雪解け 第2回




森亜人《もり・あじん》

 昨年の六月の末、学生たちを世に送り出したあと、残務整理やら、日本へのレポートの提出のための細かな作業に追われ、自由な時間を得たのは八月だった。

 私は、ゴウォンブ氏兄妹と共に久しぶりにパリへ行った。モンパルナスにある外国人向けの学院アリアンス フランセーズの周囲を懐かしく歩き、リュクサンブール公園の木陰でバシャが買ってきてくれたソフトクリームを舐めながら二十年前を語った。

 そのあと、レンタカーを借りてディジョンやマコンで休憩しながらリヨンにまで足を延ばしてみた。

 リヨンは四つの丘と二つの川を持ち、冬の霧はロンドンと同じように有名で、石炭を使用している時代には濃霧のために高齢者のなかには死ぬものも出るほどだった。

 フルヴィエールの丘に続くモンテ デュ グレイヨンの中腹。そこに盲男子の家というペンションがある。二十年ほど前になるが、私は二年ほど世話になったことがある。いつでも歓迎してくれることを知っていたので、私たちは電話も掛けないで出かけていった。

 古い建物の周辺は、建築された十八世紀前半の頃とほとんど変りがないと聞いていた。

 プラタナスの大きな葉が夕風に音を立てていた。ソーヌ川の両岸を走る車の騒音が四百段ほどある石段を這い登ってくるのも二十年前と変ってはいなかった。

 そこに働く連中の顔ぶれも二十年前とそれほど変っていなかった。当時六十歳を一つ二つ過ぎていたロベールも元気でいたし、施設長のベノア神父も九十歳になろうとしていたが、相変わらず元気で、皆の健康と精神面のよき支導者として働いていた。

 フランスの主要都市には独身の男性や女性を下宿させるペンションが必ず存在している。私たちが訪れたのもそういったたぐいの施設だった。

 そこでは企業が発注する手先の仕事を受け、のんびり働き、 〜まあ日本人の目から見ればということになるだろうが〜 あとは年金で暮しているのだ。

 夏休みのため半分は郷里に帰っていて、残っていたのは十数人だった。我々は一週間施設に厄介になった。

 ベルクール広場や、十九世紀初頭に改修工事によって修道院から生まれ変ったリヨン美術館や、日本では金頭公園という名で知られているテット ドールの広大な公園を巡り、そのままスイスに向かった。

 レマン湖の水上を観光船で遊覧し、アルプスの山々の美しさを船上の甲板に置かれた長椅子に腰かけて聞かされたときは、少年の頃に自分の目で見た日本アルプスの景色を思い浮かべてしまった。

 そして、八月の末にワルシャワへ戻った。九月には新学期が始まり、私に当てられたのは、中学四年生の指圧の基礎理論と技術指導だった。

 ワルシャワ大学の日本語学課の箱崎教授夫妻の協力により、講師や学生がローテイションを組んでの通訳役を買ってでてくれることとなり、授業の進めに進展をみることができた。充実した日々が私を興奮させ、テキスト作りに徹夜する日が続いた。

 ちょうどその頃から私はときおりではあったが、息苦しさを覚えるようになっていた。

それが肺胞性肺気腫と診断されたのが十月半ばのことで、静かな生活をしているかぎりそれほど苦痛ではなかったが、十一月の初旬、ちょっとしたことで重症の肺炎を起してしまった。

 あれから五ヶ月になる。四十度ちかい熱が三週間も続いたときには、完全に脳も侵されたのではと思ったと、ゴウォンブ氏があとで話してくれた。それほどの熱だったが、幸いに脳炎を併発しなかったらしい。

 私がこうして肺いっぱい空気を吸い込むことのできた背景には、バシャの並々ならぬ介護があったからだ。私は改めて彼女に感謝しつつ、室内の空気を吸い込んだ。それから窓を開けようと広い室内を横切っていった。

 二重窓をとおして雪解けの音がしている。これだけ大きな音なら、赤松の木立からは水蒸気が立ち昇っていることだろう。まして盲学校を囲む林では雨と聞き違うほどの賑やかさだろう。枝という枝から解けた水滴が落ちているに違いない。

 少年の頃、父の実家の茅葺きの屋根から、次から次へと雪がどさどさ落ちてくる様や、畑からは陽炎がゆらゆら立ち昇る様を、ある種の感動を覚えながら眺めていたことをふと思い出した。

「これが春なんだ。今まで眠っていた全ての生き物が目を醒まし、日を追うごとに生き生きしていく春なんだ」

 私は、何度も同じことを誰に言うともなくつぶやいたことまで思い出した。何十年も太陽に晒され、すっかり板の端がめくり上がった濡縁に腰掛け、祖父が昨年の秋に収穫しておいたクルミを奥歯で割りながら、それらの光景を見ているうちに、自分の体内にも何ともいえない力が湧き立ってきた。

 あのときも全身がわくわくするような感動に、思わず濡縁の上で跳ね上がった。今も跳ね上がりこそしないが、そのときと同じ感情が、病み疲れたはずの体内から湧き立ってくるのを感じ取った。

 否定してきた命のともしびにほのかな光を感じる瞬間だった。マッサージ課の課長の話がにわかに真実味を帯びて私の心に染み込んできた。

 キッチンからの歌声がスローテンポの賛美歌に変っていた。いつもバシャが好んで歌うマリア様のマントはいつも青空という歌だ。

 私は彼女の歌声に背を押されるように窓に近づき、そこでもう一度深呼吸をしてみた。息苦しくない。肺は確かに甦ったのだ。私は窓に手を掛けた。

 二重窓を開いてみた。外気が一度に室内へ流れ込んできた。私は思わず一歩二歩と後ずさった。今までの呼吸困難を身に染みて覚えていたからだ。

   (続く)





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