闇に溶けるまで その1


森亜人《もり・あじん》


「リヨンはフランスの大都市だけど。」

 カフェの片隅のテーブルに肘をついておれは話している。このカフェにくるのも四年ぶりになる。大学の帰りにいつも寄り込んで仲間と議論の花を咲かせた場所だった。

 今は、瑠美子が聞き役だった。彼女は、おれの話が本当に面白く楽しいのか、おれには理解の余地を与えてくれない微笑を口許に浮かべて目だけでうなづいている。
「パリから南へ約四百数十キロ。昔から生糸業の盛んな町で、マリオネットやギニョールの劇場も幾つかあってね。冬の霧もロンドンに匹敵するといわれているんだ。といっても、それは暖房に石炭を使っているころのことだけどね。」

 瑠美子が黙ったまま、空になったおれのグラスにビールを注ぎ、自分は小皿のチョコレートをひょいと摘まんで口に入れた。

 ルージュも塗っていない彼女の唇がまぶしい。下唇の先がいつでも何かを求めているように見え、おれはどきりとしながら、つい視線を落す。

 昨年の春の人事移動でおれはパリの駐在事務所に転勤してきていたが、両親にこの春の復活祭の休暇に呼び戻されて帰国した時に紹介された女性だった。
「ローヌ河はスイスのラク・レマンを源としてね、リヨン市内でソーヌ川を飲み込み、地中海に注いでいるんだよ。ローヌ河を下っていくと、一度は耳にした町が続いているんだ。アヴィニョン・マルセイユなんかは知ってるよね。」

 瑠美子の目がいたずらっぽく笑った。
――ローヌ河から中へ少し入るけど、アルル・ニーム・タラスコンがあるって言いたいんでしょ。――

 そんな目だった。
――ということは、おれは同じ話をしたということなんだ。それにしても瑠美子はよく付き合ってくれる?――

 おれは瑠美子が注いでくれたビールを喉に流し込んだ。そして、飲み干したグラスを透かして遠くを見る思いに、ふっと大きく息を吐いた。

 直接瑠美子とは何の関係もない話だが、これだけは結婚する前に話しておきたい事柄が、常におれの心を屈託させていた。
――おれは磯貝先輩の話をしなくてはいけないかもしれない。だが、本当は箱の奥底に隠蔽させておくべき問題なのかもしれないが。――

 おれは瑠美子に初めて会った瞬間から愛してしまったと思う。それは瑠美子も同じだったらしい。たった一週間の休暇のあいだ、毎日瑠美子と会って話をした。そして、パリに戻ったあとも、頻繁に電話で互いの心を通わせてきた。

 今、瑠美子とおれはリヨンのカフェにいる。おれはこれから語ろうとしている先輩との過去を口にする前に愚かにも心が乱れ、埒もないようなことを喋っているのだ。

 おれの心の動揺を瑠美子は熟知していると思う。だからこそ、彼女は口数も少なく、おれの飲んでいるグラスにビールを注いでくれているのだろう。ただひたすら、おれが口を開くのを待っていてくれるのに違いない。



 磯貝雅純二十五歳、おれ、荻嶋健介二十二歳。

 今から五年前の夏だった。

 パリに到着したのが夕方。リヨン駅から特急に乗ってペラッシュ駅に着いた時は八時を過ぎていた。しかし、リヨンの七月の午後八時は夕方と言えないくらい太陽が燃えている時刻だった。

 先輩は同じ大学の四回生だった。社会学科で、都市づくりの中に福祉をどのように組込んでいくべきかを学んでいた。

 おれは経済学部の教室で席を同じにしているボランティア同好会の友人から、先輩のボランティアを頼まれて接触するようになった。

 視覚障害者という世界がどんなものか、ボランティアといっても何をするかさえ考えないまま、軽く受け合ったものの、見えないという事実が、学んでいく上でかなり障害になっていることを目の当たりにしておれはしばしば躊躇させられた。

 だが、接しているうちにどこかうまが合うとでもいうのか、資料捜しや、朗読サービスばかりでなく、連れ立って夜のネオン街をも共にするようになっていた。

 その先輩が卒業した後も、まだ社会福祉をもっと研究したいと考えてなのか、普通校の教師になるのに抵抗があったのかは知るよしもないが、渡仏することにした。おれは何の脈絡もなく
「先輩、おれも一緒に連れていってください。フランス語はまるきり駄目だけど、英語なら心配ありませんから。」

 と言っていた。

 おれの場合は大学在学中だったが、一年や二年くらい休学しても心配ない程度の単位は取得していたし、どうせ親父の会社を継ぐ立場にいたので、親を説得し、先輩と盲男子の家の前に立ったのだ。

 もしあのとき、先輩に同行していなかったら、こうして瑠美子とも結ばれることはなかった。結果がどうであれ、おれにとって潜り抜けてきた過去は現実の幸福に繋がっていると考えると、いつも先輩が言っていた言葉を思い出す。
「我々人間はだねえ、どんなにあがいても神の手の中で転がされているようなものさ。」
「先輩がよく言っていたけど、本当だと思うよ。」

 瑠美子が、えっ という顔で怪訝そうに睫毛を揺らせておれの目を覗き込んだ。
「ああ、すまん。磯貝先輩のことをちょっと思い出していたもんだから。」

 瑠美子にとって耳慣れない男の名前がおれの口から飛び出したことに驚きと怪訝を禁じ得なかったのかもしれない。
「どうして健介さんは磯貝のことを知ってるの?」

 今度はおれが驚く番だった。
「瑠美子さんはどうして?」
「だって、磯貝先輩て、雅純さんのことでしょ?」
「そうだけど……。」
「だって、彼はわたしの従兄よ。」

 つまり、先輩の亡父の弟が瑠美子さんの父親で、菅藤家へ養子にいったのだ。

 おれは猛烈な勢いで記憶を回転させた。瑠美子とおれがこのような関係になる裏面に何かがあったのかをだ。
 どう考えても心当たりがない。たしかに、おれの親父と、瑠美子の父親とは仕事上での繋がりはあるが、深いものではない。親父も知人の紹介で良い娘がいるという話をしてくれたはずだ。
 ということは、死んだ先輩の霊がおれたちを引き合わせたということなのか。まさかとは思うが、あまりの偶然に、おれは思わず絶句してしまった。

 じっとおれの目を覗き込んでいる瑠美子の視線を感じて、おれは意識を戻した。
「おれは先輩のアシスタントをしていたんだよ。大学時代から朗読奉仕をしたり、夜の盛り場も共にしていたんだ。三回生のとき休学して先輩と一緒にリヨンへきていたんだ。その話はしてなかったっけ。」

 瑠美子は不思議なものを見るようにおれの顔をまじまじと見つめていたが、ふうんというため息とともに再びおれの肩に頭をもたせかけると、先を促すように右手でおれの頬を優しく撫でながらほほ笑んだ。

 店内は時間的に人がまだ入ってこない時刻だったので、数人の男たちが汗を拭き拭き入ってきてはビールに炭酸を加えたパナッシェという飲物を喉に流し込んで慌しく出ていく。ただ一人、カウンターの隅におれたちより前から飲んでいる男がいた。

 店の女は、おれたちの反対側にいる男とサッカーの話をしている。サラリーマンの雰囲気からかけ離れた男だった。女と話しながら、おれたちが気になるのか、ちらちらと視線を投げてくる。女はそれを予期しているのだろう、体をずらせて遮蔽してくれている。

 こちらに背を向けている女の肩甲骨が、薄物のブラウスの上からでもはっきり見える。引締った腰には太いベルトが巻かれている。その下に横に張った骨盤が微妙な動きを見せていた。

 瑠美子の背は温かく、ふっくらと肉が乗っている。女のように肩甲骨がわかるかと、静かに撫でてみたが、おれの指先にはそれとわかる形のものは感じなかった。きっと先輩なら指先が敏感だからすぐわかるだろうなと、あらぬことを考えつつ記憶の先にリヨンの夏の夕焼がちらちらしていた。

 おれは瑠美子の背をそっと引き寄せた。
「瑠美子さん、先輩の死の陰におれがいることは間違いないことなんだ。おれの責任じゃないかもしれない。でもね、やはり責任を感じちゃうんだ。おれの気配りが足りなかったとしか思えないんだよ。」

 おれは、夏の太陽が盲男子の家の屋根に反射しているのを瞼の裡に浮かべてゆっくり首を縦に振った。
――そういえば、先輩の葬儀に瑠美子はいなかった。どうしてなんだろう?だから、おれと先輩との関係を知らないでいたのだ。――
「どうして先輩の葬儀の席で瑠美子さんと一緒にならなかったんだろうね。」
「わたしは、雅純さんの葬儀に出なかったわ。ちょうど、ロンドンに行っているときだったはずよ。だから、健介さんにも会わなかったのね。帰国してから母に聞いたけど、雅純さんは誤って階段の最上段から転落し、頭蓋骨を骨折し、それがもとで亡くなったと言ってたわ。」

 おれは目を閉じた。瑠美子のやわらかな姿態を心地よく感じることに幾分のためらいめいたものを覚える。それが先輩の死と繋がっていることを心の深い部分で感じているからに相違ない。





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