雪解け 第1回




森亜人《もり・あじん》

 目覚めると雨樋を流れる雪解けの音がしていた。

 重く苛立たしい眠りから覚める度に耳を澄ませ、今朝は雪解けが初まったのではないかと、どれほどこの日を待っていたか知れない。初めて経験する冬の厳しさ。これでもポーランドの冬としては穏やかな地域に入るはずのワルシャワ郊外。

 思えば昨年の十一月の半ばからだ。建物の周囲からは音らしい音が消え、毎日のように降り続く雪が大地を覆い、バルト海から吹きおろしてくる寒風に乾いた雪は舞い上がり、いずことなく飛んでいってしまう。この繰り返しをどれほど続けてきただろう。

 私は枕から重い頭を持ち上げた。もっとよく音が聞けるようにすっかり痩せてしまった手を耳の後ろに当てた。一年前と比べ、体重は十数キロちかく減っていると思う。

 無理を承知で無理を重ね、昨年の十一月半ばから寝ついてしまった。高熱が数週間も続いていたときは、ある点では医者も見放していたらしい。

 私はそれでもいいと思っていた。このまま他国で命を失ったところで、それほど迷惑を掛ける人はいない。

――無論、私の身の周りの世話を細かな点に至るまで気遣ってくれているゴウォンブ夫妻と、日頃はバシャと呼んでいる彼の妹のバルバラ嬢を別にしての話だが。――

 廊下を隔てたキッチンからは、バシャの明るい歌声が聞えてくる。この歌声に支えられ、今日まで生き延びたという実感が、雪解けの音とともに心を吹き抜けていく。自分の腑甲斐なさにどれだけ涙を流したかしれない。

「春になって雪解けが始まれば、必ず元気になりますから」と励まされてきた。

 しかし、心のどこかでは彼らの慰めに逆らう思いもあった。親切心からと承知していながら、死ぬ人間にのみ向ける顔ではないかと疑心を抱いてもいた。

「気休めはご免だ。多分、そんな慰めは無用になる」と、すっかり弱り切った体のどこから湧き出てくるのかわからないが、そんな抵抗も続けてもいた。

 今年の冬は十年ぶりの厳しさだと、バシャは私の顔を覗き込みながら、さも可哀そうにとでも言いたげな声で言っていた。どんなに寒くても三月ともなれば雪も解けはじめるのに、今年は特別だから、もうしばらく辛抱して欲しいとも言っていた。

 彼女の兄のゴウォンブ氏もそう言っていたし、盲学校の職員たちも、日に日に痩せていく私の手を握りしめて励まし続けてくれた。

 七十に手が届くと言っていたマッサージ課の課長が見舞ってくれたとき、

「昔になるが」と前置きしてこんな話をしてくれた。

「こんな冬が過ぎたあと、たった四日で春になってね。ワルシャワは砂地だから急激に解けた雪も吸収が速くて、たちまち青い草が芽吹いたんだ。きっと今年は十年前と同じだと思う。わたしの妻もあなたと同じような病気で、冬を越せないと誰もが思っていたんだが、一斉に芽吹いた窓外の景色を見て、すっかり元気になった。そして今もあなたのご存じのとおり元気でいるんだから」

 彼はそう言いながら、痩せほそってしまった私の手足をマッサージしてくれた。

 どうしてこの国の人々は善良なのだろう。どうして嘘を言ってまで私を慰めようとするのだろうか。やはり私の命のともしびが絶えることを知っての行為なのかもしれない。

 彼らが気休めに言い続けてきたその春が巡ってきたのだ。そう思って聞くせいでもないだろうが、雪解けの音がやわらかい。木立を駆けていく小鳥の声もどことなく明るさを感じる。私は思いきり深呼吸をしてみた。

 出来た。深呼吸が、何の苦労もなくできたのだ。すっかり傷めてしまった肺、諦めきっていた肺の組織に、新しい命の細胞が動きはじめたのだ。私はもう一度、少し用心しながら両手を上げて暖気を吸い込んでみた。

――大丈夫だ!――

 医者やバシャにも言われてきた。「もう大丈夫だから深く息を吸い込んで」と。しかし、ちょっとでも深めに呼吸をすると、激しく咳込み、息が止まるかと思うほどの苦しみを味わってきただけに、どうしても思いきり吸い込めないでいたのだ。

 浅い呼吸しかできなかったはずなのに、今朝は無意識のうちに深く息を吸い込んでいた。室内の暖気がさわさわと肺の中へ入ってくる。体の隅々まで澱んでいた汚い空気を吐き出そうと、私は二度三度と大きく息を吸い込んでみた。

 こんなに気持よく息が吸えたのは何ヶ月ぶりだろう。ちょっとした温度差でも、たちまち呼吸困難に陥り、その度にバシャが枕元に置いてある機械を作動させなければならなかった。室内の安定した温度だから吸い込めたとは思えない。本当に肺が働きはじめたのかもしれない。

 空気を吸うということは、これほど気持のいいものかと改めて感じた。日頃は呼吸をしていることなど意識などしない。この病気に侵されてからというもの、呼吸する力がこれほど必要だったかと思わされてきたのだ。それがたやすくできたのだ。

 私は、室内の空気を全て体内に取り入れてしまおうと何回も深呼吸をした。鼻孔を思いきり広げて吸い込んだ。すっかり忘れていたバシャの香り。ニナリッチの甘い香りが私の精神を甦らせてくれたようだ。

 キッチンからバシャの歌が聞える。ザコパネ地方の民族的な楽しい歌だと言っていた。

町から娘がやってきた
村の男たちは喜んだ
娘を見ようと仕事も手につかず
彼女の家の周りを歩きまわる
老人たちは顔をしかめるばかり

 そんな意味の歌をバシャが楽しそうに歌っている。私はゆっくり立ち上がった。昨日までとは違った感覚でしっかり床を踏んだ。

   (続く)





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