闇に溶けるまで その2


森亜人《もり・あじん》



 タクシーを降りたとき、おれは盲男子の家のドアの上に貼り付けられた表札を見上げて口に出して読んだ。
「ラ メゾン デ ゾム ザブーグル。」

 先輩が大きくうなづいて
「なんだか終焉の地に着いたという感じだなあ。これから始まるというところなのに、変な気分だ。」

 風雨に晒された表札はそのまま建物の古さを物語っているようだ。しばらく後に先輩が教えてくれたのだが、というより、おれが住まわせてもらうようになった建物が元祖で、そのとき見上げた建物は今世紀になって建てられたのだそうだが、それにしても数十年近く経っていることに違いなかった。

 元祖の建造物はこの建物の裏の斜面にあり、階段を数十段近く登っていったところにあって、一七二〇年の建築だという。

 ていうことは、今から二百数十年も前に建てられたことになる。歴史を物語るように、夏のあいだはどうということもなかったが、冬の寒さは尋常ではなかった。目を覚ますと、頭や枕のまわりに雪が吹き込んでいたことも数えきれないほどだった。

 その点、先輩が寝起きしている建物は暖房も心地よく、夜など自分に当てられた建物に戻るのが辛いものだった。

 ドアをノックしても誰も出てこない。先輩はノブをまわしてドアを開いた。

 目の前に階段がある。かなり急な階段だ。おれは無意識だったが、ちょっと嫌な感じがした。盲男子の家というからには、ここに住んでいる人たちは視覚障害者のはず。それなのに手摺もなく、三十段ほどの段が一直線に登っているのだ。

 ドアを入ったすぐ右にドアがある。そのことを先輩に言うと、彼は一歩踏み込んでノックした。二度三度とノックしても中からの返事はない。これも後になって知ったのだが、そこは暖房装置の部屋だったのだ。

 しばらくその場に立って耳を澄ませていたが、どうやら人の気配は階上からだけのようだった。
「なあ、健介、ここにいても仕方ないみたいだ。上に登ってみよう。」

 と言うなり、さっさと階段を登っていった。おれは大きな荷物二つを両手で持ち上げて先輩の後ろから登っていった。

 おれは階段を登り詰めて振り返ってみた。
――やはり不安が心をよぎった。危険すぎる階段だ。――

 階段を登り詰めたところは、幅三メートルくらいの廊下が左右に伸びていて、左側は数メートル先にドアがあり、右の廊下の片側にはダンボール箱が積み重ねられてあった。

 登り詰めたところを半転すると三階へ続く階段になっていて、回り込むと二つのドアがあった。

 声は手前のドアの中からしていて、奥のドアからはタイプライターを打つ音がしていた。先輩は登り詰めたところにしばらく立っていたが、杖の先でこんこんとゆかを鳴らしながら奥のドアに進んでいった。

 おれは目の前の窓から外を眺めていた。どうやら中庭になっていて、右の隅に、さらに上に登っていく石段が見える。庭の奥には水道があり、初老の男がこんな時間だというのに、長いホースで花壇に水を撒いていた。
「おい健介。」

 先輩は、ドアの前に老齢な婦人と並んでおれを呼んだ。

 おれは先輩の声に振り向いた。その時はただ老齢な婦人と思っただけだが、数日して彼女がこのメゾンの事務長で、しかも八十歳近いことを知った。

 ポニャール神父はリヨン郊外にある子どもたちの施設に行っていて留守だったが、既に話を聞いていたらしく、寮の管理を担当している婦人を呼んできて、おれたちを一つの部屋へ案内してくれた。

 この施設を運営しているのはフランス政府だが、カトリック教会が独身の盲男子のめんどうを見ているのだという。このような施設はフランス全土の都市には必ずあって、それぞれ、盲男子・盲女子・盲人の少年少女たちのための施設があるのだという。

 先輩がどうしてこの施設へやってこられるようになったかは、あまり詳しくは知らないが、先輩の親戚の医者の手引きであることと、先輩がミサに出掛けていっていた教会の司祭と、ポニャール神父とは知り合いの仲だということですんなり決まったようだった。

 夫人が案内してくれた部屋は道路に面した部屋で、十二畳ほどの広さで、ドアの左右の隅にベッドが据えられてあった。窓際に大きな机があり、部屋の右隅の奥にロッカーがあった。どれもこれも年代の古さを感じさせる品で、覗き込んだ机の下には無数の小さな虫が跳ねていた。

 先輩はこの部屋を気に入ったようだが、おれは天井といい、壁といい、床を跳ねている虫といい、どうも気色が悪く、おれの居場所が決まるまでの辛抱とはいっても、なんとなく気が重かった。

 窓の下の正面に幅数十メートルくらいある川へ続く不規則な石段が見える。石段の左右は木立になっていて、かなり下方に人家の屋根が並んでいるのが見えた。

 視線を遠方に向けると、彼方に丘陵が見え、人家が豆粒のように望見できる。おれは、無意識にその風景を口にしていたらしい。
「そいつはソーヌ川といって、マコンのほうから流れてきている川だと思うよ。ローヌ河はきっとその先にあるんじゃないのかなあ。」

 そう言われても、おれの見る範囲には先輩のいうような川は見えなかった。

 これも暮らしているうちに知ったことだが、盲男子の家はリヨンでもかなり郊外に位置していた。先輩の言うローヌ河は丘陵を大きく回り込んだところからでないと望見できないことも知った。

 翌朝七時半ころいきなりベルが鳴り出した。おれも先輩も驚いて飛び起きた。けたたましいというのが的を射ていると思うほどの音だった。
「おい火事じゃないのか!来た早々たまげたねえ。」

 二人が驚いて荷物をまとめているところへドアにノックがあった。

 先輩がスーツケースをロッカーから引っ張り出していたところだった。
「お早うございます。朝食ですから食堂へ来てください。」

 昨日、このメゾンへ来た時に中庭で水を撒いていた男だった。

 日本だと、何かがあるとスピーカーをとおして連絡する。そいつに慣切っていたおれたちは激しいベルの音ですっかり泡を食ってしまったということらしい。

 数日するうちにわかったことだが、ここでは館内放送という設備がないようだ。メゾンの住人に電話があると、ベルの鳴らし方で誰のところへ電話があったか決められているようだった。恰もモールス信号みたいな形式を取っているのだ。

 火事と勘違いした朝食が終えて部屋に戻り、二時間ほど経た時に一人の青年がノックして入ってきた。

 おれたちがメゾンへ来て初めて話をした青年ということになる。彼の名はミシェルといった。おれには、彼がどんな青年かすぐ見て取れたが、先輩にはわからなかった。
「ミシェル、君の郷里はどこなの?」

 先輩が聞いた。むろん、おれには理解できるはずはない。先輩はフランス語を話せるが、おれは全く門外漢だった。しかし、ミシェルが純粋のフランス人でないことは一目でわかっていたのだ
「ぼくかい。ぼくはアルジェだよ。」
「えっ! どうしてこんなところにいるの?」

 先輩が聞く。
――たぶんそう聞いたと思う。――

 先輩の驚いた時に見せる表情でそう思ったのだ。
「彼は混血だよ。」
 おれは言わないでも良いことをぼそりと言った。

 先輩がちらりとおれのほうに顔を向けたが、すぐミシェルのほうに向き直って耳を傾ける姿勢を取った。

 その時の話の内容は取るに足らない程度のものだったと思う。なぜなら、数分もしないうちにミシェルは部屋を飛び出していったからだ。

 だが、その日を境に、ミシェルは日に二度三度と部屋を訪ねてきては先輩と話し込んでいくようになった。もちろん、先輩は、おれのために通訳してくれることもあったが、夢中になって話し込むことのほうが多かった。

 時には先輩の両の瞼から涙が滲み出ていることもあったし、ミシェルが嗚咽する場面もあった。そんな時ほど先輩はまるきり通訳をしてくれなかったと思う。

 ミシェルが話してくれた内容の中で、彼の人生に繋がる点については、ある事件を知った後だった。それも夏も過ぎ、秋も去り、暗い冬が巡ってきて、年が明けてからだった。

 明るく楽しい男だった彼と、突然の彼の死とどうしても繋がりを感じ得ないことから、おれは先輩に彼の過去を尋ねたのだ。
「おれは瑠美子さんにミシェルの話をしたっけ?」
「ミシェル?誰なの?」

 瑠美子は長い髪を指先ですくい上げて耳の後ろへ持っていきながら聞いた。

 おれは、グラスの底で泡がぷつぷついっているビールを虚ろな気分で見つめた。
――たぶんボケっとした顔をしていたのだろう。――
「どうしたの?」
「なんでもないよ。そうか、やはり話してなかったんだね。」

 おれは、ミシェルという名を口にしなければよかったと、また迷いはじめている自分に気づいた。
「もしかして、雅純さんが話してくれた人のことかしら?」
「えっ? 先輩は彼のことを瑠美子さんに話したの?」

 瑠美子はしばらく宙に目を向けて、過去の記憶の断片を手繰っているようだった。
「たしか聞いたような気がするわ。アルジェの青年だったんじゃないかしら。で、その人がどうしたの?」

 瑠美子が先輩からミシェルの話を聞いたのは、彼の父親、つまり、瑠美子の伯父に当たるのだが。その先輩の父親が心筋梗塞で急逝し、先輩が一人で一時帰国した一ヶ月のあいだに聞いたのだろう。

 だが、その話はミシェルの過去の話であって、彼がメゾンを出ていったことは知らなかったし、彼が死んだのは先輩がリヨンへ戻ってからのことだった。






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