雪解け 第6回




森亜人《もり・あじん》

 そんなふうに感じることを不謹慎とも感じないのは、私の体の底に男としての息づくものが残っていたのだろうか。

 もう久しく忘れていた感覚だった。情念というより、献身的に尽してくれる彼女への思慕とでもいう類のものかもしれない。

「ジン ドブリ」

 私は立ち上がってバシャを迎えた。

 アッオー!と感嘆の声を上げて小走りに駆け寄り、ベッドの前に立っている私の肩に両手を置いて

「もう大丈夫みたいね」と言って、私の頬に唇を押しつけた。同時に甘い香りが懐かしさを呼び起こした。

 この行為は毎朝枕に頭をつけた状態で受けてきた。今朝は違う。ベッドから離れ、すがすがしい気分で彼女の口づけを受けた。

 私は、彼女の体を異性のそれと感じた四ヶ月前の火照りに似たものを全身に甦らせ、思わず顔を熱くした。それを見られまいと、彼女の体を引き寄せた。

 私を気遣いながらも身を寄せるバシャの香りのなかから、私は病の床に就くきっかけとなったピクニックを思い出した。

 昨年の十一月初旬、私はバシャの案内でショパンの生家があるジェラゾヴァボラへ出かけた。

 バシャは車を運転しながら話してくれた。

「これから行く町は美しく、流れる川もきれいなの。ところが、ヴィスワ河やオーデル河は死んでいるのよね」

 つまり、発電所が高濃度の硫黄を含んだ褐炭を使用し 、南部工業地帯での産業廃棄物をそのまま川に垂れ流しているために汚染が進み、公害を流す川と化し、飲料水としての働きも失いつつある。

 それに比べ、ジェラゾヴァボラの町を流れる川はきれいで、水面に映る柳が町の雰囲気をゆったりしたものにしている。山河の美しさなら、南のスロバキアとの国境地帯に広がるカルパチア山脈や、深く切れ込んだ渓谷、丘陵地に点在する湖沼の美しさがある。それらはポーランドの垂れ流し産業と裏腹といったところだと言うのだ。

 ゴウォンブ氏やバシャの受売りになるが、全て共産主義体制下における無謀とも思える産業開発の結果だそうだ。いつの日にか南部地方の湖沼や森林に案内して上げるとバシャは、河川のとめどもない汚染を慨嘆しながら話してくれたものだ。

 ショパンの生家は、自然の美しさが残っている川のある町の一郭にあり、静かな通りに面していた。彼の遺品を納めた博物館が前面に、裏手に彼の生まれた家があった。

 土曜日のせいか、見学する人が数人くらいずつかたまって三々五々館内を見学し、奥にある生家を覗いていく。我々もそれらの人に混じって見学した。

 昼食は、彼女が作ってきた弁当を持って近くの公園と考えていたが、バシャの提案でカンピノスの森へ行くことにした。さらに北東に行けば、広大な湿地帯もあり、ダム造りの名人であるビーバーも多くいるとのことだった。

 カンピノスの森はポーランドでも豊かな森で、畑や牧場がすぐ傍に続いている。狼や箆鹿も棲息しているという。何となく恐ろしい気もしないでもなかったが、女のバシャが何とも思っていないらしいのに、男の自分が恐ろしがっていたら笑われると考え直し、私も平気な顔をして森の中へ入っていった。

 のちになって知ったことだが、狼が出没する地域は数十キロも離れていた。そのときは何も知らなかったので、私はバシャと歩調を合わせて森の中を歩いていても、常に耳だけは研ぎ澄ましていた。

 森の中は既に初冬だった。冷やりとする風に、少し薄着をしてきたことを後悔するほどだった。薄いジャケットを着ているが、生地をとおして森の中の冷気が滲み込む。

 木の葉の落ちる音が絶え間なく聞える。カサコソという音が動物の足音のように聞え、私はその度に緊張して耳をそばだてた。森の奥からは日ごろ耳に馴染んでいる音と違う物音にも私は緊張を強いられた。

 子どものころに読んだヨーロッパの森に絡む話、グリム童話の数々が思い出される。

 木々の梢を渡る風の音が人の声のように、しかも箒に乗った魔法使いの老婆のようにも聞き取れる。

 空想が怪しく私を翻弄し、傍らで楽しくお喋りをしているバシャまで、もしかしたら、などと思わせた。

 静かに流れるせせらぎの岸にビニールシートを敷いて食事を取った。

 温かい紅茶が体内を暖めてくれる。バシャと何の話をしていただろうか。今は記憶の外に置かれてしまったが、きっとポーランドの現状についてか、日本の若者たちの生き甲斐について話していたのだろう。私は寒さに震えながら、バシャと夢中で話をしていたことだけは覚えている。

  バシャは私との抱擁から身を放すとベッドに並んで座った。

 ゴウォンブ氏の五人兄弟の末の妹で、ゴウォンブ氏の妻君の母親が病に倒れてからは、ずっとバシャが私の身の周りの世話をしてくれていた。

 ひょんなことから二人だけでジェラゾヴァボラからカンピノスへ足を延ばしたあの日から、彼女を『バシャ』と呼ぶようになった。

「長かったわね。もうあれから五ヶ月にもなるのよね」

 バシャも同じことを感じていたのか、感無量といった声で言った。





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