夕映えの中に 第1回


森亜人《もり・あじん》



 両岸に葦が密生している土手道を、和幸は朝美と歩いていた。

 和幸は、高く広がる空を見て、思わず

「蒼穹だ」

 と口にした。

 舗装された道路を行き交う人影はない。時々、前方から車が夕陽にせき立てられるように近づく。そして、水音にエンジン音を紛らせて遠ざかっていくくらいなものだった。

「なぁに?」

 朝美が振り仰いで聞いた。和幸の唇が『蒼穹』とくり返したまま固まっているのに引き寄せられて朝美の唇も思わず尖って何かを受ける形を取っていた。

和幸は、自分で言った『蒼穹』という言葉を、『穹窿』と言うべきだったと思いながら、朝美のふっくらした頬を、そっとつつきながら微笑みかけた。

 なぜなら、和幸がいつも見慣れている空は、遮るもののない伊豆七島の八丈島だったからだ。ここは周囲を山に囲まれている場所だ。ドームを拡げただけの盆地だった。だから、やはり『穹窿』のほうが自分の感じたことを言い当てているように思えたのだ。

「いや、この空を見ていたら、ついぽろっと言ってしまったんだよ」

 と、朝美の黒髪に、指を絡ませて言った。

「ほんとね。山を壁にたとえれば、空はドームの屋根ですものね」

 和幸は、左の腕を朝美に取られて歩いていた。彼女の厚みのあるぬくもりが腕を通して伝わってくる。湯豆腐のような柔らかさと、朝美が何か、はっとした時には、それがまた、スポンジのようにも変化するのだ。

「へぇ、朝美は穹窿を知っているんだ」

「驚いた? 祖父は読書好きで、わたしが小さい時から、難しい言葉を書いては教えてくれたものよ。朝美の声はとてもきれいだから、『迦陵頻伽』だって」

 そう言って、朝美は、和幸の腕に絡ませている右手の人差指を立てて透明な板に書いてみせた。

 和幸が朝美を知ったのは数ヶ月前、いや、遥か十数年前といっても良いかもしれない。

 確かに、『知った』という言葉の裏面には違いがある。数ヶ月という言葉の中には、男と女の深い関わりがあり、十数年前にはそれがなかった。

 その出会いは、あまりにも唐突で、あまりにも劇的で、あまりにも瞬間のものだった。

 それにもかかわらず、和幸の心に深く刻み込まれた朝美の全身から発散する若い命のたぎりが、十数年前に別れた時と同じように、発散する香気となって、和幸の全身を覆ったのだった。

 誰も通らない土手道を歩み続ける二人の足元を掠めて燕が空気を引き裂いて舞い上がっていった。朝美が和幸の肩越しにちょっとつま先立って振り返り、中空の淡い空気の層の中に吸い込まれていく燕の後ろ姿に視線を走らせ思わず小さく叫んだ。

「どうした?」

 朝美が和幸の腕を固く胸に抱いて振り返ったため、彼女の胸の弾力がもろに和幸の左胸に圧力を掛けてきた。和幸は、少なからず年にも似合わずうろたえ、自分でも笑ってしまいたくなるような頓狂な声を発した。

 腕を組んでいても朝美と彼との間には、彼女が和幸のためによく作ってくれるチーズケーキのような甘い空間が何気なく横たわっている。和幸は、その濃密で、どこまでも舌をとろかしてしまうチーズケーキそのものの空間が、さも、朝美の精神のほとばしりのように感じたのだった。

 土手道は視線の及ぶ限りどこまでも続いているわけではないはずなのに、和幸には永遠に続く道に思えた。珍しく、人も車も通らないことがそう思わせたし、周囲に広がる田園に人の影も差さないことも手伝っていた。

 人影のない景色は、現在暮らしている八丈島にもある。こことの違いは、八丈島は目の届くかぎり青海原だということだ。もちろん、島にも山はある。火山もある。だが、和幸のマンションから見えるものは太平洋の怒濤だった。周囲を山に囲まれている狭い盆地にも人影の差さないところのあることが不思議に思えたのだった。

 和幸は、荒々しく岸壁に打ち寄せる太平洋の怒濤が好きで、皆が敬遠する辺鄙な出張所のある八丈島へ昨年の移動で単身赴任したのだった。

 波の頂点が二つに割れ、漁師たちの言う、『兎が飛ぶ』という状態になると、マンションの窓を揺り動かすような南の風が吹きつけてくる。和幸は、荒れ狂う波濤をじっと眺めているのが好きだった。他人に、特に漁師たちに言えば殴られてしまうだろうと思いながら、飽かず空と海が混沌となる様子を見ているのだった。

 海も空もごちゃまぜの中に、自分の精神を思い切り叩き込むことで、日頃の鬱屈している心が休息を得られるのだった。会社において、課長になったにはなったが、決して順調な出世ではない。いつも自分の背後には妻の父親がちらついているのだ。そんな環境に平然としていられるほど、和幸は心が強い人間ではなかった。

 和幸は、幼い頃から、ひとりで自然の中に首まで浸かってぼんやりしていることが好きだった。夕立が激しく大地を叩いても友達のように慌てて家に飛び帰るようなことはなかった。全身がずぶ濡れになっても大地を叩く雨粒をじっと見つめていた。

 そんな和幸だったので、妊娠四ヶ月の女を押しつけられてもどうでもよかったのだ。結婚当初は妻も遠慮ぎみな態度を示していたが、次女が生まれてからは本性をむき出し、なにかにつけて和幸に反発するようになった。

和幸も和幸で、それなら自分も、というつもりでもなかったが、家に帰るより自然の中に身を置く時間が増えていったのだ。

 妻の母親は優しく、この人からどうして妻のような娘が生まれたのかと目を疑うほどの好人物だった。義母をひとことで言うなら、『温柔敦煌』とでもいうのだろうか。家柄といい、財力といい、申し分のない立場だったが、不祥の娘を受け入れてくれたということで、和幸には常に腰が低く、妻とのあいだに争いが起きても、義母は和幸の側に立ってくれていた。

 ところが、八年前に、義母は肝臓に癌を発症し、気づいた時は全身に転移していて呆気なく逝ってしまったのだ。

 義母が逝ってしまうと、妻のわがままは雑草のごとく勢いを増し、和幸にはどうにもならなくなってしまったのだ。妻には上に二人の兄がいたが、女は妻だけだったので、義父はからきし駄目で、兄たちも十才も年下ということもあって、言いなりにしていたのだった。

 昨年の春、和幸の勤める会社から義父の息がかかっている本社へ栄転するように内示があった時、和幸には珍しく、強行に拒み、栄転どころか左遷に等しい形をあえて選び、八丈島の支社に移動させてもらったのだった。

 結婚して十五年、凡庸な和幸にもひとりの人間としての意識が高まってきていた。家にいても、会社にいても、どことなく自分を失っているように思え、尻がむずむずしていたのだった。

 妻は、和幸を別世界の人間でも見る眼差しで冷やかに見ただけで
「あなた、生まれもっての馬鹿じゃない。行きたかったらどうぞ」

 と、にべも無く言って、それきり耳を貸そうともしなかった。

 妻のそのような返事は、和幸が転勤を口にする前から承知していたことだったが、一応、相馬家の主という立場で言ったにすぎなかったのだ。

 事実、名もないような会社の課長の運んでくる給料など、渋谷の繁華街に手広く店を構えている妻の収益からすれば、雀の涙くらいなものだった。自然、娘たちの父親に向ける視線にも、軽蔑とまではいかないが、確かに軽視するところがあるのも仕方のないことと、和幸は卑屈にも納得させられていた。

 住居のある杉並の家屋敷も、妻の親から結婚に当たって相続したものとなれば、和幸の腰を落ち着けてくれる場所は無に等しかったともいえよう。

 八丈島へ転勤してからの和幸は一度も妻子のいる家に顔を出さずじまいだった。そのこと自体で、妻に申しわけないとか、二人の娘たちに寂しい思いをさせているのではないか、などと考えたこともなかった。

 高校生と中学生になった娘ともなると、父親の存在は不潔なものとしか写っていないのだろう。妻からも娘からも口を利いてもらえなくなったことも転勤するきっかけになっているのだが、もともと和幸は海が好きだった。そして、その反動でもないだろうが、山にも興味をもっていたのだ。


 川面にきらめく太陽の幾筋かの乱舞が模様を作って水面に陰影を形作っている。輝く部分と暗い部分との境界線が、和幸に暗鬱な群雲のように見え、思わず視線を朝美の横顔に向けた。

 東京を去って一年半になる。和幸の心を占有していた家族というしがらみの呪縛はいつとはなしに薄らいでしまっていた。だが、傍らを楽しそうに歩んでいる朝美のことを思うと、自由気ままを好いて八丈島へ移ったことに反する結果を生じることを予感させられ、つい心の底でため息をついてしまうのだった。

 いつもなら眼鏡を掛けている朝美だが、きょうはコンタクトを入れているらしく、彼女の瞳の深い部分は隠されていた。だが、横顔はきょうの空のように晴れ晴れとしていたし、オレンジのルージュを塗った唇にも翳りは見られなかった。

 足元を掠めていった燕ではないだろうが、また一羽、川面を翼で撫でるように掠めてたちまち頭上に飛翔していった。間もなく南の国へ飛び去っていく彼らは、充分に栄養を補給しているのだろう。

―― 充分に栄養を補給している ――

 それは、そのまま横を歩いている朝美に繋がってしまう。

 朝美のスタイルをとやかく言うことはない。和幸にとって、朝美の全てが好もしい。  唇の端から頬に掛けてなんともいえない色気がある。それも、和幸でなくては知り得ない色気だ。つぼめた口元は、他人の目には女のまやかしくらいにしか映らないだろうが、和幸にはその口元といい、つぼめた唇の尖端といい、この上もなく愛らしく、どうしても触れてみるか、自分の唇で覆ってしまいたくなるのだった。

「和幸さん、あの燕、鷹に捕まったみたい」

 朝美は、和幸の左腕を更に抱き締めて悲しそうに言った。そして、右頬を和幸の肩にしっかり押しつけてもう一度、

「燕が鷹の餌食になるなんて…」

 と、水音に解け込んでしまうほどの声で言った。

 和幸は、朝美にそう言われて振り返ったが、それらしい陰は見当たらなかった。

「あそこよ」

 朝美は、和幸の左腕を胸に抱き締めたまま、遥か東の空に意識を向けさせた。

 やがて、時が流れて霜を置くようになれば、山の頂きから紅葉が始まる。今は初秋の澄んだ空の一点に勝ち誇ったように羽を悠然とひろげて飛び去る鷹の姿があった。

 鷹の飛び去った方向にこそ、朝美と出会った場所があった。和幸は、朝美に取られた左の腕を彼女の背に回してそっと引き寄せた。

「燕が鷹に捕まるはずないよ。まるきりスピードが違うんだからね。それに、鷹が隠れて燕を襲えるような高い木もないじゃないか」

「だって、わたしが振り返った時、燕が鷹の下でくしゃくしゃとなったみたいだもん」

「たぶん、燕は鷹の襲来に気づいて急転直下し、地面すれすれを飛び去ったと思うよ。ほら、あの燕が朝美の言うやつと違うのかなぁ…」

 今また、水面を掠めて飛翔していった燕を指ざして、和幸は言った。

「みんな同じように見えちゃうもの。わたしには分からないわよ」

 朝美は、不安そうに葦の陰に姿を消した燕の姿を追って首を廻らした。肩まで伸ばしている髪が揺れた。耳たぶにチョーチョの形をしたピアスが夕陽を吸い込んで、ちかっと光った。

「んだね。でも、朝美の言うように、鷹に襲われたのなら可哀そうだったね」

 和幸は、十数年前、初めて出会い、そのまま別れた朝美の少女の初々しさを懐かしく思い出していた。





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