残照 第2回


森亜人《もり・あじん》



      第2章

 七月初旬、モスクーの午後七時は昼間と同じだ。閑散とした空港ロビーの窓から赤々と日が差し込んでいる。ぼくは長椅子の端に腰をかけて外を眺めていた。

 少し離れたところで、モスクーに滞在していたらしい商社マンが、次の滞在地へ行くところだと、ヨーロッパ見物に行く中年の婦人に話をしているのを小耳にしながら、ぼくはぼんやり窓外を見ていた。

 和服のよく似合う夫人が、少し緊張している青年に、心のゆきとどいた注意を繰り返していた。たぶん、婦人も過去に、そういう経験を持った夫に仕えているのであろう。

 モスクーに寄港するのは、これが三度目だ。ぼくの今回の目的は二つある。一つは以前から悩んでいたこと。もう一つは、二日前にぼくの心を駆り立てる写真に遭遇したことだ。最初の理由はいまは話せない。だから、もう一つのほうから話すことにする。


 ぼくの心を駆り立てたという写真とは、一枚の洞窟の写真だ。

『LES GROTTES de LA BALME(レ グロットゥ ドゥ ラ バルム)』と言って、ローヌ河上流の山中にあるものだ。

 ぼくは写真を見てギクっとした。洞窟の全景を写したものらしいんだが、大岩の部分で、地表から三、四メートルくらいの高さ一帯に引っ掻き傷のようなものが見えたんだ。

 ぼくは驚愕のために息苦しくなるほどだった。考古学に興味のない人間にはつまらない写真だろうが、ぼくにとっては、砂漠ですてきな舘を発見したような喜びだった。

 爪で掻いたような傷に夢中になってしまったぼくは時をおかずにアエロフロートの事務所に電話をした。幸運にも二日後、つまり、今から八年ほど前のモスクーの空港ロビーで日記を書いていた十時間前に空席があった。

 ぼくは出発する前に、君へ電話をした。ところが君は、アパートにも会社にもいなかった。あとで知ったことだが、君は田舎に帰っていたんだってねぇ。君のお祖父さんの容体が急変して、それで帰郷していたと聞いたんだ。

 ロビーの窓を赤々と染め抜いたモスクーの夕日(せきじつ)は、滑走路の彼方に広がる地平線に近づいていた。間もなく搭乗を知らせるアナウンスがあるだろう。親しく話し込んでいた和服の婦人と青年がゆっくり立ち上がり、ゲートへと向かった。ぼくも大学ノートを閉じ、パリに着くまでの数時間、仮眠することにしよう。


 私は、奥村の言う人伝とは誰のことかと数ヶ月前に思考を戻してみた。確かに、大学の事務のものだがと言って、私の住所を聞いてきたことはあった。それが…? あのときの女性が…? 奥村と暮らしていた女?

 残念ながら記憶は不確かなもので、そのときの女性の声を思い出そうとしても耳元にはっきりと聞こえてこなかった。

 私は、押入れから引っ張り出した日記帳を繰りながら、八年前に思いを馳せてみることにした。

 五月の末、私は、奥村と一緒に野辺山高原へいった。

 山国は芽吹いた落葉松のみずみずしさでいっぱいだった。林のなかをいくと寺があり、その周囲は畑だった。奥村は、初夏の木漏れ日が一瞬ごとに場所を変えていくなかで、楽しそうに話してくれた。

「田沼、この辺りの落葉松は、いったいいつごろから存在しているか知っているかい?」

「いつごろからとは…?」

「要するに落葉松が生育しはじめたころのことさ」

「そうだなぁ…」

 私は、地質学や考古学になど知識も興味も持ち合わせていなかった。やたらな数字を並べ立てるより、専門である彼にたずねたほうが賢明だろうと思い直して、いつごろなんだ? と聞き直してみた。

「一口にいつとは言えないが、日本列島が誕生したころと思えばいいだろうよ。でもね、ぼくが改めて言ったのは、現在日本では、富士山五合目以上か、長野県以北にしかないということさ。それこそ、三畳紀・ジュラ紀・白亜紀などと、中世代にも生えていたかもしれないがね。とにかく、最も新しい過去で、落葉松が日本中に生えていたと思われる時期は、九千年ほど前になるんだ。それが、次第に温暖な時期になっていったために、落葉松は涼しいところへと追いやられてしまったんだ」

「暖かいってどんなふうになんだ?」

「そうだなぁ。札幌はカキがたくさん住んでいた海底だったと言えば想像がつくだろう」

「あんなところにかい?」

 私は、驚いて、周囲の緑を写している鏡のような奥村の目を覗き込んだ。彼は、私の驚きを心の底から楽しんでいるらしく、真っ白い歯を見せて笑った。

 当時、われわれは学部こそ違っていてもラグビー部の同士として、涙や汗を分け合って卒業し、社会に出て二年めの初夏を迎えていた。

 奥村の郷里は茨城県で、家は大農だった。彼が大学を卒業する冬、家族は正月をのんびり過ごそうと、上越の宿へやってきた。例年にない大雪に満足し、スキーを楽しんだ。ところが、不幸にも彼等の泊まっていた宿が雪崩に見舞われた。押し潰された建物のなかから救い出されたときには、奥村の家族は他の客たちと共に、帰らぬ人となっていた。

 たまたま奥村は雪崩の下になった建物にいなかった。新館のロビーで新聞を読んでいたのだ。轟音に床は揺れ、彼はてっきり地震と思い込んで、這うように館外へ逃げ出したそうだ。振り返ると、自分たちの泊まっている建物が潰れるところだった。

 私は、彼のご両親と妹さんの葬儀に参列するため、彼の郷里に駆けつけた。車中、友人たちと一緒になったが、誰もが半信半疑だった。彼から当時の様子を聞くに及んで、皆は絶句したまま、ラグビーのスクラムを組むときのように奥村を抱いた。

 そのとき、奥村は家族の全てを失ったにもかかわらず、明るい口調で

「みんな死んだんだ。残された俺は家族の分も生きてやるんだ」

 と言ったものだ。

 私は、彼の言葉に救われる思いだった。だが、反面では死んでいった彼の家族に対し、哀れみと寂寥感とに心の痛むのを覚えた。しかし、窓から流れ込む日のぬくもりを受けながら、遺書となった彼の便りを読み進むうちに、彼に対し申しわけのないことをしたという気持ちになっていた。

 なぜなら、八年前の私は、年も若く、彼の内的惨苦に気づいていなかったのだ。彼は家族を失った悲哀を心の奥で押し殺していたのだ。太い眉の陰に憂いを潜ませていることすら、私は、気づこうともしなかったのだ。

 私の思考は再び新緑のさわやかな野辺山に移行した。

 雑木林のなかでは、鴬が甘くうっとりとした声で伴侶に呼びかけている。野鳥の囀りが、都会を脱出してきたわれわれには、天国そのもののように思われた。

「そんなに驚くことはないさ」

 奥村は、私の思考を引き戻すように、少し声を高めて続けた。

「日本は島国だが、その昔、数回、いや、もっとかもしれない。とにかく大陸と地つづきだったときもあるんだ。だから、象や犀の骨が発掘されるんだ。七千年から一万年前は、ちょうど縄文早期に当たるんだ。冷涼期といって、今の気候より二度から三度も年平均気温が低かったんだ。そうやって考えていくと、人間の寿命なんて瞬時にすぎないねぇ。素粒子のなかには、寿命が一秒の百万分の三秒しかないものだってあるんだ。とにかく、この自然界というやつは、われわれには到底太刀打ちできないものなのかもしれないねぇ」

 奥村は、山の頂き付近を行きつ戻りつしている羊の毛のような白い雲に視線を走らせながら言った。しかし、彼の口調にも、羊の毛のような雲に向けられている目の光のなかにも、その場の雰囲気と異なる心の迷いのようなものが秘められているのではないかと、私は、疑いを挟んだ。

 なぜなら、確かに奥村とは大学時代をとおして、共通する趣味をもって交際していたが、卒業とともに会う機会もないまま過ごしてきた。それが、突然、今回の野辺山行きに私を誘ってきたのだ。今、私は、彼の目の奥に、ただ新緑を楽しむためだけに自分を連れ出したのではないことを悟ったのだった。

 木漏れ日が奥村の日に焼けた顔をてらてらと写している。太い眉の先端が微妙に波立っている。ゆらめく日のせいかとも思ったが、確かにそれは苦悶の色に相違ない。

 彼の語る自然界の営みに、私は、興味をそそられたこともあるが、それ以上に、野辺山という場所が郷里に近いことで、懐かしさを感じていたためだろう。つい、彼の心情を察する心を持っていなかったのだ。そんな私をはっとさせるような語調で

「ねぇ田沼」

 と話しかけてきた。

「君は女について、いや、女と男のあいだに方程式みたいなものが存在していると考えたことなどないだろうか?」

「ううん…」

 私は、縄文時代の日本列島の古地理図を空想していた。だから、奥村の突然の問いに何と応えていいか困ってしまい、ただ口のなかで声ともつかない音を発しただけだった。

「いや、すまん」

 奥村も自分の軽率さに気づいて、顔の前で手を振りながら白い歯を見せて笑った。彼は足元の小石を一つ拾うと、数メートルほど離れた落葉松の幹を狙って投げた。

「突然どうした?」

 奥村は、私に改めてそう言われると、少し当惑した表情をうつむけていたが、つと目を上げると唇を引き締め、私を凝視した。

 どのくらいその姿勢でいたろうか。私も彼の凝視をはね返すように見つめていた。彼の強い目の光に苦しいものを感じ出したとき、彼は両手を高く差し上げ

「だめだ」

 と悲痛な声を発した。

「田沼、いまは駄目だ。もうしばらく待ってくれ」

 待つも待たぬもない。この話は彼から出たものだ。心に多少の気がかりはあったものの、それきりとんと忘れてしまい、今日に至ってしまったのだ。

 私は、彼の手紙を握り締めながら、当時を思い返した。彼の言う、バルムの洞窟以外のことに触手を伸ばしても、野辺山の林のなかで言いよどんだことに繋がるものは何もない。私は、考えることを断念した。彼の記録を読んでいけば自然に知れることだ。

 私は、西に傾いた陽に背を向け、丹念に書き込まれた奥村のノートを取り上げた。


 成田を二時間遅れで出発した機も、モスクーでの機体整備と給油も終わり、再び空へ舞い上がった。

 ロビーで話をしていた和服の夫人の姿は同じような和服姿の女性たちに埋没してどこに座っているか見分けがつかなかったが、青年は数席後方の窓際に見えていた。

 ヨーロッパ大陸は闇のなかに眠っていた。機内の人々も思い思いのポーズで仮眠していた。ぼくは自分では興奮していると思っていなかったが、目を閉じてもなかなか眠りにつくことができないでいた。

 モスクーの空港ロビーの窓に燃えていた夕日。地平線を真紅に染めていた夕日。その夕日の彼方から自分を招くバルムの洞窟。数万年、いや、もっと遠い昔に戻る。  広大なヨーロッパの様子が点滅ランプをぴかぴかさせながら、ぼくの頭のなかでポイントを指し示していた。

 ぼくの空想は、第四紀の洪積世に飛んでいた。四回の大氷河期。二回の寒冷期。三回の間氷期が洪積世にあった。ぼくの心はおおよそ百数十万年も前のある地点にいた。

 現在の北欧は氷の下にあって、なかでもバルト海のボトニア湾、つまり、ノルウェーとスウェーデンに囲まれた地域は、現在のグリーンランドや南極大陸の氷の厚さと同じくらいだったらしい。

 ニューヨークからシアトルまで線を引くと、その北側は氷の下ということになる。ニューヨークにあるセントラル・パークには、地元では決して見られない大きな石があちらこちらに転がっている。それは、二万年前の氷河期の折りに、押し出されてきた石で、『迷子石』と呼ばれているものもあるくらいだ。

 フランス中部の大地も氷の下にあった。それより南は草原がつづき、氷に追われて南下したマンモスやトナカイが、わがもの顔に大地を揺り動かしていた。ギュンツののち、間氷期が地表を覆うと、氷の下から次第に青い草が顔を覗かせ、氷は両極に後退した。

 草木が繁茂し、北方の動植物に替わって、南方の動植物がフランスやドイツの広大な平原を埋め尽くしていった。

 ぼくは人類学に精通していないので何とも言えないが、たぶん、寒冷気だった数万年前にも既に原人らは洞窟に住んで、火を持っていたのではないだろうか。そうして、彼等は、野獣と共に自然のなかで共存していたはずだ。

 二万数千年前に滅んでしまったネアンデルタール人だって火を使い、壁画を書いていたと思う。ゴリラやオランウータンとホモサピエンスとの大きな違いは、精神構造がまるきり違っていたことではないだろうか。

 ホモサピエンスは、仲間の死を悼み、きちんと埋葬してやることと、素晴らしい言語を持っていることだ。

 ネアンデルタール人を滅びに追いやったと言われているクロマニヨン人も、旧石器時代には洞窟に住み、狩りをしながら自分たちの思いを壁画に残していた。そして、言語をもって意思の伝達を行ない、涙をもって仲間を埋葬していたようだ。

 彼等は、ぼくがこれから訪れようとしているバルムの洞窟とは、大陸を挟んでちょうど反対側に暮らしていたんだ。だから、クレミウの奥にあるバルムの洞窟にも原人が野獣と戦いながら、火を持ち、壁画を描いていたとしてもそう不思議なことでもあるまい。

 ぼくの乗った機は、オルリーまであと二時間ほどだ。眠るつもりだったのに目が冴え、思わず大学ノートを開いていた。どうして筆無精のぼくが日記を付ける気になったのか自分でも不思議だ。しかし、一つだけ言えることがある。それは、日本を発つ前に、君とコンタクトできなかったことだ。

 モスクーの空港ロビーの長椅子に背を預け、地平線の彼方に夕日が赤々と燃えているのを見ているうちに、ぼくは矢も盾もたまらなくなってペンを取り上げたんだ。この大学ノートを君に見せながら、いつの日か、君との親交を暖め合える日がくることを願いつつ書き出したのだ。

 上越の宿で家族を失ったぼくにとって、君の存在は兄弟と同じようなものだ。だから、やがて、君に語らねばならない私憤に関しても、余すことなく大学ノートに記すつもりなんだ。こうやって書いているうちに、前方に赤ランプがともり、『ベルト着用 喫煙ご遠慮』という文字が表示された。

 それと時を同じくして、機内に嘆息とも歓声ともつかぬどよめきが起こった。乗客たちは座ったままで、旅の緊張を解きほぐしていた。そういえば、ぼくは隣席の人を全く意識していなかった。その人が成田から乗ったものか、それともモスクーから機乗したのかも覚えていない。ペンが走っているついでに、その人の横顔を書いておこう。

 エコノミークラスでも、ぼくの席は最前列だった。三人掛けだったが、いまは二人。相席の女性は通路側に座り、ぼくは窓側に座っていた。年のころなら二十五、六歳だろうか。一見して、芸術家志望といったアトモスフェールを感じさせる人だった。

 彼女の髪は、肩をすぎ、首を形よく包んでいた。鼻は横から見るかぎり、高いとは言えない。厳密にいえば、肩に流した髪が邪魔をしていて、はっきり見切ることができなかったのだ。

 それに比べ、睫毛が印象的だった。どんな瞳を持っているのか、彼女は、手に持った本に視線を落としているので知ることができない。唇の形もわからない。なぜなら、黒髪が右の頬を隠し、横からでは見ることができなかったからだ。だが、細過ぎる肩先にもの寂しさが感じられた。

 彼女は、白の木綿のブラウスと、黒のスカートという軽装だった。驚いたことに、彼女は、素足でサンダルばきだった。

 空港の明りが目の高さより上になったとき、軽い震動を感じた。機内に安堵のため息が流れた。この情景は、機が離着陸する瞬間に見られるお決まりのものだ。そうして、完全に停止しないうちに、われ先に出口へ向かうのもお決まりだった。

 ぼくは最前列に座っていたので、込み合わない前に立とうとすると、隣席の人が席を一つ寄せてきた。彼女も立つものと思っていたので、不意の行動に、ぼくとしても出るに出られなくなり、仕方なくもとの席に腰をおろした。

 彼女は、一瞬、ぼくに視線を向けたようだったが、黙ったまま相変わらず本を読み続けていた。ぼくもポケットから地質学の小冊子を取り出した。

「いやですわねぇ。どうして慌てて降りようとするのかしら」

 いきなり隣席の女性が小声で言った。成田から今まで十数時間。モスクーからでも数時間。われわれは一言も口を利いていない。ぼくは驚いて彼女を凝視した。

「ふふふ。急に声をかけたので驚いていらっしゃるのね」

 彼女は、屈託のないほほ笑みをぼくに向けた。ぼくは初めて彼女の顔を正面から見ることができた。

 左の頬に大きな笑窪があった。唇は受け口で、紅も差していないのに豊潤にほころんでいた。黒髪で見えていなかった鼻もくっきり見ることができた。

 確かに、ぼくが感じ取ったように高い鼻ではなかったが、鼻梁は瞳同様、どこまでも澄み切っていると思った。

 ぼくはすっかりどぎまぎしてしまった。だから、あとになって思い出そうとしても、彼女に何と応じたか覚えがない。

 そんなぼくの心を読んだかのように、楽しそうな声を上げて笑った。そうして、乗客の少なくなった通路に視線を走らせながら、ゆっくり立ち上がった。 

「あなた、今夜の宿は決まっていますの?」

 二人が肩を触れ合うようにタラップを降りつめたとき、彼女は、改まった口調で言った。

「いえ、でもパリに来たときは常宿にしているホテルがあるんです」

「あら、そんなに何回も来ていますの?」

「はあ、今回で三度めです」

「じゃあ大丈夫ね」

 ぼくは彼女の言う「大丈夫ね」という言葉が可笑しく、つい吹き出してしまった。どうやら彼女には、ぼくがお上りさんに見えたらしい。夏のパリへ突然やってきてもホテルなど簡単に取れるはずがない。それで心配してくれたのだろう。

「でも予約していないんでしょ? それでしたら無理じゃないかしら」

 ぼくが思ったとおり、彼女は、宿のことを心配していてくれた。 

「もしよろしかったら、わたしのアパルトマンへいらっしゃいませんか。空室もありますし。それに、同国のお方をお連れすれば家族の者も喜びますから」

「あなたはご家族でパリに住んでいるんですか」

「ええ、まあね…」

 彼女は、少し口籠って言った。

 われわれの目の前に税関員の髭面が待ち構えていた。隣席の女性も、ぼくにしても、申告しなければならないようなものはない。ぼくは一刻も早くバルムの洞窟へいきたい。しかし、いまは真夜中。機内でも睡眠を取っていなかったので、とにかく眠りたかった。誘ってくれた女性に済まないと思ったが、常宿にしているホテルに電話をした。

 夜中のせいだろう。いかにも不機嫌といった男の声で

「ああ、残念ですムッシュ。今夜は満室でして。お気の毒です」

 ぼくが、

「それじゃあどこか」

 と言おうとすると、男は舌打ちをしながら電話を切ってしまった。

「お気の毒です」

 と言っただけでも男としては上出来だったのかもしれない。

 ぼくは空港ロビーを出ると、タクシーを待つ列の後ろに立った。

 七月のパリの空は、夜更けていてもどことなく明るみがある。星を捜してみたが、こう明るくては見つかりそうもなかった。ぼくより先にタクシーを待っていた隣席の女性が振り返って手まねきをしている。ぼくは列を離れて彼女の側へいった。

「ホテル取れましたの?」

 と、ぼくの近づくのを待って、彼女は、小声で言った。かぶりを振ると

「そうでしょう! 今ごろのパリは観光客でいっぱいよ。で、どうなさいますの?」

「モンパルナスの方面へいくだけいってみます」

 機内では二十五、六歳に見えた彼女も、快活に笑う姿を見るかぎりでは、どう見ても二十歳前後に見える。

「とにかくオデオン付近でホテルを捜してみますよ」

 と、相乗りしたタクシーのなかで、ぼくは彼女に言った。





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