利典 第7回


森亜人《もり・あじん》



 利典は積み上げた藁の山の中にいた。ひととき兆してきた官能に全身を麻痺させていた。古い思い出のようでいて、きのうの出来事のような京子との生活を、利典は回想していた。自分でもあのとき、どうして叔母の家を飛び出してしまったのか、確たるものを持っていたわけではなかった。自分のような馬鹿な人間より、従兄弟の茂本のほうが京子を幸せにしてくれると思ったことは確かだった。

 利典は再び浮浪者に戻った。以前と違う点は、もの乞いをしないことだった。薪割りをさせてもらい幾ばくかの金をもらったり、飯を食べさせてもらったり、気のいい家では泊めてもらったりしながら古巣の新宿へ戻っていった。

 新宿には昔の仲間は誰もいなかった。しかし、行くところのない彼は、顔くらいは覚えている仲間の中へずるずると入り込んで、点在する農家へ行っては吃りながら薪割りをさせてもらう生活をしていた。そんなある日、仲間の一人が

「おいりっすう、若くてきれいな女がお前を捜しに来たぞ。お前には家族がなかったはずじゃんか。いってぇ、あの女はお前の何なんだ?」

 それに対して利典は何も言わなかった。半年にわたる京子との生活は、利典の心を変えていた。ごみ箱を漁ったり、もの乞いをしたり、人の持ち物を横から奪うようなまねはできなくなっていた。

 利典は、京子らしい女が訪ねてきたことを聞いて、無性に逢いたくなった。こんな生活より、京子との生活のほうがいいことくらい利典にもわかっていた。しかし、彼の足を喜多見に戻らせない茂本の声が耳朶を打つ。

 このまま新宿にいたら京子に見つけ出されてしまう。そうしたら喜多見へ帰らなければいけない。

―― お・お・おいらは帰っちゃいけない。茂ちゃんのためにも京子さんのためにも帰っちゃいけない。 ――

 利典は衝動的に列車へ飛び乗っていた。どこもかしこも穴だらけで、いつでもどこからでも駅に入ることができたし、停まっている列車に乗ることもできた。

 数時間後、緑がどこまでも織り重なっている山間の村に降り立った。プラットホームの端から線路に飛び降り、人家のあるほうへ向かって歩いていった。さわやかな空気が利典に解放感を味わわせてくれた。

 人の蔭もないような村だった。耳を澄ませると鶏の声や、犬の鳴き声がし、鼻孔を膨らませると家畜の匂いがしていた。

 利典を驚かせたのは、どこを見ても焼け跡のないことと、静かすぎることだった。白樺の林があり、幾つもの峰を持つ高い山が聳えている。周囲は緑の山ばかりで、高い建物もなければ、騒々しい音を立てる自動車の影もないことだった。

 利典は、ここは日本ではなく、よその国だと思った。現に、長い時間汽車に乗ってきたのだから、とうに日本を離れてしまったに相違ないと思った。

 利典がこの駅で下車したのは、ここが目的駅だったからではない。彼は乗車するときから切符など持っていなかった。乗車するために切符が必要だなんて考えていなかった。

 小便を済ませたら再び乗るつもりだった。プラットホームを降りて丈高く伸びた草むらに向かって放尿をしているあいだに、列車は勝手に発車してしまっただけのことだった。

 古い屋並がつづいていたが、それもたちまち後方の景色になってしまった。稲の植えられた田んぼがしばらくつづいて、茅ぶきの農家の前に立った。家の裏のほうから鋸を挽く音がしていた。

 利典は恐る恐る裏に回ってみた。腰の曲がった老人が手拭いで禿頭を縛って、太いまきを切っているところだった。利典は、自分の言葉が相手に通じるか心配だった。新宿で見かける外国人は、見ただけで自分たちと違っていたが、目の前の老人は、自分とどこが違うのか利典には区別がつかなかった。

「お・お・おじいさん、お・お・おいらに、薪割りの仕事おくれよ」

 利典は勇気を出して言ってみた。

 老人は、鉞をぶらさげている利典を胡散臭いものと思ったのか、黙ったまま片足をまきにかけて鋸を挽きつづけた。

―― やっぱり、おいらの言葉が通じないみたいだ。どうしよう。 ――

 利典は諦めて老人のもとを離れた。鶏がのどかに鳴いている。鶏舎を出た数羽の鶏が、地面を嘴でつついて、小虫を食べているようだった。利典は空腹を覚え、思わず喉を鳴らした。自分も鶏のように何か拾って食べようかとも思ったが、京子の言葉が思い出され、それもできなかった。

 鋸の音がやんでいた。利典は家の角を曲がるとき振り返ってみた。老人が片足をまきにかけた姿勢でこちらを見ていた。

「利典さん、お仕事を頂くときはちゃんと言わなければだめよ。鉞を持って、いきなり『おいらに薪割らせておくれ』なんて言っても、よその人は利典さんを知らないから怖がってしまうわよ」

 利典は京子に励まされたように地面へ座った。鉞を自分の横に寝かせ

「おじいさん、わたしのために薪割りの仕事をやらせてください。お願い致します」

 利典はそう言って、頭を地面につけた。

 老人は利典をしげしげと見ていたが、頬のこけた口元を緩ませて

「ほうかえ。それじゃぁやっておもれぇ申すとするか」

 と言って、額の皺にたまっている汗を拭いた。多分、自分の前に手をついている若者が、危害を加える人種でないことを読み取ったのだろう。

 利典は、頭を何回も下げて礼を言った。瞼の裏に現われた京子に

「ほんとだね。京子さんの言うとおりだね」

 と呟いた。

 利典は、きょうまで薪割り仕事を見つけながら生きてきた。辛いときなど汽車に乗って京子のいる喜多見に帰りたいと何度となく思った。しかし、利典にはどちらが喜多見の方向なのかさえわからなかった。京子を思い出す度に、茂本の声が京子への思慕の上に覆い被さってきた。

「京子さん許してくれ。決して体ばかりが欲しかったんじゃない」

「もうおっしゃらないで…」

 利典は二人の会話を思い出しては首を横に振り、『京子さんのためだ』と、口の中で呟いていた。

 そういう日々が二年半もつづいた。高原の村々を巡り、まきを割って生活してきた。馬鹿にされたり、鼻たれ小僧に汚水をかけられたり、石をぶつけられたりしながら、利典は生きてきた。そしてきのうの夜、隣り村の農家から無断で飛び出してきたのだった。

 利典は藁の中から抜け出し、秋空に握り締めた拳を突き上げた。腹の減ってきたことで、仕事を捜さなければいけないと思った。以前の彼なら、腹をすかせたら畑のものを失敬するか、もの乞いをするかだった。が、いまは腹が減ったら仕事をするという考えが身についていた。

 利典は、体についた藁屑を払い、自分で立てかけておいたらしい鉞を取り上げると、胡桃の木の間を抜けて農家の表に回った。

 いっぱいに明け放たれた家の中からラジオの音がしていた。のど自慢の最中らしく、歌をうたっている途中で鐘が一つ鳴った。続いて女の声が番号と曲名を言っていた。甲高い声で林檎の歌をうたい出すと、子供の声で、「かーん」というのが聞こえてきた。

 戦後、数年を経た十一月のある日曜日だった。

 農家の庭に、脱穀する稲が陽に輝いていた。どの穂もよく実っているようだった。少し離れたところに牛舎もあり、二頭の乳牛が口をもぐもぐさせながら、胃の腑に納めたものを反芻していた。

 かーんと言って鐘を鳴らすまねをした女の子は、さっき隠れん坊をしていて利典の脇に飛び込んできた子だった。女の子は、縁先に立った利典を見て、目を大きく見張ったが、利典と察したらしく、にっこり笑ってみせた。

 女の子のほかに男の子が二人と、彼らの両親らしい中年の夫婦が食卓を囲んでいた。夫婦は飯茶碗を手に持ったまま、いぶかるように利典を見ていた。いざとなったら子供たちを守らなければいけないという気迫がみなぎっていた。

「なんのご用?」 

 おかみさんが少し固い声で聞いた。

 利典は手に提げていた鉞を地面に置き、京子に教えてもらった言葉を、学芸会の台詞をたどたどしく言う小学生のように

「わたしのために薪割りの仕事があったらやらせてもらえないでしょうか?」

 利典のぎごちない言い方に、固い表情で構えていたおかみさんは、膝の上にある手拭いを口に当てて、吹き出してしまった。それにつられて皆も笑った。この笑いで、利典と彼らのあいだの障害が消えた。髭の濃い亭主は、大きな目に笑いを溜めて言った。

「お飯を食ってねぇら? ここへ来てお飯を食ってからにしろやれ」

 おかみさんは急いで立ち上がると、台所へ立っていった。

「なんちゅぅ名でぇ」

 亭主は、利典の飯茶碗に山盛りに飯を盛ってやりながら聞いた。

「お・お・おいら、北山利典といいます」

「りすけさん? とても良い名前ね」

 おかみさんがみそ汁の碗を盆に乗せて戻ってきながら言った。

 女の子と、弟らしい目のくりくりした子が、

「おいらりすけだって」

 と言って、つつき合いながら笑っていた。

「あなたの家はどこなの?」

「お・お・おいらと・と・とうきょうです」

 利典は飯を口いっぱいにほおばりながら応えた。

「おじさん、東京では自分のこと、おいらって言うの?」

 女の子が赤い頬を染めて聞いた。長男らしい中学生の男の子が妹をたしなめるように

「なんちゅぅたっていいじゃんか」

 と言った。

 その子には利典がどんな類いの人間かわかっているようだった。

 ラジオから鐘の音がたくさん聞こえてきた。誰かがのど自慢で合格したのだ。雑音だらけのラジオがひと際、皆の耳を引くように高まった。

 食卓についていた家族は、利典からラジオに関心を移した。お陰で利典は、満腹になるまで飯を食べることができた。

 空腹の胃に、みそ汁の温かさと、飯の重みが充足感を与えてくれた。利典は、自分が何杯お代わりをしたか覚えていなかったが、女の子はラジオを聞く振りをしながらちゃんと数えていた。利典が、「もう食べられません」と言ったとき、女の子は

「のどじまんの合格と同じだ」

 と、母親の耳に口を寄せて言った。

 利典の住みついたところは、魚がたくさん泳いでいる川と、湖のある町だった。盆地の周囲は高低の激しい山々で 縁どられていた。二つの山の尾根が肩を落として交わった先にも視界を遮る峰があった

 利典のいるところから最も近い山は、東に小一時間も行くと、鉄平石を切り出す山があり、西に行くと、伊那谷に下っていける有賀峠になる。北方の空を突き上げるように北アルプスの槍ヶ岳が、塩尻峠と高ぼっちの間に白銀の鎗先を見せている。振り返って見ると、鎗と睨み合うように、富士の高嶺が晩秋の空に白い衣を着て、左右に八ヶ岳と晴ヶ峰を前に押し出すように毅然と聳えていた。

 四月から五月にかけて、若草色の山々が狭い盆地の周囲を明るく燃え立たせる。陽光が強まるにつれ、若草は深緑となり、夏には緑というより黒みを帯びて、山の姿を大きなものに見せてくれるのだ。

 そうして、初秋の風が心地よさから冷たいものへと変わっていくと、最も高い峰の落葉樹が色を変え、次第に里へと下ってくる。十一月に入ると盆地は裸になってしまう。その頃には高い峰は白く変望して、冬が近づくのだ。

 新聞を見たり、ラジオを聞いたりするか、また、近所の家にご亭主が復員してきたとか、まだ下の家では息子が抑留されているらしいという話を聞かないかぎり、ここでは戦争の悲惨さを微塵も感じられなかった。

 利典が、『隠れん坊のふみちゃん』と名づけた女の子の家にも父ちゃんや母ちゃんがいて、ふみちゃんたち兄弟もいた。中学の兄ちゃんと、小学四年になる隠れん坊のふみちゃんは、空襲という言葉を知っていたが、小学一年の弟は空襲という言葉どころか、それがどんなに恐ろしいものかということも全く知らなかったのだ。





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