雪解け 第5回




森亜人《もり・あじん》

 広場に入っていくと、かなりの人が太陽のぬくもりを求めて家族づれで出てきていた。教会に足を向ける人も多く、聖マリア教会ばかりでなく、あちこちに点在するルネッサンス時代の格調のある教会へ次から次へと人々が入っていった。

 さすがはカトリックの国だ。日曜日でなくても夕のミサに参列するために出かけてきたのだろう。幼ない子どもたちのあどけない声が高い建物に反響している。

 この中央広場は四万平方メートルもあり、広場の一郭に、十四世紀に織物会館として建築された建造物が、今では土産物店として数多くの軒を並べている。

 広場をゆっくり歩いていくと、聖マリア教会の塔から鐘が鳴り出した。

 何百年も鳴り続けてきた鐘。歴史のなかでいく度も侵略されてきた。その度に不屈の精神力で国家を守ってきたこの国の人々の汗と涙と血で刻まれた歴史の音。

 弱いながら広場いっぱいに照る斜光の下で、これから刻み上げていくであろう歴史の時を刻んでいる。そして、再びトランペットの音が嚠喨と流れてきた。

 この国には徴兵制度がある。そのことをゴウォンブ氏から聞かされたとき、複雑な思いがしばらく心の底に重苦しく残っていた。しかし、この国の歴史を考えると、徴兵制度の必要性を感じてくる。ゴウォンブ氏も兵役義務を果たしたと言っていた。

 東西の大国に挟まれた国としての宿命だ。遠く古い時代には、タタール人の侵略に町や村を全滅させられたこともある。百数十年間、国としての形態を失ったこともある。この国の人々の持つ意識の強さの源が理解できる

 中世から近代に至る歴史の織りなした横糸には絹の光沢どころか、鋭い諸刃や、猛毒の毒々しい色彩で彩られていた。ポーランド人は肉を貫かれ、保護という名の蜜の甘さに欺かれてきたのだ。

 私の友人に四十半ばになる男がいる。彼は大手の家電メーカーに勤めているが、ストレス解消にしばしば射撃の訓練を受けにいくと言っていた。

 ポーランドの人々が抱えた愛国心と比べ、日本の愛国心の乏しさを憂うつもりはない。だが、国情の違いが、同じ射撃の訓練でもあまりに懸け離れていることに対し、手放しで納得していていいものか、私なりに少しばかり不安になった。

 さっき、バシャが口にした詩のなかにも私の心を締めつけてくるものがあった。

母さんへ ぼくは元気です
それに とっても調子がいいんだ!

 第二次世界大戦の末期、日本の若者たちも特別攻撃隊として沖縄の紺碧の海に消えていったが、彼らの送った最後の便りもほとんどが母親に送ったもので、決して悲しまないでくださいとあったそうだ。

 アウシュヴィッツの収容所から母親に送った少年の心も同じだったに違いない。コルベ神父も七十通に及ぶ便りを母親に送っている。便りの冒頭は全て同じ文句だった。

『お母さん決して悲しまないで下さい。お母さん決して嘆かないで下さい。善い神はどこにでもいるものです。』だった。 さらにコルベ神父は常にこうも言っていた。

「平和で静かなる日々、それは私の戦いに充てられた」と。

 ゴウォンブ氏がクラクフへやってくる車の中で言っていた。今も歩きながら同じような話をしてくれた。

「ソ連やドイツに占領されていた頃の我が国は宗教的の面では生き生きしていたと思う。日曜ばかりでなく、毎日のように教会へ出かけていったものだ。ところが、自由主義経済が認められ、物資が豊かになってきたら、人々は自分勝手になり、若者のなかには教会から離れていくものさえ増えてきたんだ」

 我々は教会の前を通って坂を降りた。バシャが調子を取るように指を絡ませてきた手を軽く振った。さっきより太陽が強く感じる。

 平和は人の心を堕落させるという格言を如実に示したようなものだ。日本も同様だ。あれだけ大戦によって傷つけられたのに、今では戦争の苦しみを語るのは明治・大正を生き抜いた人か、昭和も一桁生まれの人たちになってしまった。

 アウシュヴィッツでは二十八カ国の人々が最低でも百五十万人も殺されたと言われている。戦後、ポーランド人たちは、この忌まわしい歴史的事実を後世にに残すため丹念に聞き取り調査を行い、現在オシヴェンティムの博物館に貯蔵してあるのだとバシャが歩きながら語ってくれた。

 日本では学生ばかりではない。四十代五十代の人々の心からも戦争のことなどほとんど忘れられている。

 私でさえ同様だ。この国へ来て初めて肌に感じた。平和の尊さを喜ぶ前に、少しひねくれているかもしれないが、平和の基礎がなんであるかを考え直さねばと、鳩の群れがいきなり舞い上がったのに驚きながら、そんなことを思っていた。

 寝室のドアに軽いノックがあり、私はクラクフの追憶からワルシャワのゴウォンブ氏の家の寝室に戻されてしまった。

「ジン ドブリ(おはよう)今朝は具合がいいみたいね」

 バシャが入ってきた。

 ワルシャワへ来て初めて彼女の声を聞いたとき、即座に山口百恵を思い出した。決して声がそっくりだというのではない。人当りという言葉があるが、さしづめ声当りとでも言うべきだろうか。

 実際、山口百恵を直接知っているわけではない。テレビを通して伝わってくる雰囲気がバシャと接したとたん感じたのだ。

 バシャは三十歳後半になる。声だけを聞くかぎり、まだ三十歳前後にしか思えない。どちらかといえば、バシャは痩せぎみだと思う。しかし、ときおり私の腕や肩に感じる彼女のぬくもりからは、独身女性の充実した若さが伝わってきた。





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