惑乱 第1回


森亜人《もり・あじん》



 窓いっぱいに陽が差し込んでいた。

 朝の爽やかな光にしては、光の強さも、差し込む方向も少し違うようだった。それでも孝平は、自分が眠っているあいだに、また半回転したのかと辺りを見回してみた。

 母が卓袱台に肘をついて眠っていた。

 腕に真っ白な包帯を巻いた母の右手が孝平の枕の上にあった。きっと、孝平の額に乗せられたタオルがずり落ちないように押えていたのだろう。

 家の中は誰もいないのか、静まり返っていた。張り替えられたばかりの木の肌も鮮やかな天井に、真っ白い蝶が羽を休めていた。

 孝平は、自分がどうしてここに寝かされているのかわからなかった。

 まるで、原始宇宙のような、暗く茫漠とした世界からいきなり目の眩む世界へ放たれたような気分だった。

 天井に止まっていた蝶が、天女の優艶な舞いを思い出させる。やがて、窓際に置かれた植木鉢の緑の中に止まった。

 蝶は、流れ込んでくる風に、畳んだ羽を開いたり閉じたりしていた。そうして、左右の触覚を互い違いに緑の葉に触れていた。右の触覚が立ててある細い竹に触れたとたん、感電でもしたように身を震わせ、慌てて舞い上がった。

 しばらくのあいだ。気が狂ったように飛び回っていた蝶は、疲れ果てたかのように、母の頭にしがみついた。ちょうど、母の頭のところに陽が降り注いでいた。陽の当たる具合で、蝶の羽がいく色にも色を変化させる。その様子が、美の世界から、孝平を激しい怒涛の記憶に追い落とした。

 闇に一条の光が差すと、たちまち目の前に白い小さな花が表われた。孝平は、顔を引きつらせた。

 広い野原いっぱいに花が咲き乱れている。花の一つ一つが、孝平を見て笑っていた。どの花も唇の端を上ずらせていた。そして、一斉に茎から舞い上がって孝平を襲ってきた。

 小さな花が突然、さまざまな形をした虫になり、上昇気流に乗って中空へ昇り、一つの塊に変貌した。

 それは、巨大な雲だった。強風に数百、数千に分裂し、その中の一塊が定型を作っていった。時に鯨のようであり、翼を広げた大鳥のようであったり、空へ昇っていく龍のようでもあった。やがて、龍の頭が独立して風に流され、人型を形成していった。

 それは、孝平を混沌の世界へ引きずり込んだひとりの少女になった。


 梅雨の上がったあとに、逆点満塁ホームランのような青空が現われた。

 庭で赤バットを振り回していた孝平は、同級生の一夫の呼ぶ声にバットを投げ出すと、リュックと水筒を掴んで玄関に回った。

 百年に一度しか巡回してこない移動動物園が山国の城下町にやってきた。小学校三年の孝平は、担任の教師が説明してくれた知識と、絵本から得た薄っぺらな記憶とを唯一のものとして、世界移動動物園に出かけていった。

 城の天守閣が、空に異彩を放っている公園だった。何も無いときは広々と見える園内も、狭く感じるほど動物や見物人で犇いていた。孝平たちは迷子にならないように、二人づつ手を繋いで先生のあとに続いた。

 園に入った広場に二頭のインド象がいた。長い鼻を器用に使い、砂を吸い上げて体にかけていた。

 孝平は、驚いてしまった。ちょっとした埃でも鼻の孔に入れば、たちまちくしゃみをしてしまうのに、象は平気で砂を何回も背にかけていた。少し離れたところにいる別の象が、大きなリンゴを鼻で掴み、口へ運んでいくのにも驚いた。

 引率の先生が生徒たちを集めて、

「あれはインド象だ。食べている林檎もインドの物だ。象は南の暑い大陸に住んでいる。砂をかけているのは何のためかわかる人……」

 先生はそう言うと、周りに集まっている生徒たちを見回した。皆は知っていようといまいとに関わらず、我さきに手を上げた。

 孝平は、横にいる一夫までも手を上げているのを見て、一夫も本当に知っているのだろうか、と疑った。

「よぉし、手を下げろ」

 先生は、口々にわめいている生徒たちを静めて先を続けた。

「象が砂をかけるのはだ、体に付く虫を追っ払うためだ。ほんとは水をかけたいのかもしれないが、ここには水がない。だからああして砂をかけているんだ」

 孝平は、納得した。インドの象だからインドリンゴを食べるのは当りまえだと思った。そのとき、孝平の右に立っていた子が手を勢いよく上げて、

「先生、象は砂を吸い込んでも蟻は鼻の穴に入らないのですか?」

 と訊ねた。

 説明をしていた先生は

「こいつは愉快だ」

 と言って、象がびっくりするような声で笑い出した。孝平たちも先生の真似をして

「こいつは愉快だ」

 と笑った。

 質問をした隣のクラスの生徒は、初め、口を開けたままあっけに取られていたが、気を取り直すように、

「こいつは愉快だ! こいつは愉快だ!」

 と、繰り返しながら、孝平の肩を叩いた。

 孝平は、隣のクラスの子の言った言葉を考えていた。

―― 鼻の孔に入った蟻は、鼻の孔の壁に掴まって奥へ入っていき、脳味噌に巣を作るかもしれない。もし、そうだとしたら、象はどうなるんだろうか? ――

 孝平は、そのことを質問してみようと思ったが、頭の中に浮かんだ恐ろしい景色に、開きかけた口を閉じてしまった。

 蟻は象の脳味噌に穴を明け、卵を生む。増えた蟻は象の体の中に次々に巣を作っていく。そのうちに象は砂を吸い込めなくなって、蟻を鼻から吹き出すのだ。真っ黒な蟻が象の体を食べて、蟻が象になるんだ。もしかしたらこの象は蟻の塊かもしれない。

 孝平の目には、のんきそうに鼻を振っている象そのものが、蟻の塊のように見えてきた。汚れた皮膚も蟻の糞の塊のように思えた。

 園に入ったばかりの孝平たちは、誰もがおどおどしていて、動物を見るより迷子にならないように気を配っていた。だが、十分も経たないうちに園内の空気に慣れてしまった。一人また一人と減っていき、孝平は、いつの間にか一夫とも別れてしまい、上級生たちの群の中に紛れ込んでいた。

 七面鳥は本当に顔色を七色に変えるのか興味があった。しかし、先生の言ったように顔の色は全く変化しなかった。それでも一瞬だったが、大きな声で鳴いたとき、赤くなったように思った。

 孝平は、七面鳥を恐ろしい目に合わせれば青い顔になるのか試してみようと思い、足元に落ちているソラマメくらいの石を一つ拾って柵の中に投げてみた。すると、七面鳥は急いでその石を飲み込んでしまった。

 孝平は、七面鳥が死ぬのではないかと思った途端、自分のほうが青くなり、慌てて七面鳥の柵の前から離れた。

 七面鳥の囲いの隣に孔雀がいた。この鳥は前に見たことがある。孝平の母の実家の近くに小さな公園があり、そこにこれと同じものが飼われていた。この動物園の孔雀のほうが体も大きかったし、羽根の色も美しかった。

 孔雀は、胸を張って囲いの中を行ったり来たりしていた。囲いの外にいる人に怒っているのか、しばらく立ち止まっては睨み、また少し行っては睨んでいた。

 囲いの反対側で保育園の子を睨んでいた孔雀が、いきなり向きを変えて孝平の前に来た途端、予想もしていないほど大きな音を立てて羽根を扇のように広げた。孝平は、やはり動物園の孔雀は偉いと思った。

 孔雀の隣りにオウムがいた。真っ赤な体をしているのや、頭が黒く体は五色に色どられているのもいた。オウムは『おタケさん』と言うと、祖母に聞いていたので、孝平は、それを聞くまで籠の前にいることにした。

 オウムは首を傾げて何か言っているようだったが、孝平には『おタケさん』とは聞こえなかった。繰り返し聞いているうちに少しずつ判ってきた。オウムは、

「マネミズクイ」

 と言っているようだった。

 孝平の横に隣のクラスの洋子がノートに何か書き込んでいた。彼女ならなんでも知っていると思い、孝平は、洋子に訊いてみた。

「ねえ洋子さん、このオウム、おタケさんって言わないね」

 と言った。

 洋子はありありと軽蔑の色を口許に浮かべ、白い顔を孝平に向けた。

「あたりまえじゃないの。このオウムは外国から来たのよ」

 と言った。

 孝平は、軽蔑されたことも忘れ、本当にこの子は頭がいいんだ、と感心してしまった。

「それじゃあこのオウムは、さっきからなんて言ってるの」

 と、訊いた。

 洋子は首をちょっと傾けていたが、

「英語でおタケさんて言っているのよ」

 と言った。

 孝平は、すっかり感動し、

「わぁい! マネミズクイというのは、日本語でおタケさんかぁ」

 と、叫んだ。

 周囲にいた人々が孝平の言葉にどっと吹き出した。二人は驚いて急に恥ずかしくなり、その場をこそこそと逃げ出してしまった。

 孝平は、自分の手を握り締めている洋子の手を引いて走っていた。汗で湿った彼女の手のひらは、孝平の乾いた手のひらにある種の快さを与えてくれた。彼は、今まで感じたことのない心のうずきを失わないために、細い洋子の手を力いっぱい握って走った。

 ところが、彼の思わくは雑踏に阻まれてしまい、人込みの中で洋子の手を放してしまった。何もなくなってしまった自分の手のひらに、洋子の手のぬくもりが夏の暑さの中で、そこだけさわやかな感覚として残った。

 孝平は、仕方なく、左の手をしっかり握ったまま、一人で園内を回り歩いていた。

 気がつくと、大きな檻の前に出ていた。檻は目の粗い鉄格子だった。木柵の枠木に足をかけて覗き込むと、大きな動物が涎を垂らして寝ていた。

 孝平は、最初それが何という名の動物かわからなかった。檻の支柱にかかっている名札を見て、思わず目をこすった。絵本に出てくる虎とあまりにも違い過ぎていた。孝平の知っている虎は両眼をカッと見開き、大きな口をいっぱいに開いていた。額にも『王』という皺もなかった。

 孝平は、今回の動物園見学の中でも虎と象に期待していた。象は自分の考えていたものより遥かに心を満たしてくれた。

 ところが、虎は大きな岩でも転がしたように檻の真ん中でだらしなく寝ているだけだった。本当の虎ならこんな檻なんか一発で壊してしまう筈だ。本当の虎を捕えることができなかったので、虎に似たやつを入れてあるのだろう、と孝平は、思った。

 そう決めつけてしまうと、微動だもしない虎が詰まらない動物に見えてきた。置き物のような虎に飽きてしまった孝平は、自分の欲求を満たしてくれそうなものはないかとぶらぶらしていた。すると、騒がしい音の中からはぐれてしまった一夫の声がした。

 一夫が、囲いの枠木に足をかけて手を振っていた。彼の横に雑踏の中で見失った筈の洋子も立っていた。

 そこはカメレオンの檻だった。

 太い枝に二匹のカメレオンがしがみついていた。

 目玉をぐりぐりと動かしている姿を見ていると、また元気が出てきそうだった。そろそろと枝を這い、緑の葉の影に進んでいくと、体の色が見ている間に色を増していった。白っぽい体が葉の色と同じに変っていくのが孝平を驚かせた。

 もっと驚かされたのは体に比べて舌の長いことだった。大きな蝿がカメレオンの頭上を旋回していた。カメレオンの目玉が一回転したかと思うと、蝿がカメレオンの口の中に吸い込まれていった。

 孝平は、蝿の飛んでいた位置を思い出してみた。たしかに、二、三十センチは離れていたはずだ。

 カメレオンはいったい体のどこにあの長い舌を隠しているのだろうか。蝿が自らカメレオンの口に飛び込んでいったとは思えなかった。だから、一夫のとぼけたような声で、

「やぁ、あの蝿はバヵだなぁ。自分からカメレオンの口に飛び込んでいっちまった」

 と、言ったのを聞いても、孝平は、自分の見たものは絶対に舌だと思った。

 オウムのときのように洋子に訊ねればわかるかもしれないと彼女を見た。

 洋子はノートに何か書いていて気づかないでいたらしい。

 孝平は、何度も目をこすって考えてみた。

 細い物がカメレオンの口の中から伸びていったように見えたのは錯覚だったのだろうか。二人は木柵に片足をかけてカメレオンの檻を覗き込みながら互いに言い合った。

 孝平は、洋子が素知らぬ顔でカメレオンの絵を書いている様子を、一夫に気づかれないように盗み見ていた。

 黒い鉛筆が白紙の上を滑っていく。大きな目玉を書いた周りに胴が描かれた。洋子は舌を書くだろうか? 鉛筆の走りが止まり、彼女はしばらく考えているらしい。

 再び鉛筆が動き始めた。カメレオンの頭上に蝿を書いている。それにしても、いつになく自分に抵抗を試みる一夫に腹が立つ。また不思議なものを感じもする。

 洋子が決断したようにカメレオンの口と蝿の間の空白部分に一本の線を引いた。それも蝿からカメレオンの口に引きおろされた。孝平は、

―― どうしてカメレオンから蝿に向かって線を引かないのだろう。舌はカメレオンから出た。でも、洋子さんの描いたのは、蝿から線が引きおろされたではないか。でも、俺の勝ちだ。 ――

 孝平は、これ以上一夫と言い合うのがばからしくなって口を閉じてしまった。幸いなことに、洋子は一夫の後ろに立っていた。孝平は、いつになく抵抗する一夫に洋子の描いているカメレオンの絵が見つからなければいいに、と願い続けていた。

 そこへ動物園の係の人がやってきた。二人は髭の濃いちょっと見ると怖そうなその人に恐る恐る訊ねてみた。

 結果は、孝平が正しかった。カメレオンは長い舌を狙った獲物に向かってまっすぐ伸ばして、人の指先のように利く舌先で獲物を捕えるのだ、と、係の人が教えてくれた。

 孝平は、赤くなっている一夫に顎を突き出してやった。一夫はよほど悔しかったらしく、腕を腰の後ろに回し、頭を反らせて虎の檻のほうへ去っていった。

 孝平は、洋子のついてくることにも気づかないで、一夫の後ろについていった。自分の目の正しさを一夫に思い知らせてやりたかった。

 虎の檻の周囲は多くの人でいっぱいだった。檻の前は上級生の男の子たちが囲み、その後ろに女の子たち。そうしてそれを包むように大人たちが檻の中を覗き込んでいた。

 孝平と一夫は地面を這うようにして前のほうに進んでいき、上級生に頭を押さえられながらもやっと檻の前に出ることができた。

 二人は檻の中央にだらしなく寝ている虎を目の前にして、肘を突き合せていた。

 見物人の中にも孝平同様の印象を虎にたいし抱いている人がいた。その人は酒に酔っていた。

「やい、てめえは本当の虎かよぉ。本物だったらにゃんとか言ってみろ。張り子の虎だって、てめえより立派だぞ」

 と、叫んでいた。

 それでも虎は髭の一本も動かそうとしなかった。男の罵倒に応ずる元気もないように思われた。孝平は、男の罵る声を聞いているうちに、それまで感じていた思いと全く異なる感情が、心の底から浮かび上がってきたことに一種の興奮を覚えた。

 虎は、こうやって知らん顔をして寝ているが、本当は強い動物という思いだった。国語の時間に先生が、

「強い犬ほどやたらに吠えたりしないものだ。お前たちも喧嘩をしてもいいが、先に手を出すようでは犬より弱いことになる」

 と、教えてくれたことを思い出したのだ。もしそうだとすれば、虎に向かって叫んでいるこの酔っぱらいのほうが弱いことになるのだが……。

 孝平は、そう思って虎を見ると、どことなく威厳を感じないでもなかった。

 酔った勢いで虎を罵っていた男は、どんなに喚いても虎が髭の一本も動かさないでいることに腹を立てたらしく、手に持っていた酒瓶を力いっぱい檻の中に投げ込んだ。

 ゴン、という鈍い音がした瞬間だった。

 寝ていた虎の両眼が炎を吹くように燃えたかと思うと、虎は一瞬身を縮め、次に軽々と身を踊らせた。口は子供などひと呑みにしてしまうほど開かれ、大地を震わす咆哮があたりを圧した。

 鉄格子にかけられた鋼鉄のような鋭い爪。

 孝平は、瞬時に予感した。

―― 鉄格子は、虎の一撃でグニャグニャに折れ曲がり、檻は壊されてしまうだろう。 ――

―― 身を踊らせた虎は、自分たちの頭上に飛びかかってくるに違いない。 ――

 孝平は、死を感じながら一つの驚異を発見した。恐怖のどよめきのなかで、一点の美しさに魂を奪われていた。

 爛々と輝く眼光。鉄格子にかけた大きな前足。反らせた逞しい胸。躍動味あふれるそれらの荒々しさに引き替え、前足の裏の淡いピンクを見て、孝平は、腑抜けたように口を大きく開いていた。

 虎の射るような眼光に比べ、足の裏の何と美しいことか。飼い猫が甘えて膝の上に乗ってくるときの感触をふっと思い出す色合だった。

 孝平は、虎の足の裏をいつまでも見ていたかった。しかし、前足をかけた鉄格子が大きく揺れ、がたがたという音を聞くと、やわらかい足の裏のピンクも忘れてしまい、恐ろしさに目を固く閉じて木柵にしがみついてしまった。

 孝平を取り巻く世界は、虎のひと咆えで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。幸か不幸か孝平は、最前列にいたため、雪崩のように崩れていく人々に踏み倒されずにいた。

 孝平は、粗削りの柵に頬を押しつけ、両眼を閉じていた。食い殺されると思った途端、いろいろなことが猛烈な早さで彼の脳裏を掠めていった。

 机の引き出しの奥に隠しておいた蛇の抜け殻や、兄からもらった巨人群の四番バッターの川上選手のプロマイドや、父親からもらった鉄砲の玉のことなどが気になった。それよりもっと悲しいことは、洋子たちのクラスの周子先生に借りた『家なき子』の本を返せなくなることだった。

 孝平は、観念して目を閉じていた。後ろでは女の子の悲鳴や、逃げ出そうとする男の子たちを制止する大人の太い声で満ちていた。その騒ぎに引き替え、檻の中は真空のように静まり返っていた。

―― 虎は檻を破って自分たちの後ろにいる人の群れの中へ飛び込んでいったのだろうか? だから、皆が泣き叫んでいるんだ ――

 孝平は、背後の悲鳴をそう思っていた。途端に一夫のことが心配になった。自分が木柵に身を伏せている間に逃げたのだろうか。目を閉じたまま手を伸ばしてみると、汗の浮いたやわらかい鼻が指先に触れた。

 瞬間、一夫は奇妙な声を発して勢いよく飛び跳ねた。孝平も一夫に釣られて飛び上がってしまった。

 虎は、何もなかったようにさっきと同じ姿勢に戻っていた。背後に聞こえるもの音がなければ、虎が怒って咆えたのは嘘ではないかと思えるくらいだった。

 背後の騒ぎを振り返った一夫は、大きく目を見開いたまま、棒でも飲んだように背筋を伸ばし、

「こうちゃん、あれ!」

 と言ったきり、凝然と立ちすくんでしまった。

 孝平も檻の中の虎のことなど忘れ、一夫と並んで背後に起きた混乱をあんぐりと口を開けて眺めていた。あまりにも檻の中の静けさと違う叫喚地獄に手足が硬直してしまった。





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