残照 第3回


森亜人《もり・あじん》



      第3章

 サン ジェルマン デュプレ大聖堂の鐘の音が早朝のセーヌ左岸に流れ出し、車のエンジンの響きがホテルの窓から忍び込んでくる。ぼくは、荘厳な大聖堂の鐘の響きのなかで、法悦にひたっていた。

 さわやかさが五体を包含している。鳩の群れののどかな鳴き声、雀たちの長広舌、腹に響くエンジン音。いつもなら耳を押さえて毛布の奥へ潜り込むぼくだったが、今朝は決して不快感はなかった。

 だが、やはり寝床から離れがたく、ぼくは時を惜しむ学生のような勢いでベッドに潜り直した。東京では決して味わうことのできない宝玉のような早朝の余韻だった。こんな気分のときは、ギュンツもミンデルもない。古生代も中生代もない。造山帯も断層もない。ひたすらベッドのぬくもりだけを味わう濃密なまどろみだった。

 オルリーからサン ミッシュまで同乗した女性の行為にあまえようかとも考えたが、結局、この三つ星のホテルに泊まってしまった。

 いまは九時になるところだ。そろそろ起きなくてはいけない。あれほどバルムの洞窟に心を奪われていたぼくなのに、いつもの悪癖が顔を出し、眠いと全てがおっくうになる。このぬくもりこそ、誰のものでもない。こうして寝ている自分が独占し得る唯一のタイムカプセルだ。

 もうパリまで来ている。バルムも列車に乗れば数時間後には行ける。ここまでくれば目的地に来たようなものだ。いつもの怠け心が顔を覗かせ、ぼくは毛布の端を頭の上まで引き上げた。

 ぼくは、ホテルの従業員がドアをノックするのではないかと、耳からアンテナを毛布の外へ伸ばせるだけ伸ばしていた。

 ありがたいことに、ホテル内は人の気配もないほど静まり返っている。東京のアパルトマンも静かだったが、ここの静けさは隠蔽された鉄の箱のなかのようだった。

 それにしても、昨夜、サン ミッシュのこのホテル近くまで送ってくれた彼女の誘いに載らずに少々高いと思ったが、ゆっくり泊まれたことを大いに満足して、改めて手足をぐうんと伸ばし、その姿勢で身を起こした。

 宿泊費は高かった。こんな高いホテルには二晩と泊まりたくない。今夜は今夜で考えれ ばいい。とにかく、クレミウ周辺の様子がどんな環境になっているかわからない。野宿することも覚悟しておかなければなるまい。そのためには一式買い求めておいたほうがいいだろう。

 そう思って、クロワッサンとカフェオレを胃袋に納めてぼくはホテルを出た。

 外は夏の陽光でいっぱいだった。直射日光は熱い。だが、蔭に入ると、たちまち汗は引いてしまう。ぼくは当てもなく、オデオンから大聖堂に向かって歩いていった。ロマネスク調のどっしりした大聖堂の鐘楼が、さわやかなパリの空に伸びている。

 ぼくの歩いているところは、明るいパリモードの店が並び、若い男女が店を覗き込みながら、ぶらぶら歩いているようなところだ。さすがに夏のパリは観光客でいっぱいだ。特に、日本人の観光客の群れが目につく。

 通りの反対側には、装身具屋や、ギャラリーが軒を並べている。まだ夏休みに入っていないせいか、皮膚の色の異なる学生たちが群れていた。それも、白人よりもアルジェリアやベトナムのハーフが多いように思われた。

 むろん、日本人の影も視線の届く範囲に数え切れないほどいた。ぼくもその仲間の一人に違いないが、観光でもなく大学生でもないので、どこか皆を遠い距離から、ふうーん、といった気分で見ることができた。

 どの日本人も歩度がゆっくりしている。少しでも長い時間、パリモードの雰囲気に慕っていたいのだろうと、ぼくは何のおせっかいがましい憶測など心の角に挟み込むことなく、皆の歩調に合わせて大聖堂を指して歩いていった。

 オデオンと大聖堂のなかほど辺りまできたぼくは、思わず立ちすくんでしまった。もしそのとき、両足を揃えて立っていたなら、倒れていたかもしれないと思うほどの唐突さでぼくの足は見えない鎖に捕縛されてしまった。

 と、あるこいきなブティックのウィンドーに、あの人が好んで着ていたのと同じようなブラウスがあった。忘れようとしてフランスへ逃げてきたというのに。白地に淡い春を思わせるピンクの細かい花が群がり咲き、胸のところはピンタックされていた。

 フランスでは珍しく、どこか東洋系の顔をしたマヌカンが、胸の高まりを強調するかのようなポーズで、ブラウスを着ていた。そのこともぼくの心の足を掬った。

 ぼくが苦しい感動に胸を痛めて茫然とそれを見つめていると、いきなり肩を叩く人がいた。意識を外にしていたぼくは、軽く叩かれたにもかかわらず、思わず大きくよろめいてしまった。

「どうなさったの?」

 そう言って、小粒の白い歯を見せながら声をかけたのは、機内で同席していた伊達まり嬢だった。

 正直なところ、今が今まで、彼女の名前を失念していたつもりはないが、ホテルで朝食を取りながら、機内からタクシーに乗るまでのいきさつを思い出していたときは、名前がふっと沈んでいて記憶の断片に浮び上がってこなかった。

 その彼女に肩を叩かれて話し掛けられたとたん、『伊達まり』と頭のなかに炎を送り込まれたように熱く思い出したのだ。

「ずいぶんあのブラウスに気を奪われていたみたいね」

 彼女は人差指を立てて弧を描かせてからウィンドに向けて言った。

 ぼくは言葉に詰まり、伊達まり嬢の顔と、ウィンドーとを交互に見るだけだった。ウィンドーのなかに飾られているブラウスの可愛い花が、ぼくを嘲弄するかのように咲き誇っている。ぼくは彼女の言葉を適当にあしらう文句も浮かばないままその場に立っていた。

「よく眠れまして? で、朝食もちゃんと取りましたの? 顔の色が冴えないみたいね」

 夜の明りのなかでしか見ていない彼女は、輝く日の下でまぶしくほほ笑んでいる。ウィンドーのブラウスから、日本のあの人に繋がる記憶が疎ましく思えるだけに、彼女の声も姿も全てが清楚に感じられた。

「あのブラウス、どなたかに買って差し上げたいのかしら? もしよろしかったら、わたしが買ってきましょうか」

 ぼくは閉口してしまった。おせっかいとも思われる行為に軽く受け流すより、彼女の言葉が心に屈託してきた。その場から逃げ出したい心を懸命に征し

「いや別にそういうつもりではありません。あれとそっくりなのを着ていた人が日本にいたものですから」

 と、少し気色ばんで言った。

 自分では明るく言ったつもりだが、言葉の端々に自嘲するものが表われていたとみえ、伊達まり嬢は少し首を傾げ、何か言おうと唇の端に力を入れたが、気分を変えるように

「ねぇ、あなたはパリに何をしにいらしったの?」

 と言った。

 彼女は、意識的に話題を変えた気がする。そのことはぼくの気分を楽にしてくれたが、自分の内面を察しられたように思え、ちょっと複雑な考えに捕らわれてしまった。

「地質学や考古学に、いささか興味がありましてね」

 ぼくは自分の腹のなかを読まれたことに幾分の不満はあったが、彼女の心遣いに応えることにして、そう言った。

「あら! それじゃあ、あなたは学者さんでしたの? わたし、てっきり風来坊学生だとばかり思っていましたのよ」

 ぼくの返事がよほど意外だったのか、彼女は、口をしばらくあんぐりと開いたまま、ぼくをじっと見つめていた。

 彼女の歯があまりにも白いため、街路樹の緑が映るのではないかと、ぼくまでも口を開いたまま、彼女の顔に見入っていた。歩道に立つ二人を挟むように、観光客の群れが通り過ぎていく。

「学者というほどでもありませんが、半ば道楽、半ば本気といったところでしょうか」

 ぼくは観光客の邪魔にならないように、肩をすぼめながら言った。

「わたしの洞察眼も鈍ったものね。可笑しくなるわ」

 伊達まり嬢も歩行者の邪魔にならないように、ぼくの傍らに身を寄せながらそう言って、クリスチャンディオールの花模様のハンカチを口許へ持っていった。ぼくは彼女のお陰で、あの人のことを幾分なりとも記憶の隅に追いやることができた。

「で、どちらかへいって調査なさいますの?」

「はあ、バルムの洞窟へいくところです」

 ぼくが気乗りしないような声で言うと、彼女は、目を大きく見開いて

「バルムの洞窟ですって!」

 と、周囲の人が足をとめたほどの声で言った。

「あなたは洞窟のことを知っているんですか?」

「知ってるも何もって、去年の秋だったかしら。そうそう、ぶどうの収穫が始まったころだったわ。友人とボジョレーにいったのよ。そのときに洞窟までドライブしたわ」

 今度はぼくの驚く番だった。日本人でバルムの洞窟を知っている人がいるなんて驚きに価する。

「で、どんな様子でしたか」

 ぼくは伊達まり嬢の細い肩を掴む勢いで身を乗り出した。彼女は、ちょっと当惑したように、しばらく大聖堂の鐘楼に目を向けていた。

「それがあ…。あのう…。ほんとのところを言いますとよくわかりませんでしたの」

 と、彼女としては歯切れの悪い口調で言った。

「わからない!」

 ぼくはすこし怒りを含んだ声になっていたかもしれない。

「えぇ。近いはずだったの。だのに、途中で道を間違えたらしいの。洞窟についたときは夕方になっていたんです。女の子だけだったでしょ。何となく恐ろしくって…。なかを見ないで帰ってきちゃったのよ。ごめんなさい」

 彼女は、本当に済まなそうに頭を下げて詫た。

 彼女は、快活で言いたいことをはっきり言うが、案外、心の優しい持ち主らしい。ぼくも気色ばんだ物言いをしただけに、少し照れを覚え、その場を繕うつもりでもなかったが、ふと振り返った。

 さっき、ぼくの心を乱したウィンドーのブラウスは、人の流れのなかに隠れて見えなくなっていた。

「ねぇあなた、わたし、あなたのお名前をうかがってませんけれど、ご都合が悪いんなら強いてお聞きしませんが…」

―― そうか。タクシーを降りるときに彼女の名前と電話番号は教えてもらったが、自分の名は言ってなかったか。 ――

 失礼といえば失礼だったが、その夜かぎりと思っていたので、すっかり失念していた。

 伊達まり嬢は婉曲にぼくの無礼を揶揄した物言いをしたが、ちっとも傷つけられる感じはしなかった。

 そう言った彼女の口元には、声とは違う膨らみがやんわりと揺らめいていた。ぼくは彼女のアイロニーな微笑を切り返すように

「いや都合など別に悪くありませんよ。つい忘れていただけです」

 と、少しぶっきらぼうに言った。

「奥村隆夫さん。ずいぶん平凡なお名前ですのね。わたし、もっと古風なお名前だと思っていましたわ」

 伊達まり嬢は首を左に傾げ、何か意味ありげに、ふふふ、と笑った。

―― 平凡で悪かったね。 ――

 と、ぼくは、もう少しのところで声に出すところだった。だが、左の頬に、彼女をシャルマンに見せる笑窪の浮かんだのを見て、ぼくは憤慨するどころか一緒になって笑ってしまった。

 いつの間にぼくたちは、サン ジェルマン デュプレ大聖堂の庭内に入っていたのであろうか。気づくと、目の前にロマネスク調の建物がそびえていた。花壇には色彩も豊かな花が今を盛りと咲き匂っていた。

「で、いつですの?」

 彼女は、鐘楼を見上げているぼくの肩に片手を置いて言った。

 ぼくは彼女の言っている意味がわからなかったので、彼女の目を覗き込むようにして黙っていた。

「あら、ごめんなさい。わたしの悪い癖ですの。自分だけわかっていて言うものですから、いつもみなに、ほら始まった、といわれていますの」

 ぼくたちは、庭の隅へいって、枝を広げている木陰に立っていた。そこからは、鐘楼を仰ぎ見ることはできないが、大聖堂全体から流れ出る重厚な雰囲気が、周囲に歴史の軋みを感じさせていることくらい、建築の良さなど知らないぼくにも理解できそうだった。

 観光客なら聖堂内に入ってみるだろう。ぼくは、聖域だからというつもりもないが、やはり、そこは無宗教のものが入るべきところでないと思い、木陰に立って、夏の光をいっぱいに浴びている堂々とした建物の重みをぼんやり見ていた。

「バルムの洞窟ですわ」

 伊達まり嬢が青空のような瞳でぼくを見上げて言った。

「ああ、洞窟ですか」

 ぼくは彼女の問いに、即座に昼の列車ですと言えなかったが、じっとぼくを見上げている彼女のもの言いたげな笑窪にのろのろと答えた。

「昼の列車に乗るつもりです」

「そう。昼の列車ですの?」

「いやいや。キャンプに必要な品々を用意しないといけないんです。東京のアパートには、いつ出かけてもいいようにテント一式は置いてあるんですが。今回は整理してなかったので手ぶらで来てしまったんです」

「でしたらお供しますわ。わたし、知っているお店がありますのよ。でも、その前にお食事にしませんか?」

 ぼくは彼女の意見に賛成して、観光客の一団が庭内に入ってきたのを機に、彼女のあとから大聖堂をあとにした。

 雑多な人などといったら失礼になるだろうが、確かに肌の色を取り上げても、自分と同じ黄色人種もいれば、アメリカ・インディアンと想像できる人、アフリカからやってきた人だろうと思われる色の人たちで歩道は肩を接するほどだった。

 レストランの店内は満席に近かった。ぼくたちは、アペリティフにサンザノを注文し、料理は、羊の腿肉にサヤインゲンを添えたものを頼んだ。サンザノにオリーブも添えられていた。伊達まり嬢は、しなやかな指先でオリーブを挟むと、口の前に持ってゆき、丸薬をまるめるようなしぐさをしていた。

 彼女の困ったような様子を見て、ぼくは二年前、初めてフランスへやってきた日の昼食を思い出してしまった。

 ぼくは、オリーブの実を珍しさから、いきなり口のなかへ放り込んだ。瞬間、体内に入った異物を生理的に押し出すような吐きけが喉をついた。

以来、ぼくはオリーブの顔を見るのも嫌になったのだ。そのぼくが、伊達まり嬢と食卓を囲み、いまわしいオリーブを前にしても以前ほど嫌悪を感じないでいた。

 彼女は、指先でまるめていたオリーブの実を、前歯で軽く噛んだ。そうして、ぼくにもわかるほど渋い顔をしてみせた。

「伊達さん、君もそいつが嫌なようですね」

 ぼくは彼女が可哀そうになってそう言った。

「あなたもなの? ふふふ」

 伊達まり嬢は、辛いことから救われた人のようにほほ笑み、小さな歯形のついたオリーブの実を、ハンドバッグから取り出したティッシュに包んでしまった。

「ねぇ、口直しにブルゴーニュ産の赤を取りましょうよ。ここのワインとってもおいしいのよ」

 彼女は、そう言ってボーイを呼んだ。

 ぼくは、彼女がこの店に一人で来てワインを飲むんだろうかと、危ぶんだ。軽く手を上げて、「ギャルソン」と言う声のなかに、不慣れとは到底思えない慣れ親しんだ感じがしたからだ。

 自分の自己弁護をするわけではないが、ぼくは今でもボーイを呼ぶとき、ふつうの感覚ではいられない少し慌てた思いになるからだ。それに比べ、伊達嬢の仕草は、キャンヴァスに画かれた絵そのもののように生き生きして見えた。

 心に動揺がなかったと否定しない。とはいえ、死んだ妹と同じ年齢くらいにしか見えない伊達嬢の親のことも重ねて考えていたのだ。

 妹には、伊達まり嬢のようなまねはできない。たとえ外国へ留学したいと言い出しても、あの両親では許してもらえなかったであろう。いったい、この人の両親はどんな人たちだろうかと危ぶんだのだ。

 そんな繰り言も、芳醇なワインにたちまち霧散してしまった。ぼくもそうだが、伊達嬢もグラスをかなり重ねたので、色白の頬を染めていた。

 二人は、レストランの自動ドアが完全に開き切らないうちに並んで出ていった。いつものぼくなら、同伴者がすっかり戸外へ出るまで待っている。それが、酔いも手伝っていたのかもしれないが、自然に体が動いて、伊達嬢と並んで夏の日盛りのなかへ軽々と出ていったのだ。

 サン ミッシュは人であふれていた。ぼくたちは、モンマルトルへいこうと地下鉄の階段を降りていった。

 車内は、モンマルトルへ向かうメトロにしては静かだった。長椅子の向かい合いに親子づれがいた。ぼくたちが珍しいらしく、小さな女の子は、ぼくたちが電車を降りるまで飽きもしないで見つめていた。

 パリで東洋人を見るのは別に珍しくもないはずなのに、女の子は瞬きをするのも惜しむように見つめていたのには、少しうんざりさせられた。もしかしたら、東洋人も滅多にこないような田舎に暮らしている親子づれなのかもしれない。女の子が母親の耳に口を寄せて何か囁いている姿を見ると、なおのことそう思ってしまった。

 地下鉄を降りると、頭上にサクレクール寺院の尖塔がそびえていた。伊達まり嬢の知り合いの店はそれほど大きくなかったが、品は豊富だった。店の主人は大きな腹を揺すりながら、懐かしそうに伊達まり嬢の手を握った。

「わたしの友達が、この人と同じアパルトマンに住んでいたのよ」

 と、声を低めて説明してくれた。

 店にやってくるまでのぼくは、サン ミッシュのブティックのウィンドに見かけたブラウスの記憶を除外すれば身も軽かった。店をあとにするときには、これからアルプスへ登る出立ちに変身していた。

「ねぇ奥村さん、わたし、あそこまで上ってみたいんですけど、よろしかったら付き合ってくださいませんか? それともリヨン駅へ直行しますの?」

 彼女は、高い建物の間から見え隠れしているサクレクールの大伽藍を示して言った。それより更に高いところに、白い雲のひと筋がたなびいていた。

 ぼくは、再び彼女に心を掬い上げられた。

 なぜなら、キャンピングセットを整えれば、バルムに向かわねばならない。一人になれば、心の底にむりやり押し込んである苦汁が、またぞろ込みあげてくることを承知していたからだ。ぼくはリュックをひと揺すりして、大きくうなずいた。

「大丈夫かしら」

 と、彼女は、リュックとモンマルトルの長い石段を見上げて言った。

 尖った鐘楼が、視線の遥か上方で、夏の日に輝いている。

「大丈夫ですよ。日本では日雇いをしていましたから」

「あら、地質学のお仕事のことを日雇いと言うんですの?」 

 石段をゆっくり上りながら彼女は、言う。

「いやいや。本当の日雇いですよ。道路工事や地下鉄工事です。ぼくは道楽者ですから、定まった勤務はだめなんです。勤めてしまえば、自由な時間が得られなくなりますからね」

「それで日雇いをしていたのね。でも、お金にならないでしょ?」

 彼女の口調に、どうしてぼくが何回も外国へこられるか不思議に思っている、といった気配が窺われた。

 ぼくは自分の生活のことなど、彼女に語る必要もないと思ったので、黙ったまま階段を上っていった。

 長い石段の尽きたところがサクレクール寺院だった。礼拝堂内は静寂そのもので、このような建築物特有の高雅が堂内に満ちていた。この時期には観光客で騒然とした空気が堂内に漂っているものだが、きょう、いや、今にかぎって誰もいなかった。

 入口付近に大きな献金箱が置いてあった。ぼくは何の考えもなく、ポケットから五フラン硬貨をつまみ出し、賽銭口に滑り込ませた。

 ちゃりんという音が堂内に目立った。彼女も同額の硬貨を滑り込ませると、献金箱はよほど嬉しかったとみえ、ぼくが入れたときより派手な音を立ててくれた。二人は、思ってもいないほどの音に顔を見合わせ、つい吹き出してしまった。

「この献金箱にどのくらい入っているか賭けましょうか?」

 と、伊達まり嬢が献金箱の縁に手を添えたままの姿勢で、小声で言った。

 ぼくは自分自身が信心家だとは思っていないが、つい祭壇に目をやってしまった。それにしても、献金箱のなかの金額を言い当てたところで、いったい誰が証明してくれるというのだろうか。まさか献金箱をひっくり返すわけにもいかないだろうに…。

「そんなことを言ったら失礼になりはしないかなぁ」

 ぼくは、金なら幾らでも食ってやるぞといわんばかりに口を大きく開いている献金箱を、聖堂いっぱいにぶちまけた光景を想像しながら、彼女より声を秘そめて言った。

「そうね。少し不謹慎だったわね」

 彼女は、ちょっと首をすくめてから、祭壇に軽く頭を下げながら言った。

 二人は、聖堂内の静けさに心を洗われる思いで、十分ほど後ろの席に座っていたが、観光客の一団がざわざわと入ってくる気配に、どちらからともなく腰を上げ、彼等と肩を接するように外へ出た。

 背中のリュックで調子を取りながら石段を降りていく。誰が飾ったのか、植木鉢が、段の左端に二十個ばかり並んでいた。もしかしたら前からそこにあったのかもしれない。伊達まり嬢が一つ一つの鉢を覗き込むようにして

「お花っていつ見てもいいわねぇ」

 と言って、ぼくを見上げた。

「ねぇ、さっき上ってきたときもこの植木鉢は置いてあったかなぁ…」

 と、ぼくも彼女の背後から覗き込みながら聞いてみた。

「そうねぇ…。これだけ置いてあるんですもの、絶対に気づくはずよねぇ」

 と、額の汗をハンカチで拭いながら、彼女も不思議そうに首を傾げて言った。

 どの花も見ごろだった。もともと花に興味のないぼくはそれほど美しいとも感じてこなかった。まだ野に咲いている花なら見てもそれなりに美しさを感じたものだが、こうして、鉢になど植えられてしまった花には全く興味がなかった。だが、彼女に示されて、改めて花の楚々と咲いている姿を見ると、変な話だが、本当に心の底まで染み込む思いだった。

 数万年も昔に咲いていた花の花粉や、原形もそのままの化石を掘り出しても、それが何という名の花なのか判断もつかないくらい、花には興味がなかったのだ。そんなことは詳しい連中に任せておけばいいと思っていた。そんなぼくに、伊達まり嬢は

「こちらの植木鉢から、ハイビスカス、マダガスカルジャスミン、トルコキキョー、アンスリーム・トラビスカンティア。それから、瓶に差してあるのは、アルストロメリア、カンナ、マーガレット、グラジオラス。etc…よ」

 と、指し示して、少し節をつけながら言った。

 どの花の葉にも露が乗っている。それに日が映って、宝石のように輝いている。雨の降った形跡もないところから、やはり誰かが運んできたのだろう。

 ぼくは彼女の教えてくれた花の名前など、石段を数段降りたときは忘れていた。花の名前がわかるようになったのは、ずっとあとのことだ。でも、葉の上に乗っている露の輝きのように、彼女の澄んだ声の輪郭だけは残っていた。

 石段を降りていくと、途中に踊り場がある。二人は足をとめて振り返ってみた。大聖堂の尖塔が、青空に突き刺すように傲然と屹立していた。ぼくに宗教心があったなら、荘厳で、威風堂々とそびえている塔に十字を切ったであろう。

 ぼくの読んだ本のなかに、テイヤール・ド・シャルダンの『人間と神』というのがあった。古代人が自然の推移に驚嘆し、なすすべを失ったとき、神という不変のものに縋ろうとしたのかもしれない。

 シャルダンの思惟は理解できそうもないが、私論を言わせてもらうなら、人間と神の関係は、大宇宙の営みのなかのごく自然的発露のように思える。この問題を、塔を見上げている伊達まり嬢に向けてみたら、彼女は、何と答えるか興味を覚えた。

「伊達さん、君は神を信じられますか」

 ぼくが突然そんなことを言い出したので、彼女は、大きく瞳を張ってぼくを見つめた。真っ黒な瞳というより、少し茶色が塗りこめられた瞳孔にいたずらっぽさを浮かべて

「そうねぇ。どちらかと言えば信じるほうかしら。でもね、神を信じるとか信じないと言う前に、神の存在を論ずるべきじゃないかしら」

 と言った。

 ぼくは彼女の言い分を単純に受け入れ

「じゃあ、君は神の存在を肯定しているわけですね」

 と言い直した。

 すると彼女は、左の手に持ってひらひらさせていたハンカチを口に当てて

「奥村さんって正直な方なのね」

 と言って、その場に腰をかがめて、弾かれたように笑い出した。ぼくも笑った。自分の愚かさが可笑しいのか、彼女の屈託のない笑いに引きずり込まれてのものか至極曖昧だったが、久しぶりに声を立てて笑った。

 そのとき、サクレクール寺院から鐘が鳴り出した。幾つもの色彩を込めた音色が、日本の寺の梵鐘とはあまりにも異なる響きを空高く撒き散らした。

 モンマルトルの丘を滑るように、音の花吹雪が包み込み、甘美な音色が舞い散っていく。そのなかを、崇高な恩寵の音とは無関係と思われそうな十数名の日本人観光客が、足早に石段を上ってきた。笑い続けているぼくたちの横を通り抜けながら、そのうちの一人がハンカチで鼻を押さえるようにして

「まあ恥ずかしい。留学生の面汚しですわね」

 と、和服の裾を大きく揺らめかせながら聞こえよがしに言った。

 ぼくは、モスクーの空港ロビーにいた和服姿の夫人の端整な横顔を唐突に思い出した。

 無論、目の前を登っていくグループのなかに、あのときの夫人がいるとは思わなかったが、和服を見て、もしやと、視野の端でなぞってみたが、それらしき女性の姿がなかったことに、なぜかほっとしていた。

「わたしね」

 と、伊達まり嬢は笑いを納めると、きらきらする瞳をぼくに向けた。

「わたしね、神さまってほんとにいらっしゃると思うの。だってごらんなさいな。この空の色、とても美しいと思いません? でもね、こんなに美しい空も冬になれば見られないのよ。自然というものは、つねに、美とそれに抗う破壊とが、一定の法則のなかで共存しているのではないかしら。ちょうど生物の生と死みたいにね」

 彼女は、両の手のひらを卵のようにし、それを徐々に開いていった。手のひらのなかに包み込まれていたハンカチが、ふんわりと現われた。そうして、今度は全てを断ち切るように、ハンカチを勢いよく振り払った。

 生まれたばかりの雛は彼女の足元に落ちて、たちまち動かないものに変わってしまった。ぼくには、彼女の行為が少し残酷に見えた。瞬間まで生きていたハンカチ。足元で冷たくなってしまったハンカチ。その行為と、スキー場の悲惨な光景とオーバーラップした。

 彼女は、払い落とした命を拾い上げると、ぼくの思いになど頓着せず、先を続けた。

「深い雪に覆われた山と、雪崩に破壊された自然。豊かな川の流れと、全てを荒廃させてしまう汚濁。ね、そうでしょ」

 彼女は、引き締めた唇の端を少し持ち上げ、ぼくの目を覗き込むようにして言った。

 ぼくは、挑むような彼女の視線を肩で掬い上げると、そのままの姿勢で後ろを振り返った。遥か上方にサクレクールの鐘楼が暮れなずむ夕日に尖端を輝かせている。最前、石段を登っていった日本人観光客の姿は視界から消えていた。

 ぼくは、彼女の言葉から思いがけないほどの鮮明さで、上越の宿の光景を目の前に見ていた。

 雪崩の下になった建物の前に、自失呆然と立ち尽くしていた人々。どの顔にも悲しみはなく、ただ口を開いたまま立っていた。

 彼等が家族の安否を気遣って、右に左に走りはじめたのは、押し下った雪がすっかり停止してから二、三分ほど経ってからだった。

 ぼくは、自分の家族の者たちが雪の下から掘り出された瞬間、彼等は生きていると思った。父の腕のなかに守られていた妹など、どこにも傷がなく、頬には赤みさえ残っていた。

 たったの数秒間で生命を奪ってしまった自然の崩壊。伊達まり嬢の言うように、雪景色の美しさと崩壊は背中合わせなのかもしれない。 

 ぼくは追憶のなかに没頭していたらしい。いつの間にモンマルトルの石段を降りきったのだろう。横にいたはずの伊達まり嬢がいない。目の前に地下鉄の入口があった。

 自然界の美しさと崩壊は、神が造られた完全なる調和だなんてぼくには考えられない。彼女は、自然界の恐るべき拷責を体験していないからこそ、夢みたいなことを言えるんだ。

 ぼくは地下鉄の入口で足をとめた。背後に軽い靴の音が近づいてきた。

「どうなさったの? わたし、何か気になるようなことを言ったのかしら」

 伊達まり嬢は息を弾ませて追いつくと、遠慮ぎみにぼくの腕に手を掛けて言った。

 ぼくは驚いて周囲を見た。反対の歩道を、子犬が尾を激しく振りながら駆けていく。その後ろを、金髪の少年が犬の名を呼びながら走っていく。

「ほんとにどうなさいましたの? わたし、やはり失礼なことを言ったのね」

「いやいや、ちょっと思い出したことがあったものですから…」

 ぼくは彼女の不安を払うように明るく言って、地下鉄の階段を先に降りていった。

 自分の心を拘束していた上越の事など彼女に語ることもないと思い、階段を降りながら、話題を変えるように

「しかし伊達さん、神が万物の主であると仮定してですよ、だったら善も悪も神が司っているんですかねぇ。美しく装わせたり剥ぎ取ったり。もしそうだとしたら、われわれ人間は神のお遊びの材料にすぎないじゃありませんか」

 ぼくは、上越の光景が心のどこかでくすぶっているせいか、少し皮肉っぽく言った。

「わたしたちが神の遊び道具かどうかわかりません。でも、できたら自然の営みの森羅万象に至るまで、神がご自身の意志力を行使すると考えています。奥村さんは? …」

 彼女は、ぼくの皮肉とも思える語調になど、全く気をとめる様子もなく、長い睫毛を上げて聞き返した。

「そうじゃないんですか」

 ぼくは、彼女に発した質問そのものについて深く考えていたわけでもなかったので、何と答えていいかわからず、反対に聞き直した。

「厳密に言うなら、違うと答えるべきじゃないかしら。なぜって、神は、宇宙の根源として光を創造されたのよ。そして、やはり創造なさった時間をコンタクトさせ、あとは光と時に任せたのだと思いますけど…」

「そうすると、神は光と時間だけを造って、あとは知らん顔というわけですね」

 ぼくはいつになくしつこく食いさがった。だが、神の存在の有無を決定づける前に、話は断ちきれになった。というのは、伊達まり嬢の友人が靴音を周囲の壁に響かせながら階段を駆け降りてきたからだった。

 その人はスポーティーな服装をしていた。小麦色に焼けた顔に白い歯がこぼれ、日除け帽をくるくる回しながら

「まり、めずらしいところで会うわねぇ。いつ戻ってきたの?」

 と言って、階段の残り三段を一気に飛び降りて、伊達まり嬢の体に自分の体をどんとぶつけてきた。

 小柄な彼女が伊達まり嬢の後ろに立っているぼくを盗み見ていた。それに気づいた伊達まり嬢がくるりと振り返って

「こちら奥村さんよ」

 と言って、目でなぞるように線を引き、再び線の上を戻って、彼女をぼくに紹介してくれた。

 二人は少し離れたところで顔を寄せ合って話し込んでいたが、伊達まり嬢の肩に両手を添えていた紺のTシャツが、彼女に身を寄せたかと思うと、伊達まり嬢の頬に唇を軽く触れ、身を翻すように、さっき駆け降りてきた階段を山兎さながらの勢いで駆け上がっていった。

 われわれは来たときと同じように長椅子に並んでいた。二つほど駅を通過するまで二人は黙っていた。

 ぼくは、モンマルトルの丘を降りながら彼女と語ったことを反芻していた。だが、横に座っている彼女の様子が気にもなっていた。彼女は、友人と何か話し込んでから言葉少なになっていたのだ。

 ぼくは、目の前を通り過ぎていく駅の名をぼんやり見送りながら今夜の宿は安いホテルにしなければと、意識の遠い部分で考えていた。

 突然、伊達まり嬢は身を震わせ、脳裏に纏わりつく何かを払うように小さな声で言った。しかし、残念ながら彼女の声は電車の騒音で聞き取れなかった。ぼくは聞き返そうと顔を横に向けた。二人は互いの言葉を聞き取ろうと、顔を寄せていたのであろう。人差指二本の距離に彼女は、顔を上に向けた姿勢でぼくを見つめていた。

 あれほどきらきらしていた瞳に、怯えのような色が浮かんでいた。ぼくが黙っているので、彼女は、身を寄せてもう一度 

「あちらにはいつ立ちますの。もちろん汽車でいくんでしょ」

 と言い直した。

 ぼくの勘違いかもしれないが、さっき彼女が呟いたことばと、今、はっきり聞こえた言葉と違うように思えた。それに、これもぼくの身勝手な言い方かもしれないが、彼女の口調のなかに救いを求めているものを感じた。

 それまで気づかないでいたほのかな香水の香りがぼくの鼻孔をくすぐった。ぼくは、彼女の問いに応じる前に、そのあまい香りを彼女に気づかれないように吸い込んだ。


「えぇ汽車です」

 ぼくは一つ星のホテルの一室で日記を書いているところだ。「えぇ汽車です」と、彼女の問いに応じたあとの心の動きまで書かなければいけないのだろうか。モスクーの空港で真紅に染まっている西の空に向かい、君と約束したかぎり、ぼくは自分の恥を忍んで書こう。


 ぼくは、「えぇ汽車です」という言葉をなるたけ曖昧に言った。そうなんだ。ぼくは破廉恥きわまる感情を心にやどしていたんだ。つまり、彼女に聞き取れないように意識的にそうしたんだ。案の定、彼女はもっと身を寄せてきた。ぼくは大きく息を吸い込んだ。

―― なんていい香りだろう! なんてさわやかな香りだろう! ――

 ぼくは、自分の心を彼女に読まれないうちに

「汽車です。昼のミストラルです」

 と大きな声で言った。

 彼女は、黒髪をぼくの頬にちょっと触れさせて身を離した。それと同時にぼくの心にたゆたっていたあまい香りも逃げていった。

 ぼくは、今、破廉恥な行為に罰を与えたところなんだ。サン ミッシュで引きとめる彼女と別れたあと、徒歩で数キロの道を歩いてきた。いまはもう九時を過ぎている。食事はパンとコーヒーという粗末なものだ。これも己への罰なんだ。

 オデオンから徒歩でモンパルナスのこのホテルまで重いリュックを背負ってきたせいか、肩や腰が痛む。大学ノートを閉じたのは午前二時だった。明日の夕方にはリヨンかクレミウにいるかもしれない。


 私は一気にここまで読んできて、ほっと息を吐いた。若い女のほのかな香りに一種の快感を味わったことを咎め、パンとコーヒーしか取らないところなど、奥村らしいと思わずにはいられなかった。

 私は彼の便りを読んでいるうちに、奥村とパリの通りを歩いていた。会ったこともない伊達まりという女性までもが形を整えて見えてくる思いだった。それが錯覚であることを教えてくれたのは、雨樋を下る雪の解ける音だった。

 私は煙草に火をつけて庭に降りた。日当たりのいい縁先に福寿草が可愛らしい蕾をつけている。早春が香ってくるようだ。私を取り巻く世界には、奥村の冷たい死に顔を感じさせるものは何もない。だが、私の心に悲しみが泉のように湧いてきた。

―― 奥村のやつ…。馬鹿なやつだ。 ――

 彼の死に顔に対面したときには、こんな悲しみなど感じなかった。春の訪れを待っている福寿草を見て、春を待ちきれなかった奥村の生きようとして行き倒れてしまった悔しさが痛く哀れに思えてきたのだ。

 彼の大学ノートや、けんめいに書き綴った便りを読み進めば、悲しみが倍増するのではないかと、息の詰まるような思いだった。





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