雪解け 第7回




森亜人《もり・あじん》

 本当に長かった。限りある滞在期間は一年、その半分を寝て暮してしまったのだ。これでは何をしに来たかわからなくなってしまいそうだ。

 私は彼らの並々ならぬ好意に対して、また、自分の責任においても、滞在予定を延長してもらうよう、ワルシャワ盲学校と日本の盲学校へ願い出るつもりでいる。

 もしかしたら日本側が許可してくれない場合もあろう。そのときは退職してでもワルシャワへ残るつもりになっていた。それも、病気が重く、春を待たずに命を失うかもしれないという今年の初め頃には考えもつかなかった。

 来る日も来る日も息をするのも苦痛だった。熱が下がったかと思うと、再び高熱に見舞われるという日が続いた。その度に、私は絶望し、甲斐がいしく介護してくれているバシャに辛く当ったりもした。

 バシャは私の露骨な介護拒否に対し、それには何も応じないで窓際に立っていって、窓から見えるワジェンスキ公園の冬枯れた様子を独り言でもいうように話してくれた。

「旧市街地にある古い建造物のほとんどはドイツ軍によって破壊されたのよ。教会もお城もね。でも、わたしたちは写真や老人たちの記憶を寄せ集めて瓦礫の一つ一つを拾い集めて復元したのよ。どんなに打ち壊されても昔のままに復元したわ。完全に不可能だと言われてもよ。根気よく石を集めて積み重ねていったの」

 ワルシャワ市内の古い建造物が復元した話はバシャばかりでなく、多くの人の口から聞かされた。どの人も誇りをもって語ってくれた。

 思えば、日本文化は木と紙の文化と言われている。ヨーロッパの石の文化との違いかもしれないが、それと私の病気と何の関係があるのかと言いたかったが、そう言いきれない何かがバシャの話に含まれていた。

 でも、こうしてバシャと並んでベッドに腰かけて話せるようになった今は新たな考えが自然に湧き上がってくる。今は一年前と比べものにならないほど痩せている。しかし、二月三月の初めのころのことを思うと、嘘のように身内から何ともいえない力が湧いてくるのを感じる。これが生命の源なのかとも思う。私は傍のバシャの手を求め

「バシャ、元気になれそうな気がするよ。全て君のお陰だ。口でお礼を言うと何だか薄っぺらになってしまいそうだけど、本当に心から感謝している」

「去年カンピノスの森へ行ったでしょ。わたしは済まないと思っていたのよ。あのとき、あなたは寒そうにしていたわ。そのことに気づきながら、わたしは帰ろうともしなかったわ。とても楽しくって帰るのが惜しかったのよ。あれが元で病気を重くしてしまい、肺炎まで併発させちゃったんですもの。あなたがもしものことになったら、わたしも同じ道を行くつもりであなたのお世話をさせてもらっていたの」

 私は何も言えなかった。彼女がそんな気持でこの五ヶ月ものあいだ傍に付き添っていたのかと思っただけで、胸がふさがりそうだった。

 そんな気持で私の面倒をみていてくれたとも気づかず、どれほど彼女を悩ませたことだろうか。独りよがりなもの言いしかしていなかった。別に彼女の不注意とも思っていなかったので、彼女が負い目を持ち続けていたことに心が痛んだ。

「これからは日一日と元気になっていくわ。栄養のあるものをたくさん食べてもらうよう、お料理に腕を振るうことにするわ。わたしも元気が増しそうよ。ありがとう」

 バシャは私に取られた手を上下に振り、元気よく立ち上がった。そして、朝食の支度をしてくるわね、と言って部屋を出ていった。

 私はバシャに取られていた手をベッドに置いた。彼女のぬくもりが残っている部分を撫でてみた。バシャが今まで座っていたところに窪みができている。私はそこへ頬ずりをしたいほどの恋慕に突き動かされた。

 キッチンから、再びマリア様のマントはいつも青空、という賛美歌が聞えてきた。さっきよりハイテンポになっている。私も知らず知らずのうちに覚えた詩を口ずさんでいた。

 堅牢なこの屋敷は三階建てで、私に与えられた部屋は二階にある三室のゲストルームの一つだった。建物全体で部屋数が幾つあるか半年になるが知らない。ゴウォンブ氏の家族は親子五人だが、いつでも人が住んでいないと思うほど静かだった。

 床に就くまでは、盲学校の敷地内のドームの一室を借りていた。ところが、肺胞性肺気腫から併発した急性肺炎で入院し、退院後はゴウォンブ氏の家に世話になっていた。

 彼らの家と盲学校とは、ワルシャワ市内を挟んで南北の位置に当る。バシャは私の面倒を見たいということで、私は校内のドームを引き払ってきた。ここへ来る背景に、バシャの思いが存在していたことなど、彼女の口から聞くまで全く思いもよらないことだった。

 私を招請した立場上、面倒をみてくれたくらいに思っていた。ところが、バシャの言葉を聞いて、改めてゴウォンブ氏の一家に済まないと思った。誠実そのもののバシャなら嘘ではあるまい。そう思うと、なおのことずしりと腹に応えた。

 バシャが朝食の膳を乗せたワゴンを押して入ってきた。ベッドの脇のテーブルに一つずつ乗せながら

「今朝は前途に希望が出てきたからわたしも一緒に頂くわ」

 そう言って、バシャは部屋の隅から椅子を運んできて私の前に座った。

 いつもなら、朝と夕の食事は私のために給仕をするだけで、自分は家族の者たちと階下で取っていた。よほど私の状態が好転したことが嬉しかったのだろう。

 思えば本当に長かった。過去においてこれほど長く患った覚えはない。それだけに、死の恐怖が常に私の周囲をうろついているような錯覚に捕らわれていた。

 バシャの声が少し鼻に掛かっているようだ。さっき私の手を取って逃げるようにキッチンへ行ったのは、もしかしたらしばらく一人になりたかったのかもしれない。

「ほんとならワインで乾杯したいところだけれど、まだ無理だと思うので先に譲り、今朝は紅茶で祝杯を上げましょう」

 バシャはそう言って小さく鼻をすすった。





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