雪解け 第11回




森亜人《もり・あじん》

 短兵急な私の求めに対し、バシャは抗わなかった。当然のもののように私の行為を静かに受けてくれた。心に秘めた過去の事など知るはずもないのに、全てを知られているような錯覚に私の心は乱れるのだった。

 バシャの唇が離れ、香りもテーブルの向こうに移った。

 私は、バシャのために誕生日の祝いとして生きた花を贈った。ポーランドでは生きた花は貴重だ。ほとんど紙で作った花で間に合わせている。初めはそうしようと思ったが、やはりバシャへの熱い心を示すには生きた花が最もふさわしいと考え直したのだ。

 公園などに行けば花壇には乱れるほど咲いているのに、どうして生きた花を売る店がないのか不思議だ。盲学校を囲む林の中にも名も知らない花が咲いている。修道院のシスターたちが木陰から採ってきた花をコップに挿して飾っていた。

 四十半ばという年齢が分別臭くしたわけでもないだろうが、私はその夜をバシャと二人だけで朝を迎えることはなかった。いや、持たずに済んだというべきだろうか。

 ワルシャワの五月半ばを少し過ぎた時節は、九時十時といっても戸外を散歩していても明るい。夕食後、二人はワジェンスキ公園に足を踏み入れ、花壇の花に手を触れたりしながら散歩を楽しんだ。人々も土曜ということもあって、かなりの人が夜長を楽しんでいた。

 第二次世界大戦のおり、連合軍の前に屈したドイツ軍は、ワルシャワを放棄する際に歴史的建造物を破壊していった。アウグストによって造られたワジェンスキ公園や、そこに納められた建造物も例外ではなく、ほとんど瓦礫と化したのだった。

 その廃墟から石を集め、写真や絵画と照らし合せ、一つずつ積み上げていった。多分それは根気のいる仕事であったに違いない。試行錯誤し、新たな石を砕いて当てはめながら復元していったのであろう。

「でもねえ、たった一つだけ誇れない建物があるのよ」

「何?」

 バシャは私の、何?という質問には答えなかった。知っていながらというより、いつもの癖で、つい、何?と聞き返してしまったのだ。私の迂闊な返事を、底意地の悪いものと受け取ってしまったのかもしれない。

「文化宮殿」

 バシャは吐き出すように言った。

 スターリンの忘れ物とワルシャワっ子が言っている高さ約三百メートルの文化宮殿はデフィラト広場にあり、市内のどこからでも見ることができる。少なくとも四十代以上の市民の心には、ソ連の圧力の象徴としか見ていないと、ゴウォンブ氏も言っていた。

 しかし、ソ連の崩壊と自由主義経済の確立を成し遂げた現在、若者たちの心からは、世界大戦とそれに続く苦難の道を強いられた記憶は消えているようで、遠方からワルシャワ市内へ戻ってきたときに、まず目に入るこの宮殿を懐かしい建造物と見ているようだった。

「ご免なさい。日本人のあなたには関係のないことでしたわね」

 バシャは自分の不用意な返事の仕方に気づいて、体を半転させると私の手を自分の胸に抱いた。近くに花壇があるのか、強い芳香が夜気に染み込んで漂っている。私は、思いがけないバシャの行為に戸惑ったが、行為そのものの動機がわかるだけに、何ともいえない気持だった。

 そんな何げない行為でも私を過去に引きずっていく。特にバシャはそうだ。今も手のひらに感じる豊かな膨らみが私を日本のアパートの寝室へ引きずっていった。

 別れるのならこんなことをしてはいけないと思いつつ、週に二晩、週の半ばは私が彼女のアパートへ、週末は彼女が私のアパートへやってきていた。特に週末の場合は泊まっていくことのほうが多かった。

 人一倍も羞恥心の強い彼女だった。どんなに気分が高揚しても私の肩を噛んで声を殺していた。それでいながら、行為は激しく私を追いつめるほどだった。追いつめた果てに、いつまでも全身を痙攣させていた。

――バシャもそうだろうか?――

 私は自分の醜悪な心から顔を背けるようにバシャの手から自分の手を抜き取った。民族の苦悩が文化宮殿を忌み嫌う状況を熟知していたし、私もバシャたちと同じ気持にもなれたというのに、この期に及んでよからぬ想像をするとは、自分の精神の低さに唾を吐きたいほどだった。

 日本の夏の暑さとは違うが、それでも夏の盛りは去り、ワルシャワの郊外の林の中にも心地よい秋の深まりが巡ってきていた。

 バシャと誕生日の祝杯を傾けた五月の半ばから四カ月が過ぎていた。ワジェンスキーの広い公園を腕を組んで歩いた夜、あの夜から私はバシャの生きる世界と、自分がこれから生きていかなければならない道筋と重なり合う点があるかずっと考えてきた。

 しかし、死の恐怖から生きる希望を得て、バシャと楽しい夜の散歩に満足したあの夜から今日まで、私の心には自分を納得させるような解答は見つけ出されていない。

 ドームの二階の窓を開けると、手が届くほど近いところに太く大きな落葉樹がある。私は窓から身を乗り出すようにして外気を吸い込んでみた。すぐ目の前だろう、キュルキュルというリスの声が走っていくのを聞いた。

 頬を撫でていく風が気持いい。きょうはバシャと約束を実現させる日だ。車で一時間半、ワルシャワの市内を通り過ぎて西へ向かう。コルベ神父のゆかりの地ニェポカラヌフの小さな町がある。この地から彼はアウシュヴィッツへ連行されていったのだ。





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