雪解け 第3回
森亜人《もり・あじん》
木立の中で鳴き立てている小鳥たちの声。しきりにあちらこちらの木を叩いているキツツキのドラミング。どれもこれもが生き生きした春の息吹だった。
雨が降っているような音がする。全て雪解けの音と知っていても、もしかしたら雪解けではなく、本当の雨ではないかと疑う気持で耳を澄ました。
東に面した窓いっぱいに朝日がやわらかく差し込んでいるからには、間違いなく雪解けの音だ。ワルシャワへ来て一年になる。その半分をベッドで暮すことになった。自分自身の不注意でこんなことになってしまった。
視覚障害者にも鍼が可能だということすら念頭になかったという彼らに、職域拡大のため、なさねばならないことが山のようにあるにもかかわらず、こうして寝ついてしまったことが悔しい。
自分はワルシャワへ何をしに来たのかと、自分自身に問うてみた。当初、どれだけぼやいたかしれない。その度にバシャが根気よく私を慰め、励ましてくれた。
私を招いてくれたゴウォンブ氏に申しわけないという思いが先立ち、寝ていても精神が苛立つばかりで、かえって悪循環だった。
それでも彼女の献身的な介助の前に、いつしか苛立ちも陰を潜め、感謝の念のほうが強くなった。それだけ自分の体力が弱ったともいえなくもない。だが、自分の弱さよりも彼らが示してくれる好意につき動かされたといったほうが真実により近かった。
通りをまるで川の中でも突き進んでいくような音がする。車が急激に解け出した雪解けの水をざわざわさせて走っていく。砂地だからいいものの、そうでなかったらと思う。
私は窓を閉めると、ふらつく足を踏みしめてベッドに戻った。昨日までと違うものが体の奥に息づきだしたことを意識するまでもなく、私は生きる道を歩み出したらしい。
母さんへ ぼくは元気です
それに とっても調子がいいんだ!
私は唐突にこんな詩を思い出した。どこで読んだ詩だったろうか?それとも誰かに聞かされたものだったろうか。
「母さんへ ぼくは元気です それにとっても調子がいいんだ!」
口の中でつぶやいてみた。既に母は死んでいる。遠方の町から母へ送った手紙の一節でもなさそうだ。
私はベッドに腰掛けて額に手を当てて記憶を訪ねてみた。昨年の今頃だった。ゴウォンブ氏兄妹と共に出かけたクラクフの印象が思いだされた。
ヴィスワ河に掛けられた大橋のほぼ中央に立ち、白鳥や鴨の群れの鳴き声に耳を傾けていると、やはり誘われるままにここまでやってきてよかったという思いが心の底から湧いてきた。
ワルシャワを出発したときは激しい吹雪だった。横殴りの雪が走る車の窓を叩く。それでも南へ進むにつれて吹雪は上がり、クラクフに到着したときは、ときおりではあったが雲間から青空もちらついているほどになっていた。
クラクフはポーランドの古い都で、七、八世紀頃には集落がヴィスワ河の周囲に生まれ、十二世紀になると国家形態が形造られていった。さらに十六世紀初頭には、ジグムント王がバベル城をイタリアの建築家に建てさせ、全ポーランドを統一した。
城はゴシック・ルネッサンス様式の堅牢な要塞として建築されたもので、現在は国立博物館として多くの観光客を集めている。文化的にもヨーロッパ全体に影響を与えるような大学、ヤゲウォも十四世紀半ばに設立され、多くの学者が出た。
小高い丘には城を囲むように古代の栄華を偲ばせる城壁が、透きとおった空気のなかで美しいと、ゴウォンブ氏がいう。歴史に支えられたクラクフの町全体は、その昔は高い城壁に守られていたが、現在は歴史を偲ばせる程の壁だけを残し、あとは市民が憩える公園になっているのだそうだ。
十二世紀から十五世紀に掛けて建築された教会の建物が、当時のローマカトリックの権力と威厳を示すかのように、塔を冬空に突き刺していると、バシャが私に肘を取らせながら語ってくれた。
なかでも聖マリア教会から打ち鳴らされる鐘の音は、この町の人々の心を支えてきた。塔の頂上から四方に向けてトランペットを吹き鳴らし、市民に時を告げる。今も午後三時の鐘が鳴り続いてトランペットのさわやかな音が流れてきた。
この習慣が六百年も続いていると聞いて、私は感動した。凍てつく冬の深夜も、夏のぎらつく太陽が照りつける正午にも休まず吹き継がれてきているのだそうだ。
しかもトランペットの音色は刃物で断ち切ったかのように途中でぷつりと途絶えている。作曲者がそこまで曲を作ってやめたわけではない。元来は最後まであった曲だ。敵の来襲の前でも吹き続けていた奏者は、敵の矢に倒れた。それを記念して現在ではその部分でトランペットを吹きやめているのだそうだ。
ここへ来て三日になる。私は日本にいた折りに軽い風邪を引いていた。成田を立つころにはほとんど快復していたが、こちらの寒さにぶり返してしまったらしい。
もし、日本国内での誘いだったなら断っていたと思う。ポーランドへやってきてまだ間もない。住んでいる場所には慣れたが、言葉の不自由さを考えると、通訳役のゴウォンブ氏兄妹のいない三日間は考えただけでぞっとしそうな気がしてこの旅についてきたのだ。
橋に立って耳を澄ましても水の音は聞えない。水面まではかなりあるのだろう。それでも、白鳥や鴨の声が手に取るように聞える。私の郷里を流れる川にも冬になると、白鳥や鴨が渡ってくる。