浮き草 第16回




森亜人《もり・あじん》

     五の続き

 女鳥羽川を下っていくと、最初の橋まで数分掛かる。その途中に繭を取る工場があり、南風が吹くと、サナギを煮る匂いが、音の悪いスピーカーから流れ出る歌謡曲とともに校舎まで漂ってくる。

 ところが、いつの頃からか、工場の脇を通っても鼻を押さえたくなるあの独特の匂いがしなくなっていた。夏休みに入る前までは匂っていたはずだ。岡谷にある繭を取る工場もかなり門を閉ざし、転職していると聞いた。きっとここも転職するのかもしれない。

 工場のある岸の対岸を少し下ったところに、川の名と同じ名の風呂屋がある。水流の多いときは嫌もおうもなしに橋まで行き、対岸を戻ってこなければならなかったが、夏から秋に掛けての水流は極端に減少し、深いところでも膝の下くらいしかなかった。

 秋の運動会のために、中高部の男子生徒は組み立て体操をすることになっていた。きょうもその練習があり、汗を大いにかいた。給食を済ませると、流一は川井を誘って銭湯へ出かけてきた。

 運動会の練習といっても、九月の声を聞いたばかりでは、まだ体育の時間に行なうのだ。二人がひと組となっての組み立て体操だったが、流一は大原さんと組んだ。川井に言われて体育館で相撲を取ってもらってから急に身近な人に思え、二人一組になるときも真っ先に彼のところへ行ったのだ。

 組み立て体操はどれも簡単なものばかりで、膝を立てて寝ている大原さんの上で倒立し、肩を支えられてのヨットや、四つ這いになった大原さんの背中で三角倒立を作ったり、膝の上で両手をひろげて立つようなものだった。

 放課後、川井を誘って銭湯へ出かけてきたのだが、正門のところで、相変わらず小さな鞄を脇に抱え、いつも一緒に帰る先輩を待っている大原さんと別れてきたところだった。

 流一は、川井に肘を掴まらせ、なるべく浅い場所を選んで川を横切っていった。実際は土手を下って橋を渡ろうと考えていた。なぜなら、夏休みに高熱を発してからというもの、視力に自信が亡くなってきていた。だが、川井が流一の肘を押して

「おい栗田、橋なんか渡るようなやぼは駄目だぜ。この水音だったら水嵩も少ないぜ」

 と言って、土手を下ったのだ。

 最近では道の凹凸もはっきりしなくなっていた。まして、密生した草の中や流れの中など不安だった。流れに尻餅でもついたら寄宿舎へ戻らなければいけない。そう考えると、流一は常の流一ではなくなるのだ。しかし 川井は流一の不安を笑い飛ばしながら

「肘を貸してさえくれたら、栗田より上手に川を渡っていけるさ」

 と豪語した。

 川を渡っているとき背後に声を聞いて振り返ると、寮母が小学部の生徒の手を引いて歩いてくるところだった。

「おお!アプレ寮母のお姉さんじゃないか」

 川井が耳をぴんと立てて言った。

 たしかに、その寮母は皆からアプレ寮母と言われていた。月の半ばに寄宿生の誕生日会を開くのだが、そのときに寮母が芸者ワルツの歌を歌ってから誰ということもなく、寮母のことをそう呼ぶようになったのだ。歌手ほどではないにしても、なかなか上手に歌っていた。

 無論、川井は見えないから、寮母がその歌を歌うのでそんなニックネームがつけられたと思っているのだろうが、実際は違うところに源があった。

 それまでの寮母の歌う歌は童謡かラジオ歌謡だった。それが、四月に入ってきたこの寮母は流行歌ばかりを歌った。それに合わせ、高等部の年を食った男子生徒たちも遠慮もなく流行歌を歌うようになった。盲学校としては革命だった。

「でも、あの寮母さんにテネシーワルツを歌わせてみたいなぁ」

 川井は川底の石ころを巧みに踏みしめながら独り言のように呟いた。

「どうしてさ」

 流一は、川井が寮母のニックネームの源を知っていて、それでそう言ったのかと、少し危ぶむように言った。

「だって栗田、テネシーワルツはアメリカの歌だろう。あの寮母さんの声は少ししゃがれているじゃないか。日本の歌より外国の歌のほうが似合っているかもしれないぜ」

「アメリカか…」

 流一は口に出して言ってみた。寮母につけられたニックネームもそこにあった。芸者は芸者でもアメリカの芸者のようだと、見てきたこともないのに、さもよく知っているような顔をして言っていた原さんの丸い顔を思い浮かべた。

 土手の上でアプレ寮母が手を振っているらしく、頭上で白いものが揺れている。もう秋風が吹いているというのに寮母の二の腕は、どこまでも澄みわたる青空を背景に白く輝いていた。何か言っているようだが、水音に消されてしまい、土手の下にいる流一の耳には達してこない。

「危険だから戻ってこいってさ。餓鬼じゃあるまいに…」

 川井は寮母を無視するように振り返りもしないで流一の肘を押した。

 流一に一瞬の迷いがあった。川の深みが見えないこともあったが、四人の小学部の生徒を連れている寮母を助けてやりたい気持もあったのだ。川底の滑る石に足を取られ、川井に身を預けるように倒れかかった。川井は流一を抱きとめ

「馬鹿」

 と言って、流一の体を押し戻した。そうでもしてくれなかったなら間違いなく水の中へ倒れていた。

「栗田、芸者ワルツに浮かれて踊るつもりか」

「……」

 流一は腹を立てて川井を引きずるように川の中をざぶざぶ歩いていった。「馬鹿」と言いたいのは俺のほうだと思った。四人の小学部の生徒を連れている姿が見えない川井に腹を立てても仕方ないとわかっていても、やはり腹立たしくなる。

 ほかの寮母たちは二人の生徒を連れて銭湯へ行くのが関の山なのに、皆からアプレ寮母と陰口をたたかれているあの寮母は四人も連れて銭湯へ行く。それも、ちっとも嫌がらないのだ。そこらへんもアプレゲールなのかもしれない。それだったら、アプレもなかなか良い意味を持っているではないかと、流一は、少し皮肉めいて言う先輩たちに抵抗を感ずるのだった。

 川から上がった二人は、濡れた草履の水を切ろうと片足ずつ持ち上げて振った。いつもなら、川井が水を切るときは肩を貸してやるのだが、今は腹を立てていたので、流一も負けずに足を振りたくった。

 風呂は空いていた。浴槽の壁に富士山の絵が描かれている。山頂付近に雪が舞っている絵だ。その雪片が見えない。麓には波打つように樹海が広がっている絵でもあるのだが、木々の枝も見えなくなっていた。夏休みに入る前はたしかに見えていたはずだ。

 流一は温かい湯に首まで漬かりながら片目を手のひらで覆った。もともと左の目は視力はなかったが、右の目はかなり遠方まで見えていた。描かれた雪片にせよ、樹海の細かな枝にせよ、浴槽の中からなら見えていた。それが今は見えないのだ。雪片も枝葉もひと塊になっている。何回も繰り返してみたが、結果は同じだった。

 富士の絵が湯気のなかでゆらゆらしている。ぼやけた視界のなかで外側のものは大きく円を描き、内側のものは法則のない円運動をしている。流一は湯に漬かったまま上せて気持が悪くなるまで露の垂れる壁を見つめていた。

 ここ両年というもの、ほとんど記憶の隅から消えていた失明への恐怖が湯気とともに浮上してきた。もしかしたら、という淡い恐怖だった過去の不安が一掃され、明確に現実の脅威となって流一を襲ってきた。

 小さな男の子が桶を両手両足に履き、頭にも一つ被って洗い場を這っていた。これと同じ光景をどこかで見た。湯気にぼやけた脳裏を、色の白い男の子の姿が過ぎっていった。女湯からアプレ寮母の声がしている。全てが現実なのに、何もかもが夢のなかの出来事の連続のようだった。

 流一は体も洗わずに風呂から上がった。見知らぬ老人がじろじろ見ているのに耐えられなくなり、川井より先に上がってしまった。遠雷のように頭の奥で何かが鳴っている。オートバイのエンジンのようだったのが、坂を登っていくバスの呻き声に変わっていった。

 流一はパンツに足を通すとそのまま床にへたりこんでしまった。目の前が白くなり、暗くなっていくのを微かに認識したようだったが、あとは何もわからなかった。

 気づくと流一は床に寝かされていた。銭湯の戸を開くと、番台の上からいつも迎えてくれるおばさんが心配そうに覗き込んでいた。ほかにも風呂のなかで流一の様子をじろじろ見ていた老人も皺の中へ潜ってしまいそうな細い目をぱちくりさせながら覗き込んでいた。

「ぼく大丈夫?学校の寮母さんが女湯にいるから呼んであげようか…」

 おばさんは流一の額に手を当ててそう言った。

 さっきまで頭の底で鳴っていた音は消えていた。

「なあに貧血を起こしたのだろう。風呂に長いこと漬かっていたもんな」

 老人は笑いながら言った。

 そのとおりだと流一も思った。壁面に描かれた富士の景色がぼやけて見えたのを気にし、浴槽に首まで漬かって壁を見上げていたのがいけなかったのだ。流一は軽く足を上げ、その勢いで跳ね起きた。

「あらっ!もう大丈夫みたいね。ぼくが急に床へ倒れたもんだから心配しちゃったわよ」

 おばさんは、脱衣場へ上がってきた客から視線を外しながら番台へ戻っていった。そうして、番台の上にいるときはそうするように、手のひらへ入ってしまうくらいの本へ視線を落とした。

 流一が貧血で倒れていたことなど知らない川井が、おい栗田、と呼びながら脱衣場へ上がってきた。

「気をつけてね、ぼく」

 と、声を掛けてくれたおばさんに黙礼を返しながら外へ出た。流一は、底のないほど高く広がっている初秋の空を見上げた。アプレ寮母さんはまだ上がってこない。四人の小学生たちを引き連れてきたからには流一たちのように早く上がってこられないだろう。微風に揺れる軒の暖簾をちらと見返って銭湯をあとにした。

 帰りは川の中を渡らずに迂回して橋を渡って寄宿舎へ戻ってきた。途中、これから銭湯へ行く盲学校の生徒たちに会った。土手道で彼らに会って、流一は改めて自分の視力が落ちていることを知った。

 夏休み前なら十数メートル先に誰が立っているか見えていた。ところが、川井と肩を並べて寄宿舎へ戻る道々、前方からやってくる仲間たちの顔がほんの数メートルまで近づかないと見分けられなくなっていた。

 流一はショックだった。見えなくなっても構わないなどと思ったことが恨めしい。病院の青々と茂る蔦の艶やかな葉の重なりに心を和ませたことまでが腹立たしくさえあった。明日の朝、目覚めれば何も見えなくなっているかもしれない。

 思えば、四年生のときの失明は突然だった。だが、今回は徐々にやってくることは間違いない。夜中、暗い廊下を歩く自分の足音に脅えて振り返ったことを思い出す。今、そのときと同じ恐怖が全身を包んできた。

 流一は逃れられない恐怖に、精神の底冷えを感じた。たぶん、目覚める度に失明への恐怖と向き合うことになるだろう。甲子園での日々に似た感覚が身に迫っていることを、流一は川井と肩を並べて歩きながら痛いほどのたしかさで味わっていた。




       六  ここ数日というもの、めっきり日差しが強まり、雪解けが始まっていた。

 木造の古い学校は、雨が降ったり、きょうのように雪解けが始まると、たちまち騒々しくなる。それでも朝のうちは凍っているため、校舎の周囲は静かだった。それが、春の陽光が輝きを増すほどに屋根の至る所から雪解け水が落ちてくる。雨樋があるのだが、とにかく古く、下から見上げると空が見えるほどの穴の空いたところも幾つも数えられた。

 例年になくこの冬は雪が多く、校舎の大屋根や、一階の庇にもたっぷり雪が残っている。初めのうちは、それでもぽたぽたという程度のものも、気温の上昇とともに間断なく、しかも量を増して落ちてくるのだ。早春の日差しに、雪の塊がどさりと落ちることもある。

 それが給食のあとの授業の場合など、ついこっくりと頭がぐらつく。その眠けを突き崩すかと思われるほどの音が腹に響き、驚いて顔を上げると、自分ばかりでないらしく、皆も肩をぴくりとさせているのだ。

 三学期も数日を残すだけになった。流一はいつになく帰宅するのを楽しみにしていた。その理由の一つは、冬休みにも一度帰宅しているが、西大手の家を売って郊外に新築した家に戻れることだった。

 新築した家は西大手の家から思えば、比べものにならないほど広く、部屋数は四つしかなかったが、廊下を広く取ってあるため、見た目よりゆったりしていた。形ばかりの庭もあり、隅に林檎の木も植えられてあった。

 通りから一本の小路が奥に続いていて、右に林檎畑と我が家があり、左は国鉄の独身寮と老婆と息子の家があり、最も奥に公民館のような家が建っていて、留守番の老婆が独り暮しをしていた。

 通りを公園に向かえば十字路を過ぎると、実業高校と城南小学校が並ぶようにあり、そのまま西へ直進すると、尚彦や義和と日の暮れたのも忘れて遊びまわった高島城の城跡もあった。

 冬休み、新築されたばかりの家に入ると、新しい木の香が新鮮さを感じさせてくれた。その上、驚いたことに、祖父の部屋でもあり、皆が集まってくる部屋でもある六畳間の隅にテレビが据えられてあった。

 流一が大いに驚いてテレビの前に座り込むと、祖母は秘密めいた口調で流一の耳元に

「わたしは反対だったのよ。ご近所のお医者さんの家にだって、代議士さんの家にだってまだテレビなんかないのよ。八万円もしたのよ。贅沢は神様がお喜びになりませんからね」

 流一は驚いた。寮母さんの給料が一万円に毛が生えたくらいだと言っているのを小耳に挟んだことがある。祖母は、流一が顔を顰めているのを同意していると思ってか、更に声を潜めて

「お祖父さまは流ちゃんにと言っていたけど、本当は自分が欲しかったのよ」

 と言った。

―― 祖父が欲しかろうが、僕のためであろうが構わない。 ――

 と思ったが、逆らうのもつまらないと思い、祖母の言うままに聞き流しておいた。

 ところが数日して、奇異な感覚を受ける場面に遭遇した。本当にテレビの欲しかったのは祖母ではなかったかと感じる場面だった。

「お祖父さん、そんな番組つまりませんよ」

 大きな声で笑い、関西弁が渦巻いている喜劇を祖父は熱心に見ていたにもかかわらず、祖母はチャンネルに手を掛けて振り返り

「ねえ流ちゃん、佐野周二のドラマのほうがいいわよねぇ」

 と言うや否や、かちゃかちゃと大きな摘みを動かしてしまったのだ。

 たしかに、ただ笑うだけの番組などつまらないと思っていたので、深くも考えないで頷いたのだが、最初、祖母が耳打ちした事柄と偉く違っているのに、流一は思わず苦笑した。

 テレビの具合が悪いのか、それとも映画そのものが古いせいなのか、画面全体に雨のような筋や、細かな雪がちらつく画像だった。

 佐野周二は記憶喪失の男の役だった。共に暮らす妻の名も、自分が誰であるかも忘れていた。海岸に立って沖へ離れていくボートを見ている。どこか足りない表情が次第に変化し、きりっとした表情に変化していく。ボートの中から手を振る妻をあらんかぎりの声で呼ぶ。

 ボート上の妻は、昔の夫の表情を見て、にっこりほほ笑む。何とも言えぬ安堵した笑みだった。そこでドラマは終演となった。

 祖父は途中から厚手の襟巻に顎を埋めてこっくりをしていた。ドラマが終わったあとも、祖母は佐野周二の話をいつまでもしていた。流一は退屈だったが、立つこともならず、祖母の話を聞いているほかなかった。

 春休みを待つもう一つの理由は、甲子園の家に行くことだった。別段、父や継母に会いたいという思いが甲子園行きを促したわけではない。ただ蔦の葉に覆われた球場を見ておきたいだけだった。

 本当は、秋江と歩いた焼け跡の池も見たかったが、今では阪神パークになっていると聞いていたので、球場だけは瞼の裏にもう一度、しっかりと焼きつけておきたいと思ったのだ。

 昨年、二学期が始まり、最初の土曜日に川井と女鳥羽の湯へ行ったときに視力の減少を実感してからというもの、日を追うごとというほどでもなかったが、先月より今月といったように、視力は確実に減少していた。どうせ全盲になるのなら、もう一度でいいから甲子園球場をしっかりと見ておきたかったのだ。

 冬休みの終わりに流一は祖父母に言った。

「たぶん、こんなことを言うのは最後だと思うけど、春休みになったら甲子園の家に連れていってくれないかなあ」

 祖父母は顔を見合わせていたが、どちらからともなく緩慢な動作で承諾の意思表示をしてくれた。流一の本意が奈辺(ナヘン)にあるかは気づいての承諾でないことは流一にとって幸いとするところだった。なぜなら、視力の減退がどの程度まで進んでいるかは話してなかったからだ。

 失明の恐怖を口にすれば、それが現実のものになるような気がし、喉のところまで出かかる不安の言葉をけんめいに飲み込んできた。こんな心の内を誰かに言いたいと思わないでもなかったが、目覚めたときの闇のひろがりを考えただけで、恐怖が先立ち、心を凌駕している掴みどころのない不安に、つい不機嫌になるのだった。

 自分でも抑制しきれない感情を鎮めるために、何か事があったときに眺めてきた甲子園球場の蔦をしっかりと見ておきたかったのだ。だが、甲子園には妹の下に弟までいると聞かされていた。そんななかへ行くことは、少々場違いのようで、頭の隅に、行くべきじゃない、という思いが、いつもこびりついていた。

 流一は、うす汚れた残雪に照り返る窓外の春景色に目をやった。見るもの全てが靄が掛かっている。たぶん、本当にもやっているのかもしれないが、窓外に見えている景色は、冬であっても同じように見えていた。

 目を凝らすと、飛蚊が空中を浮遊している。更に目を凝らすと、小虫が重なったり、膨脹して食用蛙のオタマジャクシくらいに見えてきたりするのだ。

 期末テストも終わったこの時期、殊に三学期のこの時期ほどのんびりした雰囲気を楽しめる時はない。今も理科を受け持っている先生が新聞を読んでいた。

 流一の耳にビキニという言葉が飛び込んできた。第五福竜丸が死の灰を被ったニュースだった。ビキニ環礁でアメリカが核実験を行ない、付近で操業していた第五福竜丸が被害を被ったのだ。

 アメリカは、広島や長崎に原子爆弾を落としてもまだ飽きもしないのか。今回の実験は広島や長崎に投下したものなど比べものにならないほどの威力を持った爆弾らしい。海水が汚染され、自然界に影響を及ぼすだろう。

 朝鮮では、アメリカとソビエトが戦争をしている。あそこでも核爆弾が使用されるのだろうか。もしそんなことが起こったら、日本にも死の灰が降ってくるかもしれない。だんだん平和を望む人々が住み難い地球になっていくのかもしれない。

 流一は、先生の力のこもった声を、核実験を阻止する要因と感じたり、逆に、元海軍だった先生の低い声が、朝鮮動乱を容認しているようにも聞こえた。後ろを振り返ると、斜め後ろの襄が奥歯を噛み締めてアクビをこらえているところだった。隣の川井は胸の前に腕を組んで目を閉じていた。

 耳の奥で、アメリカ軍の戦闘機が低空爆撃をしている。ずしんと響く爆烈音。間断なく降り注がれる焼夷弾。雪解けの音を聞きながら、こうして和かに新聞記事を読んでもらっていることが、まるで嘘のように思えてくる。襄にせよ、重夫にせよ、むろん鈴江にしても戦前に生まれている。だが、あの激しい爆弾の響きなど聞いたことがないと言っていた。

 死の灰を被った第五福竜丸は、これからのちどうなっていくのだろうか。それを思うと、テネシーワルツの歌までが憎くなってくる。帽子の庇のように雪の塊が屋根から競り出している。それが徐々に前方へ傾いたかと思うと、窓を覆うほどの量の雪の塊が地面に落下していった。残雪しかない畑からは水蒸気が昇っていた。そのもやった湯気の彼方に、北アルプスの遠景が桃源郷の像を結んでいた。

 遠くで凄まじい音がした。新聞を読んでいた先生が眼鏡を光らせて顔を上げた。眠っていた重夫が腰を浮かせて耳をそばだてた。鈴江が小さく叫んで耳を塞いで顔を伏せた。爆発する音ではない。地面を揺するような響きのあと、ガラスの砕ける音がした。

 静かだった校舎がたちまち騒然となった。教室の戸が開き、走り出してくる足音や、生徒たちの叫び声が漏れてきた。先生は新聞を机の上に置くと

「ちょっと待ってろ」

 と言って、革のスリッパの音を響かせて教室を飛び出していった。

「やい、栗田、ちょっと見てこいや」

 重夫が前を向いたままで言った。

 流一は、重夫に言われるまでもなく、先生のあとを追って廊下へ飛び出していった。

 騒ぎは階下らしく、入り混じった足音が流一のいる二階の廊下に伝わってきていた。流一は階段の手摺から身を乗り出すように下を覗き見たが、そこからは何も見ることができなかった。そこで、高等部の生徒に混じって階段を降りて、職員室の角を曲がると、井戸のある辺りに人が集まっていた。

 掃除のときに使う水を汲み上げるための井戸がある。そこへ出る戸が破れ、両側の窓ガラスが廊下に砕け散っていた。汚れだけが目立つ箇所を囲むように騒ぎ立てる小学部の生徒や、それを制しようとする男の先生の声が入り混じり、どうしようもない状態になっていた。

 小学部の生徒のなかには、先生の体にしがみついて泣く子やら、凄まじい音に興奮して、廊下を走り回る子やらで、収集がつきそうもなかった。

 破れた窓から背伸びをして覗くと、二階の大屋根から落下した重い雪塊に、井戸を覆っていた華奢な屋根が潰されていた。

 こんな華奢な屋根が潰れただけであの音だ。ビキニで実験した新型爆弾の音はどんなだったろうと、流一は皆に混じって、すっかり黒ずんでしまった残雪と屋根の残骸を眺めながら思った。

 久保山愛吉という第五福竜丸の船長は、ちらちらと降ってくる灰を全身に浴びたと言っているが、アメリカが実験した原子爆弾の灰だったら放射能が含まれているのではないかと、背筋に寒いものを感じ、流一は思わず後ろを振り返った。


 早春陽がさんさんと降り注ぐ日だった。列車の窓に諏訪湖一面が反映してくるかと思われるような暖かい日だった。

 諏訪湖を囲む大地からは陽炎が立ち昇っているため、砂漠で見るような蜃気楼が湖上をゆらゆらと動いているようだった。こちらが列車とともに移動しているせいだろうが、湖を臨むというより、草原を眺めての移動のようだった。やがて視界を遮るように、家並が現れると、列車は急速にスピードを落して駅の構内へ滑り込んでしまった。

 流一は網棚からスーツケースを下ろした。春休みとあって上諏訪の駅は乗降客が多く、流一が駅前に出てくると、数少ないタクシーを待つ客で長い列ができていた。それを横目で眺めながら、弁天町の新しい家に向かった。

 どんな時でも並木の伯母の家の前を通ることに抵抗を感じてきた。ところが、流一は何の屈託もなく足は並木通りに向いていた。あれほど胸を締めつけてきた伯母の家の前に差し掛かっても、足を速めて走り抜けることもなかった。

 道の両脇に炯々と聳えている欅の大樹の枝に積もっていた雪も解け落ち、冬の寒風に荒れた木肌が鈍く光っていた。どこの家で出したのか、街路樹の下に置かれた台の上には、可憐な薄い紅色の花を上向けて咲いている鉢が幾つか並べられてあるのも春を感じさせてくれる。

 決して過去の全てを払拭したわけでもないが、流一は中学生になってからというもの、母や姉に通う思いが変化し、どことなく遠景を見るようになっていた。その分、自分を取り巻く出来事や、今までは大人だけの世界と思ってきた事柄に対し、それを知りたいという欲求で頭のなかは満たされていた。

 並木通りを曲がると途端に湿っぽい通りに入った。初めて通る道だった。流一は最初、どことなくうす気味の悪いものを覚え、足音を殺して歩いていったが、家の気配を感じないくせに、奥のほうからものの動く感じが伝わってくるのに興味を覚え、低く暗い家の内を覗くようにして歩いていった。

 どこの家の入口にも暖簾がぶらさがっていて、屋号が染め抜かれていた。小さな旅館の暖簾に記憶があった。この旅館と何の関係もないだろうが、甲子園の浜近くにこの屋号と同じ名の旅館があった。

 その旅館に同級生がいた。そいつとはほとんど口を利いたこともないが、どこか気になる奴だった。何が気になると問われても、咄嗟に「こういう点が」とも言えなかったが、どうしても気になって仕方のない奴だった。

 今、家に戻る途中でそいつの家と同じ屋号を目にし、流一は足を緩めて暖簾を見上げていた。

―― そうだ、奴にも会えるかもしれない。いつも風邪ばかり引いていたっけなあ。 ――

 流一は、青白い顔をした彼のどこか寂しい笑みを思い浮かべながらその場を離れた。角を曲がると、いきなり高い芳香を放つ光の中に身を晒した。北から南へ伸びている道に春の陽光がところどころで渦巻き、そこの空気を暖めていた。その光の中に、沈丁花が咲いていた。芳香の強い分だけ、その辺りの陽光が眩しいように思えた。

 昨年の夏、尚彦が大きな鯉を生け捕りにした川を渡って左に曲がると、新しい家は目の前だった。まだ舗装もされていない道路を紙屑が風に飛ばされてころころ音を立てながら転がっていった。道の両側は細い川になっていて、底のほうに水が澱んでいた。

 流一は平らな石を渡しただけの橋を飛び越えて小路に入っていった。この前は冬休みになるときで、既に夕闇が辺りを包み込む時刻だったが、今回は春の柔かな光のなかに新築された家は立っていた。

 その小路を入ったところに温泉の噴出口があり、そこからほんわかとした湯気が立ち昇っている。旧市内では、多くの家が温泉を持っていて、共同浴場も各小路にあった。源泉を持っている家も多く、数軒で維持管理している場合もあった。

 流一の家でも源泉があり、六軒の家で管理していた。六軒ということで、祖父たちが「むつみの湯」という名をつけ、「睦む」という言葉にも引っ掛けて命名したらしい。しかし、六軒といっても、実際は三軒で、残りの三軒はまだ家を建てていないので名前だけの一員だった。

 流一は深く息を吸い込んでから玄関の戸に手を掛けた。家の中に声を掛けようと息をとめたのだが、何となく視線を感じて振り返ると、向かいの家の手洗いから男がこちらを見ていた。流一は軽く頭を下げてもその男は何の返事もしないどころか、いきなり流一の心を混乱させるような声を発した。

「何を!来るか!来るなら来てみろ!」

 不意をつかれた流一は、常軌を逸したような男の威嚇に脅えたわけでもないが、金縛りにあったみたいに動けなくなってしまった。男は黙って見つめている流一に敵意でも感じたのか、一層興奮して窓枠を叩きながら人の声とも思えないような叫びを上げた。

 やがて男の家の奥から少し嗄れた女の人の声が

「はる、はる」

 と呼んでいた。それでも男は流一を威嚇するように

「何を!来るか!来るならきてみろ!」

 と叫び続けていた。

 流一は何となく気味が悪くなり、あわてて玄関戸を開いて家に飛び込んだ。元気よく帰宅の挨拶をするつもりだったが、いまの今、向かいの家の男から受けた鳥肌の立つうす気味悪さのために何も言わずに玄関に立ち、耳だけを外に向けていた。

 玄関に立ったまま流一は耳を傾けていた。男の声が高く低く続いている。さっきと同じ言葉を繰り返している。

―― 来るならきてみろっていうのは何なんだ。ぼくのどこが気に入らないんだ。 ――

 まだトイレの窓枠を叩いているらしく、がたがたと音がしている。

「はる、こっちへおいで。お母さんのところへおいで」

 さっきは嗄れた声だったのに、今度は何ともいえないほど優しい声がした。すると、あれだけ奇声を発していた男が急に黙ってしまった。

「おかえんなさい」

 流一は背後に声を聞いて思わず飛び上がった。祖母が不思議そうな顔をしていた。

「あれなあに?」

 流一は顔を玄関の外に振って小声で尋ねた。

「あらあら、また騒いでいるのね」

 祖母までが声を低めて言った。

 また騒いでいるというくらいだから、祖母たちは慣れっこになっているのだ。冬休みに帰宅した折りには一度も聞いたことがない。年老いたお婆さんしか住んでいないと思ったのに。

「治夫さんよ。流ちゃんは初めてでしょう。ずっと病院へ入院していたのよ」

 ということか。

 それで知らなかったのだ。それにしても変な人が近所に住んでいるものだ。親戚の家の近くにも変なことを言いながら町の中を徘徊していた女の人がいたが、その人は治夫とかいう人と違い、いつも笑ってばかりいた。

 並木の親戚の病院にも常軌を逸した人たちが入院していたが、けらけら笑ってばかりいる人か、黙って暗い顔をうつむけている人たちばかりで、治夫のように奇声を発しながら威嚇するような人は一人もいなかったように記憶している。

 この休みを楽しみにして帰宅したのに、考えてもいないような出来事に遭った流一は、何となく心に重石を乗せられた気分のまま靴を抜いだ。

 流一は早速荷物を自分の部屋に放り込むと、新鮮な木の香りと温泉の独得な香りが解け合った湯に飛び込んだ。しかし、治夫という男の叫び声を思うと、体の暖まるのと逆に、背筋のあたりがぐんぐん冷えていくようでもあった。

 まだ治夫の声が聞こえるのではないかと、聞き耳を立てて外の気配を窺ってみても、春になると山からおりてくる野鳥の澄んだ声のみが冴え冴えと聞こえるだけで、総毛立たせた治夫の声は既にやんでいるようだった。

 流一はそんな思いを断ち切ろうと、息を胸いっぱいに吸い込んで湯の底に潜った。湯圧が鼓膜を圧迫し、自分のみがこの世に存在しているような錯覚に襲われ、隔絶された世界から逃れようと、流一は慌てて頭を湯の外に出した。

 しばらく耳の中に残った湯滴のために何も音が聞こえてこなかったが、頭を二度三度振ると、裏の柿の木で囀る小鳥の声が朗らかに聞こえてきた。

 流一は、自分がわけもなく一つの動作や一つの事象に事もなく右往左往する自分におぞましいものを感じた。どうしようもなく揺れ動く精神。激動する己の精神作用に弄ばれ、喜んだり、悲しんだり、生きていてよかったと感動したり、もう一分も生きていたくないと奈落の底に落ち込んだりする。この度し難い心の様にきょうも振り回されて終ろうとしている。流一は湯気に曇った窓ガラスを通して見える柿の木の枯れた枝をぼんやり見つめていた。

 小鳥たちは何の屈託もなく空を舞い、歌っている。今夜の塒のことで煩うこともなく、生き生きとしている。それなのに、人間である自分は物事に振り回されてばかりだ。人間だからこそ悩み苦しむのかもしれないが、ちょっとしたことで心が大いに波立つのには閉口した。どうにもならないのだ。自分で自分の心をコントロールできないのだ。そんな自分に、流一は情けなく思うのだった。

 夕食はカレーライスだった。祖母の作るカレーライスは逸品で、皿に盛られたのを見て食べきれるかと心配するのだが、食べているうちにどんどん腹に納まってしまい、結局はおかわりを注文してしまうのだった。たぶん、今夜もおかわりになるだろうと思い、流一はベルトをそっと緩めて食卓についた。

長い間ご愛読いただきまして有り難うございました。

昭和五八年 十月二五日執筆 平成十七年 十月二五日 改変



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