雪解け 第14回
森亜人《もり・あじん》
それは、バシャとそこまで深みにのめり込んでしまったとき、もっと精神的な意思の疎通を求められるのではないかという恐れだった。そんなとき、国を異にした二人では考え方の違いは歴然だ。たとえ誤解とわかってもバシャに納得させる語学力もなければ、それより、そのために苦労することの面倒さを考えると、つい身を引いてしまうのだ。
多分、その思いは私の杞憂にすぎない。バシャは大人だ。私よりはるかに大人の部分を持った女性だった。圧政に屈服しながら、やがて自国民の手でポーランドの権利を獲得する日を夢に見てきた人たちの仲間だ。そんなバシャが、私との心の行き違いで精神を悩ますとも思えなかった。
この芯の強さは、心の底に今も生き続けている過去の女にも通じていた。若さに委せ、押し黙っている彼女を責めたことがある。どんなに責めても彼女は口を利かなかった。何のことで争いになったのか今では忘れてしまったが、ただ記憶の隅に、三日でも四日でも押し黙っている彼女に手を焼いたことだけが鮮明に残っていた。
決して機嫌を損ねて黙っているのではない。自分の意思をどのように伝えれば私が納得するか悩み苦しんでいるのだ。それがわかるだけに私としても苛立つばかりで、二人にとっての解決策が掴めないのだ。
この無言というのは、私にとって最高の抵抗となる。表情の変化を把握できないがゆえに、どれだけ疑心暗鬼に陥ったかしれない。そんな私の心の動きをじっと見つめているようで、私は辛くなり、彼女のアパートを飛び出したり、自分のアパートなら、そのまま机に向かってしまったものだった。
そのうちに彼女のすすり泣く声がし、やがて何も言わずにアパートを出ていってしまう。出ていかれると次に私を襲うのは、もしもという不吉な想像ばかりで、狭い室内を熊のように歩きまわったり、窓際にいって戸外の様子に耳を傾けたりした。
落ち着きのないまま彼女が大切なものをしまっておく机の引出しに手を掛け、そのままじっとして考え込む。もしものことがあったら誰に知らせなければいけないのだろう。それより、ふつう文字で書かれたアドレス帳を誰に見てもらえばいいのだろうか。そんなことを思案しているうちに十分や二十分が経つ。やがて、彼女は静かにドアを開いて入ってくるなり、私の首に手を回して
「ごめんなさい」と言って、再び声を殺して泣くのだ。
私の心は過去の出来事と、現実とが綯交ぜとなり、寒風に吹き飛ばされる雪片のようだった。このままワルシャワに残るべきか、日本へ帰って新しい道を踏み直すか。その問題から解決しなければいけない。
そんな重大な問題を抱えているにもかかわらず、底のない沼のような心には二人の女性が交互に顔を出し、時にはお互いの領分を侵し合うのだ。
ワルシャワ盲学校との契約は来年の六月までだ。七ヶ月もあるという考えより、たった七 ヶ月しかないという思いのほうが強かった。バシャと将来について語り合ったこともない。あの人とは結婚を前提にしての交際だったが、私の優柔不断さが彼女との別れを選択した。
多分、バシャとも過去と同じ結果を招くような気がしてならない。もしバシャが私からの言葉を待っているのなら一日も早く結論を出さなければならないだろう。
ときおり襲ってくる呼吸困難は寒さが募るほどに増していった。よろぼいながら辛うじて年を越すことができた。ドームから校舎まで、アイスバーンになった菩提樹の並木道を歩いていく。ドームのある場所は林の中だが、校舎に続く道の両側には何もなく、寒風が直接肌を貫いていくのだ。
ドクターは帰国することを命じた。ワルシャワの寒風が合わないのだ。私の意思に反することだった。春になるまで入院することをゴウォンブ氏はもとより、バシャも願ってくれた。しかし、私は頑固なほど入院を拒み、アイスバーンの道を歩いて学校へ通った。
昨年のことを思うと、私はどうしても入院だけはしたくなかった。それに、昨年のような熱も出ないことが幸いしていたのだ。
仕方なく私はバシャの手を借りながらドームと学校を往復していた。
二年間という時の刻みが私の体に多くのことを彫りつけてくれた。なかでもバシャの愛と、コルベ神父が向けた霊的な眼差しは強烈だった。
冬の長い夜は私にいろいろのことを考えさせてくれる。そんな夜、私の心に去来してくるのが十年前に別れた女のことだった。
彼女との最後の夜、決定的な相違点を発見した。それは宗教だった。彼女の優しさが宗教からのものと知った瞬間、私の情熱が瓦解していった。
彼女の優しさは自らが持っていたものではない。虚像なのだ。宗教を取り去れば彼女は無に等しいのだ。そんな人間とは暮せない。
急激に冷めていく感情をどうすることもできなかった。それなのに、現在の自分は彼女と同じ宗教を持つ人々の世話になっている。
彼女と別れた頃、原因は彼女の醒めた見方にあると思っていた。夜の営みもまるで月の光に触れた感覚だった。そのことが別れの原因だと考えていたが、今、それが違うところに起因していることに気づいた。
私は自分の精神が深い闇に落ちていくのを感じた。どこへ行っても救いのない世界。これでは私の行き場がない。ワルシャワに留まろうが帰国しようが、生きていく場がない。