夕映えの中に 第2回


森亜人《もり・あじん》



 あの日も雲一つない晴れ晴れとした高い空が周囲の峰の彼方まで広がっていた。確か、あの折りも空を見上げて『穹窿』だなぁと口にしたように記憶している。

 和幸は久しぶりに取れた休暇を使って山へ出掛けてきた。いつもなら、海の波を求めて八丈島か御蔵島へ行くところだったが、台風の去った直後だったので山に切り替えたのだった。

 登山も趣味の一つだったが、今回は、たとえ山国でも紅葉には早いが、林の中を歩いてみたかったのだ。だから、いつものような登山支度の物々しいものではなく、ごく軽装でナップサックと愛用のカメラだけを持ってきたのだ。

 最初、野辺山高原に行くつもりだったが、九月の連休でたぶん、ハイカーで賑わうだろうとそこを避け、蓼科へ足を向けた。蓼科といっても、俗に言う『蓼科銀座』と呼ばれていない場所を選んでやってきた。

 『縄文のヴィーナス』で有名になった尖石の考古館のある与助尾根を離れ、次の沢筋に向かった。一時間ほど周囲の佇まいに心を和ませながら渓流を登っていった。

 妻は、社長の勧めで観念して一緒になったという経歴の相手だった。しかも、妊娠四ヶ月だという。相手の男があまり好ましくない部類に属する人物だったので、彼女の両親ほか、親戚一同が画策してのことだった。

 別に不満があってというわけでもないし、結婚そのものに興味を持っていなかった和幸には、どうでもいいことだったのだ。

 独身時代からの我侭とでもいうか、その時も、やっと手に入った数日の休暇を一人で過ごしたかったのだ。

 川底まで見通せる濁りのない水流が音高く両岸の深緑の林に響く中、和幸は会う人もなく口笛を吹きながら登っていった。

 ほとんど道らしいものもない林の中は自分だけしかいないだろう。そう思うと、この美しい自然が自分のもののように思え、和幸は思わず口笛を吹きたくなってしまったのだ。

 今が早朝なら、林の中は小鳥の囀りで溢れているだろう。だが、今は午後も三時近い。ウグイスの笹鳴きのチャチャチャという声や、上空を掠めていく鷹の声が聞こえるくらいだ。もう少し季節が進めば、こんな晴れ晴れとした日には気流に乗って南へ帰っていく差羽のキンミーという声が聞こえるだろう。

 数日前まで降った雨の恵みだろう、林の中にはキノコが絨毯を敷き詰めたように生え出ている。地元の人がジコボーと呼んでいる猪口だ。和幸がこの地を訪ねた時、旅館で夕食に出されたキノコを思い出した。

 これほどのキノコが地元の人の目につかないのも不思議だ。もしかしたら、猪口によく似た毒キノコなのかもしれない。

 和幸は、宿の主人に見てもらえばと思い、見事に生えているキノコの絨毯をカメラに収めた。落葉松の林がいつの間にか雑木林になっていた。枝に絡みついたアケビが口を開いて甘い匂いをただよわせていた。

 樹幹に絡まるツルクサもまだ瑞々しさを保っている。

    桟や いのちをからむ 蔦かずら

 と、芭蕉の詠んだかけ橋とはまるきり違う現代風のしっかりした橋が木の間隠れに見えてきた。

 和幸は林道から流れに沿って伸びている獣道へ出ていった。とその時だった。彼の視線の端に赤い布のようなものがふわりとひろがり、漂うように落下していくのが見えた。と同時に、林間を震わすような悲鳴が音立てて流れる水音にからむように聞こえてきた。

 あとは無意識の行動だった。和幸は背に負ったナップサックとカメラを草むらに放り出し、靴や帽子を上着と一緒くたにまるめて脱ぎ捨てると、身を躍らせていた。

 ここいらの水深はたいしたことはない。だが、数日間も降り続いた秋雨は日頃の水量を凌駕し、大人の腿くらいにはなっていよう。

 その上、流れが激しい。大人でも足先を上げて水の中を歩くことは難しいはずだ。まして、女の子。深くて立てないということはないが、この早瀬では立ち上がることは至難の業だろう。

 和幸が飛び込んだ地点より十数メートル下流には岩が幾つも林立している。そこへ押し流されていったなら軽い怪我では済むまい。

 和幸は、関取が弟子たちのために稽古をつけるためのぶつかりの構えを取った。両足を水底に押しつけて流れてくる女の子を待った。迎えにいくようなまねをしたら、自分も危ないと判断したからだ。

 女の子と自分の位置を読んでみた。この位置では自分の脇を流れ去っていく。和幸は、足裏を浮かさないように全神経を足裏に集中させて、じりっと身を寄せた。

 女の子は激しくもがいている。立ち上がろうとしては水中に倒れ、したたか水を飲んでいるようだ。顔を少し上げた時に、おびただしい水を吐き出し、げぼげぼとせき込んで流れてきた。

 遠浅の海浜に打ち寄せる水とはあまりにも違うこばみだ。厚い鉄板のようだったり、鋭利な刃物のようであったりする水を、年とともになまってきた腕に力を込めてかき砕き、足に体当たりしてくる鉱物質の水を歯を食いしばって受け続けていた。

 命を持った赤い布は、今や和幸の目の前を身悶えながら流れてきた。浮き沈みして流れてくる赤い布にくるまれた少女に、渾身の力をふりしぼって近づいていった。

 和幸が手を掛けると、いきなり彼の腕にむしゃぶりついてきた。人のあらゆる行動を拒もうとする流れが、和幸と赤い洋服を着た少女を水中に誘い込んできた。ここで倒れたら二人とも歯をむき出している岩の餌食になるほかない。

 激しい流れの中から和幸は少女をすくい上げた。というより、少女の下顎に両手を掛けて水面の上に出してやったのだ。少女は流れに押されて水中にしっかりと足を踏ん張っている和幸の体に手足を絡めてきた。ちょうど、幼子が親に甘えて絡みつくように全身を和幸に絡めてきたのだった。

 和幸は、女の子を包み込んだ。十数メートルを足掻きながら流れてきたとは思えないほどの元気さで、女の子は和幸の腕の中で身をもみしだいた。

 和幸は、しばらく女の子の成すがままにさせておくほかなかった。ここで急いで身を動かしたなら、水の力と女の子の抵抗に足を掬われる危険があったからだ。

 和幸は、子どもを抱いた格好で風呂に入っていることを思った。現在、新妻の腹の中には八ヶ月になる子どもが宿っている。その子が女の子か男の子かわからないが、いつの日にか、こうして胸に抱いて風呂に入ることを考えてしまったのだ。

 充分に呼吸ができることを知った女の子は、和幸の腕の中でやっと暴れるのをやめた。和幸は、体の芯まで冷えてきたことに気づいた。足元に気を配りながら、ゆっくりとカニ歩きで岸へ近づいていった。





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