典は逆らうようなことはしない。京子の高まるのを無視することもない。全てにおいて利典との行為は充分にエクスタシーを得られていた。だが、女の欲望とでもいえるのだろうか、エクスタシーが満たされれば満たされるほど、子供が欲しくなるのだ。

 京子は淋しい思いを抱いて歩いていた。自分を見つめる利典の目に、あの日以来、違うものを感じるようになっていた。ふっと思い出したように、利典は自分から離れていることがある。そんなとき、利典はべそかきの表情を壁のほうに向けて口を真一文字に結んで、京子が話しかけてもなかなかしゃべろうともしないのだ。

 今朝も

「利典さん、お昼までには帰ってきますからね」

 と言って、利典の目を覗き込むようにして家を出てきたのだが、利典は何も言わないで遠い空を見ていた。その澄んだ瞳に、夏の空が映っていた。

 京子は雑木が織り重なる枝の下をくぐるように小道を急いでいた。汗が額を流れ、胸元を伝ってくる。昨夜の交わりが乳房のほてりで思い出される。利典は何も知らないで京子の望むままに唇を這わせ、舌を滑らせる。京子は、ふと、何の脈絡もなく戦死した恋人のことを思い出した。

 大学時代の友人に紹介されて親しくなった陸軍中尉の青年だった。

「僕は必ず生きて帰ってくる。京子さんもどんなことがあっても諦めずに生きて待っていてください」

 と言って、歓呼の声に送られて出征していった。

 なのに、彼は玉砕したと聞かされた。それが信じられず、どれほど戦争を憎み、約束したはずの彼を恨んだりもしたか。しかし、恋人を失ったことで、いつまでも悲しんでいられなかった。

 東京を襲った大空襲。家族の全てを失ってしまった京子は、待つべき人もいない寂しさや、食べていくための方便として巷の泥に染まっていったのだ。

 林を抜けると、夏の太陽が京子にめまいのようなものを感じさせた。林の中で味わった感傷的な気分も一掃され、利典の待つ離れへ急いだ。

 離れに利典はいなかった。母屋のほうに笑い声が上がっていた。京子が母屋の勝手口に顔を出すと、利典の叔母が泳ぐような仕種をして京子に飛びついてきた。

「息子が、息子が帰ってきたのよ。死んだものと諦めていた息子が元気で帰還したのよ」

 そう言って叔母は京子をひしと抱き締めた。

 早川茂本。これが利典の従兄弟の名だった。年も利典と同じ二十五歳だった。学徒出陣で南方の島で戦っていたという。叔母夫婦から、茂本は、ガダルカナルで戦死したと聞かされた。

 京子は、茂本に挨拶だけすると逃げるように離れへ戻ってきて、畳に伏した。恋人が戦死と聞いたときも泣くには泣いたが、今のような淋しさで泣きはしなかった。ただ悔しくて泣いた。だが、今は違う。体の底から淋しさが込み上げてくる。

 堰を切った涙は、京子を悲しみの淵へ押しやった。ここに利典のいないことを内心から喜んだ。この涙をもって恋人とも決別することができそうだ。

 利典に対しての後めたさも消えてくれることを願って、京子は泣きつづけた。利典が戻ってきてじっと彼女を見ていることにも気づかないまま、畳に伏して泣きつづけた。

 椎名町の物置小屋へ初めて利典を連れていった夜のことを思い出した。

―― あの人にどことなく似ている。それで、あの小屋へ利典さんを……。 ――

 まさか茂本が利典の従兄弟だとは。あまりにも過酷なめぐり合わせだ。

―― どうして、ねぇ、どうしてなの? どうしてわたしばかりに……。 ――

 京子は、茂本はおろか、利典とも決別しなければいけないと悟った。もう死んでも誰からも責められたりしない。そんなところへ行き、先に死んでいった両親や兄のもとへ逝きたいと思った。

 泣きながら彼女は思った。自分が利典をどうして受け入れたかを。

 世知辛い戦後の荒廃した社会の中で、生きていけそうもない利典に心を引かれたと思っていた。だが、それは違っていた。髭で覆われていて気づかなかったが、利典の面ざしのなかに茂本が住んでいたのだ。

 京子は、さめざめとした思いの中で悔いて泣きつづけた。三月十日の猛火で全てを失った日に、過去を捨てたつもりでいたのに。

 母屋に茂本が復員して数日が経ていた。その間、京子は、きょうこそ家を出ようと思いながら実行できないでいた。六日目の夜更け、京子は今夜こそ置き手紙を置いて、喜多見を離れることを決心した。ここなら利典も温かく保護される。自分などいなくても心配することはないだろう。京子は自分にそう言いきかせた。

 毎日のように茂本の顔を見る度に、胸を締めつけてくる。彼も口には何も出さないが、京子を見つめる瞳の中で、しきりに訴えているものがあった。

 一日も早く出ていかなければいけない。利典に申しわけないと思う。彼女は、小さな風呂敷包を胸に抱き、利典の穏やかな寝顔に

「利典さん、御免なさい。わたし、ここを出ていきます。ここならあなたも大丈夫。本当に御免なさい。本意じゃないの。あなたに関係のないことなの」

 京子はほろりと涙を利典の額に落として立ち上がった。部屋の障子に手をかけたとき、ガラス戸を軽く叩く音がした。京子は反対の部屋に入り、息をころしていた。

―― 誰だろう。こんな夜更けに。まさか茂本さん? ――

 京子は迷った。裏から逃げ出してもこんな夜更けでは足音を忍ばせて逃げ出すことなど不可能に近い。京子が困り果てていると

「御免なさい。京子さんお願いです。起きてください。茂本が…」

 利典の叔母の切迫した声だった。京子は風呂敷包を畳にそっと置くと、利典の足元を回って廊下に出た。闇の中に提灯の灯が震えていた。


 京子は茂本の枕許に座っていた。決心して、利典のもとを去ろうとしたあの夜から三日が経っていた。

 茂本はマラリアの高熱にうなされ、戦地での恐ろしい経験を夢に見ているのだろう。

「殺すな! 放してやれ」

 と、同じ言葉を繰り返していた。

 京子は、うなされつづける茂本が哀れに思えた。戦地でどんなことがあったのか知るよしもないが、こうして夢にまで現われる経験が、生易しいことでないことは京子にも理解できそうだった。身悶えて苦しがる息子を目の前にして、母親は不安と焦燥感にいたたまれなくなって京子に救いを求めてきたのであろう。

京子は家を出る機会を失った。病に苦しむ人を目の前にして逃げることなど彼女には出来そうもなかった。まして、戦火も激しさを加えてきた学生時代の恋人。

 利典に関しては、叔母夫婦の加護があるかぎり心配することはない。しかし、この三ヶ月間、肉親のように面倒をみてくれた人たちに、困っているのを見て見ぬ振りなど許されるはずもないのだ。

 ここにキニーネさえあれば、高熱に苦しむこともなく済むのにと、京子は悔しかった。もう三日も高熱がつづいている。医者も薬がなく、「皆さんの熱意だけです」と、苦しそうに言うほかなかったと思う。

 それでも五日目には、だめかもしれないと思っていた熱が下がりはじめ、朝には危険を脱することができた。

 あまり丈夫でない茂本の母親に代わって、京子は懸命に看護した。最後の恩返しのつもりで、茂本の傍らで夜を過ごし、朝を迎える日がつづいた。危険さえ去れば、ここに止どまっている必要もなくなる。京子は茂本の快復だけを祈っていた。

 京子が過酷な運命に翻弄されたことに心を傷め、この家を辞そうと決心を固めた夜更けから一週間が過ぎていた。

 その日、利典は狛江の農家の薪割りを頼まれ、昼飯を食べてから出かけていった。

 鉞を担ぎ、雑木林を抜けていくと、林の中ほどに羽根をばたつかせている雉を見つけた。少し離れたところから猫が狙いをつけていた。猫は白と茶の混ざった隣家の飼い猫だった。耳を後ろに引き、尻を地面に下げ、いまにも飛びかかろうとしていた。

 利典は、

「こいつぅ」

 と言って、鉞を猫に投げつけた。

 猫は声も立てずに数十センチほど跳ね上がってそのまま地面に転がった。鉞が猫の後頭部を直撃したらしく、その部分が潰れていた。

 利典は一瞬、べそかきの表情を猫に向けたが、羽根を地面に叩きつけている雉に駆け寄り、抱き上げた。

 両手に重みがずっしりと感じた。雄の雉らしく、顔は赤く、胸から腹にかけては緑色をしていた。右足が折れているため、動けなくなっていたものらしい。利典の通りかかるのがあと数秒も遅かったなら、猫の餌食になっていたはずだった。

 利典は雉を抱いたまましばらく立っていたが、狛江には行かず、踵を返して喜多見の家に戻っていった。傷ついた雉などを持っていったら、京子が迷惑がるかとも思ってみた。しかし、観念したように目を閉じている雉が哀れで、つい足を早める利典だった。

 離れを覗いても京子の姿はなかった。きっと茂本の看病をしているのだろうと思って、母屋へ回り障子の外から声をかけようとしたとき、中から漏れてきた話し声で、利典は息を飲んだ。

 男の、低いがしっかりした声と、京子の泣声だった。初めて京子の小屋に泊まった夜、互いの体を求め合ったときと同じ泣き声だった。

 利典はいつものべそかきの表情を作って、そのまま立ち去った。行くべき狛江の方角ではなく、成城へ向かって急坂を登っていった。





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