森亜人《もり・あじん》
第1章
私は、こたつに足をつっこんで、久しぶりに地方紙に目を通していた。例年にない寒さのためか、老人の死亡広告が目立つのも寂しい。
全面結氷の湖上で、家族づれや観光客らが、携帯用のガス焜炉を真ん中に、釣り上げたばかりのワカサギの天麩羅をほおばっている様子が記事とともに掲載されていた。
私は、少年のころを思い出して、ついほほ笑んでしまった。
祖父の釣り上げたワカサギを醤油の中に泳がせ、それを炭火の上の金網に乗せると、何ともいえない香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
私は、匂ってくるはずもない醤油の焦げた匂いに目を上げた。窓の外は冬景色が広がっている。遠くの峰は、冬のやわら日に白くかがやき、雲ひとつない空をジェット機が音もなく去っていくところだった。
私は新聞を畳の上に広げて見ていた。ちょうどめくったページに、日焼けした若者の顔が私を見上げるようにして笑っていた。
その男の顔に視線を当てた瞬間、体のどこかで音がした。しかもその音は、ある種の痛みを伴っていた。
写真の男が自分と深いかかわりを持っていることに気づくまでの数秒間というもの、私の精神は、肉体もろとも時空間に吸い上げられていた。
「奥村隆夫」
私の口をついて出た言葉はこれだった。
私は、逸る心を抑えて紙上に掲載されている文面を読んだ。
今朝未明、S町の路上に男の変死体を出勤途中の会社員が発見し、S署に通報。
S署の検死によると、死後数時間。死因は凍死もしくは、病死。
死体の状況で印象的なのは、スコッチ・ウィスキーを大事に抱えていたことと、清潔な服装をしていることだった。
所持品中、本人と認め得るものとして考えられるものは、古ぼけたパスポート。これが男と一致するか、パスポートに記載された県に紹介中。
これが紙上に掲載されている奥村に関する記事だった。
私と奥村隆夫とのかかわりは、遠い昔にさかのぼらねばならない。といっても、たかだか十年にも満たない歳月だろう。たったそれくらいの時の隔たりだというのに、私にとっての奥村は遠い過去の人に思われた。
その時の空白が、何ページにもわたって何も書き込まれていない日記帳のように感じられるのは、彼が忽然と姿を消すように、どこぞの遺跡の調査に出かけたきり数週間も数ヶ月も音信不通になってしまうことがあったからだ。
彼と最後に会ったのは、八年前のことで、新緑も美しい五月の末のことだったと記憶している。その記憶もかなり曖昧なもので、押入れの奥にしまい込んだダンボール箱のなかから当時の日記帳を開いてみて思い出さなければならないほどだった。
それ以後の日記帳に奥村の名は出ていない。自分でも封印しておきたい自分の周辺の出来事が、ペンの足も重そうにしたためられてあるばかりだった。
気ままな彼のことだから、どこぞの山に分け入って、古代のロマンを捜し求めているだろうと、深く考えてもいなかった。だから、この新聞記事に接して、ただただ驚くばかりだった。その彼がパスポートをポケットに忍ばせて私の家の近くで行き倒れていたとは。
あれから八年、私は、彼のことをすっかり忘れていた。三年前私は、結婚したが、彼に送った招待状は、受取人不在の紙をつけて戻ってきた。現在、妻と離婚こそしていないが、別居中という生活をしているところだ。特に夫婦のあいだにどうしようもないほどの亀裂を生じたということではない。お互いに気まずくなると、三日でも四日でも無言でいるということが重なって、気づいたときには離れて暮らしていたというだけのことだ。
私は、奥村のことを『身元確認中』などと書かれ、過去の友人の一人として黙っているわけにもいかず、警察へ足を運ぶことにした。
一滴の酒も飲めなかった彼が、ウィスキーの瓶をしっかり抱えて行き倒れていたなどと、大学時代の連中に話しても、一人として信じないだろう。私でさえ彼の死を告げている記事を繰り返し読んで、これは事実なのだと思うようになったくらいだから。
その彼がどうして? という疑惑が、私の心を捕らえて放さない。それは、あたかも、樹間を縫って立ち上がり、見る間に樹海を覆う山霧に似て、私の思考に絡みついてくる。
この町に彼の親戚はない。その彼が、この町の一隅で行き倒れたということは、私を訪ねてきたのに相違ないのだ。きっと、私を驚かすつもりだったのだろう。そうでなければ、電話もしないで、しかも私の家の近くまで来ていながら行き倒れるはずはないのだ。
私は、彼の死を認めがたい思いのまま、警察に出頭した。そうして、死体がまぎれもなく奥村隆夫であることを確認した。過去に幾人かの死に顔と対面したが、きょうほど、もの言いたげな死に顔を見たことがない。彼の凝固した表情を見ているうちに、彼の過去が私の心を屈託しはじめた。
奥村は、地質学や考古学に情熱を傾けていた。太い眉を寄せて、土中から掘り出されたものを見つめるときなど、日ごろ、親しくしていても何となく近づくことを遠慮しなければ申しわけないような雰囲気を持っている男だった。
その奥村が何故? という茫々とした疑問が私を捕らえた。黒革のジャンバー、暖かそうなスキーズボン、黒のブーツ。軽装だったが、私の記憶にある限りの奥村としては、正装の部類に入る姿だった。
だが、彼の容貌には疲労がありありと浮かんでいた。古代のロマンを追い求めていたころの躍動感は死者のおもてにはない。固く閉じた唇の端に、昔を偲ばせる頑固さだけが窺われるだけで、穏やかすぎる死に顔に、私の心は一層屈託するのだった。
警察は、私の出現に安堵したらしく、それでも遠慮がちに
「あのですねぇ…、この仏さんをですなぁ…、あなたさえよかったら弔ってもらえないでしょうかねぇ」
と言って、あとの言葉をにごしてしまった。
要するに、弔うということは、彼の遺体を、全ての手続きが済んだのちに引き取れと解釈することらしい。私もいまは独り身。友人として黙っているわけにもいくまい。
既に両親を失っている彼に血縁の濃い親族はいないはずだ。親戚関係がどうなっているか知るよしもないが、苦労を承知で、私は、全てを引き受けることにした。
まず、私は、大学時代の友人たちに連絡を取る一方で、彼の親戚関係を洗うために、彼の出身地である茨城県の町へ調査依頼をした。一週間後、彼の生まれ故郷へ集まった人数は、私が想像していたものよりはるかに多いもので、丁重に彼を弔うことができた。
奥村の野辺の送りから葬儀の全てまで、彼の親戚の者たちと共に行ない、S町へ戻ってきたのは葬儀から四日めのことだった。彼がこの町へやってきたのは、私に会うのが目的であったろう。ただ懐かしさだけとは思えない彼の死に顔に、幾つかの疑問を残しながら、日は過ぎていった。
私の生活は、彼の変死の記事を見つける前と同じに戻り、彼の過去の思い出だけが、古ぼけた写真のように、私の心に固着しはじめたころのことだった。
会社から帰宅すると、大きな荷物が六個と、一通の便りが、私の帰りを待っていたかのように、玄関先に重ねられていた。
私は、荷物を解く前に奥村の分厚い手紙を開封した。
親愛なる田沼孝治君
君の驚いている顔が目に浮かぶようだ。あれから八年になるんだからねぇ。われながら驚いている。突然姿を消したときには驚いたらしいね。らしいと言ったのは人伝に聞いたからだ。そのとき思いきって内情を知らせようと考えたのだが、今更とりつくろったことを書き送っても自分の心は冴えないと思い直したんだ。
田沼、今こそぼくは、全貌を明らかにしたいという内なる欲求にせかされてペンを急がせている。その理由はおいおいわかると思うから、順を追って書いていくことにしよう。
ぼくは、現在ローマにいる。ずっとローマにいたわけではないが、とにかくテルミニ駅の近くにいる。
ここはアパルトマンの五階で、大した家具もないが、住むだけなら充分と言える。
ローマに来て二年になる。ぼくはいま、独りで暮らしている。『いま、独りで暮らしている』と言ったのは、三ヵ月前までは二人で暮らしていたという意味が含まれているんだ。それもやがてわかると思う。
便箋をめくったとき、小さな紙片が床に舞い落ちた。私は、名刺ほどの大きさに折り畳んだ四つ折りの紙片を拾い上げた。それにはこう書かれてあった。
『おい田沼、ぼくは急に帰国したくなった。八年の空白を文字で埋めようとしてきたが、もどかしくなってしまった。だから帰国する。君の好きなスコッチウィスキーを手土産に持っていくから待っていてくれ。ぼくも長年の外国暮らしでいくらか飲めるようになった。グラスをカタカタいわせながら語り明かしたい。待っていてくれ田沼。
これは万一のことだが、君に会えない事態が生じたときは、君に送った荷物の処分をすべて任せるからよろしく頼む。では、再会を約して…。』
私は、彼の死体の状況を思い出した。スコッチウィスキーをしっかり抱えて死んでいた彼。
―― もしやあいつは自分の死を直感していたのでは…。 ――
私は、不吉な予感。もう予感ではない。既に奥村は死んでいる。彼は死の近いことを知っていて、それで急ぎ帰国したのではないだろうか。何のために? この私に何を言いたかったのだろうか。私の空想は果てしなくさ迷う。
彼の死に顔と対面したときは、ただ会いにきただけと思っていたのだが、彼には病苦をおしても、私に会わねばいられない目的があったのだ。どこかの遺跡か、地質調査のために山に入っているとばかり思っていた奥村。八年前に何のために外国へ飛び出していったのだろうか。しかもいったきり八年間も…。
ローマには二年前とあるが、その間、どこを遍歴していたのだろうか。三ヵ月前までは二人で暮らしていたとあるが、誰と生活を共にしていたのであろうか。二人というからには相手は女であろうが、いったい誰と…。日本人? イタリア人? それとも他の国の女だろうか。
では、どうして三ヵ月前からは一人で暮らしているのだろうか。離別? 死別? 考えを押し進めれば押し進めるほど疑問が惑乱する。愚かな推知に時を空しくするよりも、今では遺書となってしまった彼のノートを読んだほうが賢いかもしれない。
しかし、大学ノートいっぱいに、細かい文字でびっしり書き込んだものを一挙に熟読するときがなかなか巡ってこなかった。
立春も過ぎ、二月も半ばになっていた。荷物が届いて二週間にもなる。春を思わせるような土曜日の午後、私は、彼の荷物を解いた。日当たりのいい窓際に椅子を引き寄せ、背もたれに身を預けて、まずは、荷物とは別便で送ってきてあった大学ノートを開いた。
たぶん、読み終わるころは、たとえ窓際でも点灯しなければならない時刻になっているだろう。いや、もしかしたら私のことだ。途中で思索に耽り、読み終わるのは夜中になるかもしれない。たとえ、きょうが明日になろうと読み続けることになってもかまわない。
どうせ明日は日曜日だ。誰からも妨げられる心配もなければ、迷惑を掛ける人もいない身だ。私は、奥村が大事そうに抱えていたスコッチウィスキーのボトルと、カットグラスを脇に置いて読みはじめた。
彼の空白期を埋めつくす一枚一枚を心に焼き込まねば、スコッチウィスキーの瓶を持って、病苦と戦いながらここまで来て、行き倒れた奥村の意志に申しわけない。
私の心には、彼への哀惜の念が募り、それまでの薄情さを思うと、彼に対し、慚愧が波のように騒ぎ立てた。生きていれば、こんな気持ちで彼の空白期を埋めなくても、彼の奔放な語り口で充分満足させてもらえたものを…。
それを思うだけで、私は、双肩に大きな石でも乗せられたように、ふっとノートから視線を外した。
彼の葬儀のために誂えてもらった遺影が机の上で笑っている。死に顔とはあまりにも違う平和な表情に、私は混沌とする思いをいかんしがたく窓外に目を移した。
春を思わせるぬくもりと裏腹な感情のまま、私は、彼の文に視線を落とした。